20.ぐーぱんちするといいよ

「所長、これからどうするつもりなんですか?」


 ようやく怒りがおさまったのか、落ち着いた声でライズが聞いてきた。

 彼の青灰色の目を見返して、リトは立ち上がる。ジェイスの魔法による治癒のおかげか、難なく動くことができた。


「今から、カミル様に会いに行こうと思っている」


 ライズが息を飲んだのが分かった。

 彼がリトの提案をよく思っていないことは分かっている。誰よりもリト自身が、そんなことは分かっていた。


 カミル=シャドール。魔法を志す者ならば、誰でも知っている大賢者。そして王立魔法道具マジックツール開発部の名誉顧問、つまりはリトとライズの上司にあたる。


 しかし四年前と違い、今ではリトとカミルの関係は大きく変化していた。そしてその変化は、常識人のライズから見て、到底好ましいとは思えないものだった。


「……オレにかけられた呪いの件ですよね。すみません」

「心配するな。レイゼルのこともあるし、さっさと片付けて帰ってくればいいさ」


 穏やかに笑ってみせても、心優しい部下の表情は晴れなかった。いつでもリトのそばにいた彼は、当然リトとカミルの関係については察している。


 けれど、ライズにかけられた呪いはリトの実力では解くことができない。

 最高位の精霊使いエレメンタルマスターでありながら、実のところカミルは腕のいい医者でもある。傷も診てもらえるし、呪いを解くことだって朝飯前だろう。

 それにリトの知人の中で、カミルの他に魔法や呪いに関するトラブルで頼れる魔法使いルーンマスターは誰も思い当たらない。


「リト、あの人と仲良しなの?」


 唐突に投げかけられた問いかけに、リトの頭は真っ白になった。


 振り返ると、そこには意志の強い藍色の瞳で見上げてくる少女。

 あの人、という言葉で、彼女がカミルのこととは顔見知りだと察してしまう。


「……仲良しと言うか、カミル様は俺の上司だからな」


 我ながらだいぶ適当な物言いだな、とリトは思う。だが、嘘ではない。


「大丈夫? いじめられない?」

「多分……いじめられないとは、思う」


 どういうわけか、ラァラはカミルに対して良く思っていないようだった。

 一般的に〝北の白き賢者〟と呼ばれているだけあって、ほとんどの場合は大賢者として尊敬されるものなのだが——、


「あの人、わたしに酷いことするんだよ」


 原因は本人にあったようだ。


 やはり、ラァラとカミルは会ったことがあった。


「そうなのか?」

「うん。縛られて羽むしられた、他にもいろいろ」


 なにをやってるんだ、あの名誉顧問。

 無垢な少女の口から出てきた言葉は明らかにイジメの線を越えた内容だ。女性の、しかもか弱い翼族ザナリールに対して、明らかな危害を加えている。


 思わず絶句し、リトは完全に固まってしまった。


 いつまでそうしていただろうか。しばしの沈黙の後、ぽつりと言った。


「……なぜ、カミル様はそんなことをするんだろうな」

「あの人、わたしを嫌っているから。わたしもあの人嫌いだし」

「そうか。怖かっただろう、ラァラ」


 翼族ザナリールの民にとって翼は身体の一部であり、羽をむしられるという行為は手足を傷付けられるに等しい。

 こんなあどけない少女に、なんて卑劣なことをするのだろう。ふつふつとリトは怒りを覚え、ひそかに手を強く握りしめる。

 かなりの恐怖と苦痛が伴ったはずだ。それなのに、ラァラはにこりと可憐な微笑みを浮かべている。


「大丈夫。あの人が襲ってきたらわたしも反撃するから。リトも襲われてるの?」


 直球な質問だった。あまりに率直すぎて、リトは言葉を失ってしまった。

 どう答えても気まずい思いしない。それに肯定してしまったら、ラァラは幻滅してしまうだろう。それでも彼女に嘘は言いたくない。


 悩みに悩み抜き、リトはしぶしぶ頷いた。


「噛まれるの?」


 今度こそ、リトは答えられなくなってしまった。

 そしてようやく理解する。ラァラは、本当のところリトとカミルがどういうなのか、すでに察してしまっているのだ。


 彼女は無言を肯定と捉えたらしい。動揺して視線を泳がせているリトを見上げて、右手を彼に向かって突き出した。


「噛まれるそうになったら、ぐーぱんちするといいよ。できる?」


 突き出されたのは、自分よりも細い右腕。それでも握りしめた拳は力強く見えた。


 これが、きっと〝ぐーぱんち〟なのだろう。

 ラァラらしい発想に、リトは思わずくすりと笑う。


 強い魔力を持つ魔族ジェマよりも、彼女の方がたくましく見える。魔法の一つも使えない華奢な少女だというのに。


 けれど、なぜだろう。

 彼女が言うなら、なんでもできそうな気になってくるのだ。どんなに不可能に思える壁だとしても、乗り越えられるかもしれないと思えてくるのだ。


「ああ、できるよ」


 リトはラァラをまっすぐ見つめたまま頷いた。

 そうして、今度こそカミルとの関係を断ち切ろうと、自分の中で誓いを立てたのだった。

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