2ー2 大国に潜む闇

 西の空と地平線の狭間に太陽の痕跡が残りつつも、逢魔時の終わりを告げるように、頭上は濃紺と星々の煌めきが支配しつつある。

 自分とルカが商人タブリスの指示によって動き始めてから、四十分が経とうとしていた。夕食の支度は自分とタブリスが主に行い、ルカは合間を見て、降ろされた有翼族(フェザニス)の女性に治癒の魔法をかけていた。

「ダイン、トール、できたよー」

 有翼族の女性を馬車から降ろし終わった後、夜営地の周囲を警戒していてくれた二人に声をかけた。

「待ってました!! いやもう、匂いが胃を殴りつけて、大変だった」

 先に現れたのはトールだった。まるでお腹をすかせた犬のように、ご自慢の金色に艶めく尻尾と耳が力強く振られている。年長者の貫禄はどこに行ってしまったのだろうか。また腹をさするあたり、この目の前の料理が放つ香辛料の匂いは、確実に相手の胃を支配できること間違いないだろう。

 さて、目の前の料理はというと、灯の焚き木にくべられている鍋が二つ。ふたを開けると一つには、湯気の中から輝く粒がしっかりと立っている炊き立ての米が顔をのぞかせた。

 もう一つには、人参、玉葱、馬鈴薯(ジャガイモ)、鶏の干し肉をじっくりと煮込み、そこに粉末香辛料を何種類も入れて煮込んだカレーと呼ばれる料理だ。美味しいものに国境はないことを証明するように、この料理は大国サイぺリアやその同盟国であるティタニスだけでなく、鎖国の多いコウエンにもその料理方法が伝わっている。

 本来なら、最初に肉を焼くところから始まるが、今回は干し肉を使用するために、初めからすべての具材を煮込み、野菜のだし汁の中にカレー用の香辛料を入れた感じとなった。

 また、今回は初めての野外調理であったが、思った以上に出来が良かったために、作った本人の胃も殴られている。

「分かる。この料理がこんなにも胃を刺激してくるのは、初めてだ」

 続いてダインが背後から現れた。振り向けばこちらも腹をさすりながら、さらには口まで押えて唾が溢れないように必死にこらえている様子だ。

 だが、その表情は空腹に加え、どこか疑問と新鮮味に驚くような顔をしている。

「ダイン、なんか不思議そうにしているけど、どうしたの?」

「あー、いや、カレーが万国共通なのは知っていたが、国によって匂いとか、こうも違うものなのかと驚いていたんだ」

 隣に片膝をついてしゃがみ込んだ彼の顔は、まるで未知との遭遇を噛みしめ、自分の常識を強制的に塗り替えさせるような、強烈な興味と困惑の視線を鍋の中に注いでいる。

 確かにカレーとは入れる具材や香辛料の種類によって味や匂い、見た目が変化しつつも、一様にカレーと表現できる特殊な料理である。しかし、彼の言い回しでは、どこか根本的に食い違っているような気がいてくるのだ。

「ふむ……ダインさんの驚き方は、なんでしょう……微妙に違う気がしますぞ?」

 それは湯気越しに見えづらいはずのタブリスにも伝わっていたようであり、ダインの表情に興味を持ったトールがダインに目をやり、有翼族の女性の治療を行っているルカも手を止めて、こちらを顔を向けた。

 全員から視線を注がれると、ダインはややバツの悪そうな顔をしながら、ポツリとつぶやいた。

「その……なんだ、俺が食べていたカレーはいつも炭に近い匂いがしていて、ところどころ黒かったり、苦かったりしていたんだ。カレーとはそういうものだと教えられていたから、同じ料理とは思えなくてな」

 ダインの言葉を聞いた瞬間、タブリスが黙ってご飯をよそい、その皿を受け取るとご飯の上にカレーをかけて、匙と共にツッコミ替わりにカレーライスとして完成した皿をダインに差し出した。

