第13話 翠の瞳、暁の星

――あなた様の瞳は、瑠璃のように美しいのですね。つい見入ってしまいます。

――そなたの髪こそ、大河のごとく豊かで長い。腕に巻き付けてなお余りある……。


「ん……」


 ふと目が覚めた仁問は、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。自分は何かの上に横たわっていて、右頬にはふかふかしたものが当たっている。凝った細工をした障子窓の外は既に白み始めており、彼の心を鋭く冷たいものがつき抜ける。


――いまは何刻だ? ここはどこの坊だ?


 新羅の王子は、昨夜起こったことを思い返そうとした。階下の楽の音に耳を傾けつつ、互いの故国について言葉を重ね、そのあとは……?


――そうだ、休沐日は終わったのだから、勤めに参らねば!


 よしんば彼が遅参したとしても、異国の王子かつ聖上の寵愛深い彼が重く罰せられることはおそらくなかろうが、彼はそうした「不公平」に潔癖であった。


 彼は焦るあまり、傍らから聞こえてくるすすり泣きに気が付くのが遅れた。かぼそい声は、自分と同じ寝台の上にうずくまる、やわらかく小山のごとき生き物から発せられている。だが、思い出した。確か昨夜、酒食ののち、ともに寝台に横たわり自分の腕に抱かれて眠っていたのは――。


「……何者だ?」


 女人との共寝とはいえ剣を側に置かずに眠ったことに対し、武人としての心得を忘れた自分を恥じながら、仁問は用心深い口調で問いかけた。ふかふかした生き物がそれに応じて振り返る。


「あっ……」

 仁問は驚愕した。深い翠色の瞳。尖った耳。全身真っ白な長毛で覆われた――。

「猫、か?」

 いや、猫には違いないだろうが、猫にしては大きすぎる。しかもその異形は、右目を前脚で押さえているのである。それに……。


「白蓮は? 彼女はどこだろう」

 半ば独り言のような呟きに、白猫の左耳がぴくりし、すすり泣きが大きくなる。


「おわかりになりませぬか? 目の前の私が」

「……?」

 よく聞けば、その声はまぎれもなく白蓮である。

「そなた……なぜそのような姿に?」

 猫は片脚で眼を押さえたまま、仁問に向き直った。


「私は波斯ペルシャの黄金の河のほとり、赤き満月の夜に生まれた猫です」

 新羅の王子は眼前の出来事を信じられぬように首を振る。

「そなたは人間ではないのか……?」

「もちろん、猫である自分を疑ったことなどございませんでした。ですが、年を経て子に先立たれてもなぜか私は死ぬこともなく、毛艶が衰えることもなく、ただ身体がずんずん大きく、ほら、尻尾もこの通りに」


――まさか!


 白蓮は尻尾を一度だけぱたんと言わせたが、それは二股に分かれていた。

「しかも、肉も魚も腹を満たすことはなくなり……」


 猫が浮かべた笑みはかの妖艶な舞姫そのもので、背筋を寒くした仁問は、明るくなる部屋のなかで、佩剣を引き寄せた。

「あとは、人の精気を吸って生き永らえてまいりました」

「――!」

 楊勃の、「ひからびた遺体の話」が脳裏をよぎる。客のうわさ話も。


「そう、人の精気はこのうえなき甘きもの。そして、長安は気が盛んなまれに見る場所。ゆえに人間のみならず、人外の者も引き付けられるのです。ともあれ、私は気を吸うそのおかげで、人の姿を取り続けられるようにもなって……」


 その瞬間、剣が鞘走りぴたりと猫の首に押し当てられる。猫は困ったような顔をし、ひげを強張らせた。

「ええ、正直に申し上げます。酒家に誘ったのはあなたの精気を吸い取ってしまおうとするため。ですが……」

「ですが?」


 仁問は刃を逸らすことはなく、目を細めて鸚鵡返しに聞いた。猫はそこで初めて眼を押さえていた前脚を外す。彼ははっと息を呑んだ。


「そなた……」

 猫の右目は潰れたのか、閉じた瞼の下から血が二筋も流れ出ている。


「眠り込んだあなたを襲おうとしたところ、お持ちの香袋から翡翠の護符が飛び出し、ぎらりと閃光を放ちました。私の眼はその光にやられて……」

「護符?……ああ」


 寝台の縁に引っかかっていた錦の香袋は空で、さらに探すと床に翡翠が落ちていた。だがいつもと異なり、ぼんやりとした光を放っている様子だった。仁問が剣を置き、身体を伸ばして拾い上げるとその光は薄れ、代わりに、ふっと薄緑色の煙を発したように見えた。


辟邪へきじゃの力で、守ってくれたのか……」

 愛おしむように手のひらに包む。


「玉の光を浴びてから、私は人の姿に戻れなくなってしまいました。一夜でもともに過ごし、歓を尽くしたお方を損なおうとした罰を受けたのです」


 仁問は無言のまま、まずご加護を賜った御仏に謝するために西方を向いて遥拝し、次いで白猫に向き直った。その杏仁形の眼からは既に鋭さが消え、かわって優しさに満ちていた。


「眼はまだ痛むか? これを……」

 手のひらの勾玉を差し出した。大猫はびくりとし、全身の毛を逆立てる。


「そなたの眼を損なったものだが、これをやろう。そなたの眼の代わりとなって、きっと導いてくれるはずだ、なぜなら私の導き手でもあったからだ。私は父から譲られたこの翡翠をいとおしく思っている。だが、見るたびに故郷を思い出して苦しくもなる。手放したら最後、故郷に戻れなくなるのではないかと……だがそれはきっと、私の心の弱さがなせる業だろう。父を、そして私を守ってくれたように、そなたをきっと守ってくれる」


 白猫は身を震わせた。

「なぜ、私にそこまで……あなたの命を奪おうとしたのに」

「なぜだろうな」

 仁問はぽつりと答えた。

「そう、そなたが私と同じ、故郷を遠く離れてここに流れ着いた身だからだ。いつ帰還できるかもわからず、ただ異国で仮り住まう身……そら。その代わり、二度と人を襲うでないぞ。そなたの口もとは血よりも微笑みがふさわしいのだから」


 手のひらを妖怪の口もとに差し出す。猫は一声「にゃあ」と鳴くと、おずおずと翡翠をくわえた。そしてばさりと尾を振り、きらきらした左眼で仁問を見つめたかと思うと、彼が開けてやった窓から身を躍らせ、虚空に消えた。

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