第4話 難波長柄豊崎宮

――そして私は、磨かれて見違えるような姿となったかと思うと、慣れ親しんだこしの国を離れ、鮎児さまとともに都に上りました。


 鮎児さまの懐に納まる魔除けの朱色の袋が、私のねぐらであります。何しろ手も足もありませんから、成り行き任せ、人任せの身の上です。

 守り袋や衣を透かして外の光景を見た私は、の地にも海があり、都がそのほとりで息づいているさまに眼を見張りました。


 鮎児さまの、越でのお邸もそれは大層なものでしたが、大王おおきみさま(孝徳天皇)がお住まいの宮殿ときたら、越の国にあるお邸を全て集めたよりもなお数が多く、大きなものでした。この難波長柄豊崎宮なにわのながらとよさきのみやで、鮎児さまは、大王さまの姉君にして先の女王、すなわち乙巳いつしの変で御位を譲られた皇祖母尊すめみおやのみことさま(皇極天皇)に采女としてお仕えすることになったのです。


 *****


「鮎児どの、これを皇祖母尊さまに差し上げて」

 が盛られた素焼きの皿を別の采女から受け取り、しかめ顔で鮎児は回廊を歩いていく。幾度も角を曲がり、何本もの廊を経た末に皇祖母尊の居室に入ると、自分の主人が朝餉あさげの膳に取り掛かっているところだった。


「おお、こしや。言い忘れていたが、今日は新羅しらぎからの客人に会うことになっているゆえ、その旨を承知しているように。大切な方ゆえ、おもてなしを念入りにせねばならぬ」

「はい、みことさま」


 一人の采女として女王に仕えて半年。勝気な鮎児の鼻っ柱も折れんかと思われるほどに「采女」という人種は総じて気位が高く、彼女たちの陰口や足の引っ張り合いもまま見られた。

 鮎児はといえば、やはりいくつか「ちょっかい」を出されたが、彼女が鼻で笑って取り合わなかったので、「新入りのくせに生意気な」との言葉とともに、半ば爪弾きされた格好となった。


 だが鮎児が強気を保てたのは、皇祖母尊がこの越国の采女をいたくお気に召して「越や、越や」と側から離さなかったこともあるが、それよりも、


――ここで泣き言をもらしたら、「彼」に合わせる顔もない。


という、いかにも年若い娘にありがちな、かたくなな意地だった。

 

 とはいえ、めまぐるしい日々のちょっとした隙間や、仕事のわずかな切れ目のとき、宮殿の裏庭から茜色の空や遠く黒い山の端を眺めると、涙がこぼれてきそうになる。

 

 そんなとき、鮎児は懐から翡翠の勾玉を取り出し、つややかな肌を撫でながら遥かな故郷に想いを馳せるのだった。勾玉はこっくりとした緑をたたえ、奴奈川姫のおわす川の春を思わせた。


――越の海が見たい。お父さま、お母さま、はらからたちに会いたい。


 この難波宮は海のすぐ近くで、海など見ようと思えばいくらでも見られるのだが、彼女は波穏やかな難波の海は海という気がせず、波が高く猛おしく浜に打ち寄せる、そして寒風吹きすさび、我が身から体温を奪っていく、冬の越の海がたまらなく懐かしかった。


――ああ、いけない。


 再び両眼に涙の膜が張っていくのを感じ、鮎児はあわてて袖で拭った。そしてするべき仕事を思い出し、自分を見下ろす重々しい屋根を睨み返すと、ずんずん足を早め、殿宇に戻っていった。

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