第10話 長安行

 太極宮で最大かつ最重要の殿宇である太極殿たいきょくでん

 その警護にあたる美々しい鎧姿の武官たちに混じって、同じく武装姿の金仁問きんじんもんは先ほどから咳払いをしていた。長安の宮城で宿衛の任務につくようになってから三月が経つが、まだこの都に――唐土に慣れたとはいいがたい。


――金城の、いや新羅の空気はしっとりと艶を帯びていたが、ここ長安のそれときたら、ぜかえるように乾いている。


 木々の色も、水の色もどこか淡彩めいて見え、からりとした空気が唇から水分を奪ってやまない。緑したたる金城の樹々、御仏のたなごころに包まれたかのような故地を思い出して、遠い眼ざしとなった新羅の王族は、ふと思い出したように革帯に提げた香袋を開ける。


 中から転がり出て籠手の上に納まったのは、父から賜った勾玉。翠色もつややかに光を放ち、いつも変わらずに持つ人を見守っている。


――ああ、新羅の緑が、金城きんじょうの陽光が、この中に満ちている。


 そう思うだけでも、いつ終わるとも知れぬ唐土での暮らしの慰めとなろうものである。いや、むろん彼には郷愁に浸る暇など許されない。

 春秋が息子を唐土に送ったのは、風雲急を告げる韓の国々と唐、そして倭国のなかで、新羅という船の水先案内人とさせる心づもりであるはずゆえ、仁問も唐の聖上の側近くに仕える身として、宮城から発せられる知らせから巷間こうかんの噂に至るまで耳をそばだて、眼を凝らして情報を集めなくてはならないのだ。


 仁問はきりりとした顔つきになり、手のひらの上の故国を香袋に戻した。距離感も雄大さも、何もかも故国と異なる唐土。父の真意は、唐と手を組んで百済と高句麗を滅ぼし、返す刀で唐をも払い、新羅をもって三韓一統さんかんいっとうをなすこと。それは十分に承知し、理解していたつもりである。


 だが――と仁問は父の深謀遠慮に感服しつつも、実際に唐土に暮らす身としても懸念を抱かざるを得ない。

 これほどまでに広大な山河、圧倒的に豊かな国力を有する唐を相手に、果たして父の考える通りに事が運ぶのか。かつては漢の武帝が四郡を半島に置き、また隋の煬帝の高句麗征伐もあった。唐とて半島への野心はいまだ大いに有しているであろうから、父の策はその唐の勢力を引き入れることになって、かえって新羅を窮地に追いやる危険もはらんでいるのだ。


「いや、よそう」


 思わず言葉に出してしまった仁問は、口をつぐんだ。


――父上を信じよう。父は実際に長安まで来て、先帝を動かし唐と新羅の協力を取り付けたのだから、唐の国力と意図など承知のうえだ。ただ私にできることは、女王さまと父上を信じ、微力ながら新羅のために尽くすことのみ。


 そんな仁問へ、声をかけてきた者がいる。聖上の親衛に当たる楊勃ようぼつであった。

「金将軍。ご連絡が遅くなりましたが、先ほどの林玄章の件で……」

 仁問は海を渡って来朝し、唐に忠誠を示したことを聖上からよみされ、「左領軍衛将軍」を授かったが、「将軍」と呼ばれたところで新入りの武官には変わりない。

「ああ、林が急に欠勤を届け出たので心配したのです。何か深刻な理由でもあったかと。同僚も事情を知る者はいないし。それで、実際のところはどうなっていますか?」

 楊は吐息をついた。

「実は、林どのの弟が西の市近くで不審な死を遂げた」

「ほう?」


「本日、彼はその関係で自宅にて取り調べを受けているが、明日もまた調査を受けることになっています」

「取り調べ?まさか、彼はそのような……」

 仁問の不審げなまなざしに、楊は苦笑でもって応える。


「ああ、ご案じめさるな。謹厳実直な彼が事件にかかわっていたわけではないのです。ただ、奇怪なことがその件に見られたので。いや、先賢の教えを大切になさる金どのはどう思われるかもしれぬが……」

 楊は声を落とす。


「林の弟の遺体、実は水分が失われていた……それどころか、からからにひからびておったそうで」


「ひからびて?」

 異国の王子の秀麗な眉がゆがめられた。

「それは本当のことでしょうか?」

「さよう、まるで精気を吸い取られたようであったと」

「馬鹿な……いや、失礼」

 仁問は思わず口を軽く押さえた。


「詫びを申されますな、怪力乱神を語らぬのは君子の心得ゆえ、貴官がそう思われるのも無理なきこと。ただ、これと類似した事件がすでに西の市とその周辺で四件起こっているが、全て極秘にされている。ただ、あなたはたしか東側にお住まいだから、まず関係なかろうが。ともあれ、林はしばらく復帰しないでしょうから、宿直の割り振りを考えて……」

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