「それ、ただの焦げカレーだから! はいこれ食べて! ちゃんとしてるヤツッ!!」

 自分とタブリスによる無言の連携に目を皿にしたダインは、カレーを受け取るのをためらったが、さらに強く押し付けると大人しく受け取った。

 改めてその場に座りなおすと、カレーとご飯が半々になるように匙の上に盛り、色や匂いを一通り観察してから、口の中へ頬張った。まだ熱そうにハフハフと小声を漏らしながらも味わうようにゆっくりと咀嚼する。

「美味い……苦味もないし、ザリザリ感もない。大きさも食べやすい……これが、本当の……カレー……。俺は今まで、何を食べてきたんだ……?」

 焦げのないカレーは本当に初めてのようであり、衝撃のあまりに人生を振り替ええり、頭を抱えつつも一口、もう一口と自然に匙が進んでいる。彼は一体、今までどんなカレーを食べていたのだろうか?

「やべぇ、ダインを見てたら、限界だ」

「私も、です」

 ダインの喰いっぷりに触発されたトールとルカが、腹を押さえて苦笑いしている。かくいう自分もこの香辛料の匂いにずっと当てられており、空腹による吐き気すら出てきている。

「んぐ、す、すまん」

 そんなダインはというと、あまりにも美味しかったのか、本当に無我夢中だったようであり、皆の視線に気づくと残り数口というところで手を止めて、恥ずかしそうに口元を隠した。

「……ん……んん……」

 残る全員のカレーをよそい終わったところで、背後から女性の小さな呻き声が聞こえてきた。振り向けば、横になっていた有翼族の女性がゆっくりと体を起こそうとしている。深い眠りから目覚めたためか、錆びついた蝶番のように動きがひどく鈍い。

「大丈夫?」

 自分の手にしていた皿を地面に置いて駆け寄ると、女性は完全のこちらに体重を預けた状態で、上目遣いに一言つぶやいた。

「……おなか……空きました……」

 女性はつぶやき終わると、糸の切れた操り人形のように力無く崩れ落ち、再び目を閉じた。

 

 

 夜営地を支配していた香辛料の匂いも、全員の腹の中に納まった。食器類も一通り洗い終わり、今は休憩と皆で灯し火を囲うように輪になって座っている。

「うう……、先ほどはお恥ずかしいところを見せてしまい、すみませんでした」

 自分の右斜め前には、寝起きであったにもかかわらず一人前よりも少し多めによそったカレーをきれいに完食し、恥ずかしそうに顔を軽く隠す有翼族(フェザニス)の女性が座っている。顔色はすっかり良くなっており、ルカの治療の甲斐もあって、見た目は傷一つない健康的に見える。また、寝起きの胃を活性化させたカレーの力は恐るべしものであり、万国共通の料理と認識されているだけはあると、改めて考えさせられた。

「私は、ネフェルト・ラズーリトと申します。このたびは介抱していただき、本当にありがとうございます」

 座りながらの小さいお辞儀だったものの、ゆっくりと丁寧な仕草から礼儀正しく、物腰が柔らかそうな方だと思えた。名乗りへの返事として、自分たちもそれぞれ名乗り、互いの名前を共有した。

 ネフェルトと名乗った女性を改めて見てみると、焚き木の灯りに照らされる肌は、火の色をそのまま返すほど美しく肌理(きめ)が細かい。瞳の色は炎の色が混じりながらも、髪色と同じく鮮やかな瑠璃色をしている。また、前髪の生え際からは天に向かって伸びる一房のくせっ毛が立っており、ネフェルトが体動かすたびに、ひょこひょこと揺れるのが目に付く。

 あと、やはり目を引かれるのが、毛布代わりに体を包んでいる黒い外套から見える豊満な胸だ。ネフェルトの向かって右隣に座るルカは顔を赤らめながら「はわわ……」とつぶやきつつも目が離せない様子。逆側に陣取るトールは、このたわわな果実を目に焼き付けるために、その位置を選んだのだろう。現にほんのりと鼻の下が伸びている。自分の隣で且つネフェルトの対角線上に座るダインは無表情で無言であり、何を考えているのか分からない。トールとダインの間に座るタブリスは「ほほう……」と純粋な感心と興味の眼差しを向けている。

