第6話 砂上の国

 それから、毎日のように金春秋きんしゅんじゅう鮎児あゆこを連れて難波の都を歩き回った。

「偵察しているのだ」と、悪びれもせず彼は笑う。


 確かに自分達の背後には、監視と護衛を兼ねて難波宮の者が張り付いているのを鮎児も知っていたが、当の春秋が全く気にする様子もなく、市で物売りと談笑したり、鮎児と並んで難波津なにわづから遠く海女たちが乗る船を眺め、よもやま話を楽しんだりした。

 一度、ならず者に鮎児が袖を引かれたときなど、間髪入れずに春秋は剣を抜き放ち、追い払ってもくれたのである。


――どうしよう。


 一日、一日と、この年上の異国人が自分の心を大きく占めていく。

 鋭さと優しさを秘めた黒ぐろとした瞳。温雅な挙措。よく笑い、人を惹きつけてやまない話術。

 自分は皇祖母尊すめみおやのみことさまにお仕えし、事の次第によっては大王さまの寵愛を受けることもあり得る身。他の殿方のことなど考えてはならないのに。しかも、お父さまと同じくらいか、もっと年上の方なのに……。


 鮎児は心の高揚と罪悪感に苛まれながら、春秋の後をひな鳥よろしくついて回るのだった。


 

 ある曇天どんてんの日、いつものように鮎児を連れ砂浜を逍遥しょうようした春秋は、つと小枝をとって身をかがめ、砂の上に何やら図形を描いた。


「越の采女……いや、鮎児。私の来たからの国や唐土もろこしは、こうなっているのだよ。半島の東南には我等が新羅、反対側には百済、そして北方には高句麗。唐は……広大すぎて、私にもよくわからない」

 新羅の王族は微笑み、采女は首を傾げた。

「あなたの御国は女王さまが治めていらっしゃるのでしょう? 私の国も、かつては皇祖母尊さまが天の下をしろしめしておいででした」


「そうだ。唐土の天子さまは古来より男のみが立ってきたが、これから先はわからぬな。唐は新羅が女王を戴いているゆえ侮りの姿勢を隠さないが、あちらにだっていずれは女性の天子さまが立つ可能性も。あるいは遠からず……」

 王族の表情にすっと影が落ちた――そう思ったのは、鮎児の気のせいだろうか。

「いや、何でもない。それはそうと、我等はつねに唐土の影を感じながら、三国がともに争ってきた。戦が続けば山河も人心も荒廃してしまう。早く統一を実現せねば、争いを利用され、唐土に飲み込まれてしまうやもしれないのだ」


ざざん……ざざん。


 鮎児は春秋から眼をそらし、打ち寄せる波に今にも洗われそうな図形を眺めながら、ぽつり、ぽつりと言葉を紡いだ。


「私には難しいことはわかりません。でも、あなたとあなたの御国の人達が悲しんだり、苦しんだりするのは嫌です」


 新羅人は枝を放り出し、再び笑顔に戻った。

「ありがとう、そなたはきつい物言いに似ず、優しくて情のあるおなごだな」

「あら、そのおっしゃり様では、ほめてくださっているのか、けなされているのかわかりません」

 ぷっと頬を膨らませた采女を前に、春秋は愉快げな声を立てた。


「ふふふ、だからそなたといると楽しいのだ。私には息子も娘もいるが、ちょうどそなたと同じ生意気ざかりで。今頃、皆どうしているのか……そなたは、まるで娘のようだから、見ていると私の家族が思い出される」


――娘。


 わけもなく鮎児は胸が痛くなり、呼吸が苦しくなった。気が付けば、波は砂浜の上の国々を半ば押し流しつつある。

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