ゼノビアの宝石箱 ~シルクロードを巡る煌めきの物語~

結城かおる

第1章 翡翠行旅

第1話 天蓋の星

 あさまだき。


 ころころり、ころころり。

 乳白色の川霧に包まれた岸辺を、緑と白のまだら模様になった石ころが転がっている。大きさは人のこぶし大で、風に吹かれて飛んでいるわけでもなく、水に流されているわけでもなく、軽やかに、そして羽が生えているかのごとき速さで、川上から川下へ。


 ころころり、ころころり。

――女神さま、我らが奴奈川姫ぬながわひめさま。


 石は薄緑色の煙を発するが、それこそが石の声であり、言葉である。


――お待ちください、姫さま。


 石の声は煙となってたなびき、川霧と混じり合ってぼんやりと発光する。

 石が転がる先には、人らしきものの影が動いている。やがてそれは呼ぶ声に気づいたのか、振り向いた。


 かの人――いや、人ではない、神である。黒髪はそれこそみどりを帯びてつやつやと、肌の色は川霧よりもなお白く、唇はふくよかでのごとく赤く、そして瞳は髪よりもなお深く、隠沼こもりぬの青を宿している。首には翡翠で出来た勾玉と珊瑚の管玉くだたまを連ね、胸元に下がる鏡は折からの曙光に照らされ、きらりと輝く。朱も鮮やかな上着に清楚な裳、霞のようにたなびく領巾ひれ


――奴奈川姫さま、奴奈川姫さま。


 女神は微笑みながら、石ころが馳せ寄ってくるさまを眺めていた。


――ああ、姫さま。この良き日というのに、朝からあなた様に凶事、うらみごとを申し上げる罪をお許しくださいませ。


 石から濃い煙が吹きあがり、女神の裳裾に寄っていく。


――おや、なんじ。なぜ朝からそのように、悲しい言葉を発するのじゃ。この沼名川ぬながわでもまれにみる、美しいみどりをその胎内に潜ませる汝が。川面におのが身を映してみよ、自慢のいろがすっかり曇っていることがわかるだろうに。


――奴奈川姫さま。何故に私を捨て置かれますか。あなた様は遠くへ行ってしまわれるのに、なぜ私をお伴に加えてくださいませぬ。

 石ころは一人前の人間よろしく、身を震わせた。


――おいで。


 女神が手を差し伸べると、石はぴょんと飛んでその手のひらに乗った。奴奈川姫は愛おしげに翡翠の原石を撫でさする。

――私は月が爪の先まで欠ける日に、眷属けんぞくを連れこの麗しき故郷を去り、遠く千尋ちひろの海原を渡り、尽きせぬ真砂まさごの浜を歩いて出雲に行くのだもの。大国主命おおくにぬしのみことさまのもとへ参るのじゃ。


――ですから、なぜ私を眷属けんぞくとして婚儀のお行列に加えてくださいませぬ。我が母なる女神さま。

――それは。

 女神はふうっと息を手のひらの愛玩物に吹きかける。すると一瞬、石は内部から輝かんばかりの光を発した。


――汝の運命は出雲にはないからじゃ。ほれ、ご覧。あそこで水を飲む若鹿はこの川に生まれ、この川で死ぬさだめ。私はこの川に生まれ、出雲に嫁すさだめ。だが、そなたはここには留まれず、また私とともに行けぬ運命でもあれば……。

――そ、そんな。では、私の運命は一体どこに?


 女神はすうっと川面に足を滑らせる。瞬時に川岸は飛び去り、やがてはるか海を見はるかす石浜へと出た。そして、女神は右の人差し指を西方に向ける。


――ご覧。汝の運命の指し示す先を。いずれ汝は海を越えて谷を渡り、森を駆け抜けて乾いた大地へと至る。千の星が天蓋より落ち、万の月を数え終わるまで、汝は遠くに旅を続けるのじゃ。

――私が? この海を越えて? どこまで行くのです? 海の向こうには大きな陸があると聞きますが……。

 石から出る煙がわずかに震え、みどりの肌のおののきが奴奈川姫に伝わる。


――人の世をつぶさに見聞し、彼らの喜び、嘆き、怒り、笑い、涙……全てを記憶し、その肌に焼き付けて記憶せよ。それが我が汝に下す使命なり、心して受けよ。愛しい、小さな私のしもべ。 


 命じた女神はふっと微笑み、ぽおんと翡翠を石浜に投げる。

――あっ、何をなさいます。

――そこで波音を聞きながら眠るが良い、時が来るまで。

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