 たとえ、その豊満な胸を差し引いても、整った顔やスラリと伸びる長い脚、白魚と表現してもいい細くて長い指と、同性の自分が見ても美人と思える要素が詰まった人だ。

「さて、ネフェルトさん。いろいろ聞きたいことがあるんだけど、いいかい?」

 まるで美女を守る騎士か衛士を気取り、鼻の下が伸びつつも紳士的な微笑みを向けるトール。その姿にネフェルトも少し驚いたものの、大人の余裕なのか、目には目を、微笑みには微笑みで返した。

「もちろんです。私が草原に落ちていた経緯などですよね」

「話が早くて助かります」

 目の前で繰り広げられる微笑み合戦。これが戯画や漫画なら二人の背景には、花や小さな光といった効果がついていたかもしれない。

 だが、それもネフェルトのほうが先に止め、真剣な眼差しで全員の顔を一瞥すると、深呼吸の後に呟きだした。

「気づいてる方がいると思いますが、私はフェザーブルクで人攫いに遭いました」

 人攫いという言葉に全員が息を飲み、場が一瞬で凍り付く。自分とダインはそばに置いていた各々の武器を手に取り、立ち上がった。ルカは人攫いという言葉とこちらが急に動いたことで、二重に驚いてしまい肩が跳ね上がった。

「なんと! そうでしたか……」

「まじかぁ。……ああ、そこのお二人さんは座りな。確実に近くにはいないから」

 こちらの慌てっぷりを余所に、トールとタブリスは異様なまでの落ち着きを払っている。嗅覚の優れたトールが索敵した……とは違った様子であり、これはまた自分たち他国民だけが知らない情報かもしれない。そう思うと、慌てたこと自体が滑稽な行動に見えてしまう。それはダインも同じだったようであり、視線が合うと互いに納得のいかない表情のまま、トールの指示通り二人とも座りなおした。

「どういうことなの?」

「カキョウちゃん、さっき俺が“東側”について話すって言ってたこと覚えてる?」

「覚えてるよ。しかも、種族が関係しそうな感じだったよね」

 元々は食事中に話してもらう予定の話題だったが、腹の虫とカレーが見事に阻害し、ほぼ無言のまま全員が食べることに集中したため、お流れになっていた。

 こちらの問いに視線を向けてきたトールの表情は、これまでになく重苦しい。聞け、そして心に刻めと言わんばかりに、あらゆる圧が激しい。

「まず東側っていうのは、この国の首都を中心とした中央地域の通称だ」

 サイぺリアという国は、今から二十年前に起きた領土拡大戦線と呼ばれる侵略戦争に勝利し、周辺諸国を併呑した末に大陸統一国家となった大国である。戦争以前は、現在目指しているモールという街の背後にそびえるオルティア山脈を境に西側と東側で分かれていた国であり、この頃から首都は東側にあった。現在は領土が拡大し、東側が地理的にも政治的にも国の中央部となったが、かつての名残として今も東側と呼ばれている。代わりに吸収した周辺諸国は旧国地域や旧国名+地区で呼ばれ、東側地域とはさらに区別される。

 ネフェルトの言葉にあったフェザーブルクとは、山岳地帯を統治下に置いていた旧国の一つウィンダリアの首都だった街である。会話では略されていたが、正式にはウィンダリア地区の旧首都フェザーブルクで攫われたということになる。

「つまり、攫われたところはかなり遠く離れたところがだから、安心していいってこと?」

「“今”はそう思ってくれて。後でもう少し詳しく話すから。んでだ……この地域は、ある“特定の種族”に対する人攫いや人身売買といった非人道的な事件が多発している地域なんだ」

 流されるようにだが、今はとあえて強調されたということは、一言では表しにくい大きな内容と思っていいのだろう。

「まず、ネフェルトさんのような有翼族(フェザニス)の羽は鳥のもの以上に上質で、高級な羽毛として取引されているらしい」

「いわゆる闇市場で取引される完全な違法商品ですな。私は清い商売を誓っていますので、取り扱いは一切しておりませんがね」

「まぁ、おっちゃんには闇に手を染める度胸はねーな」

「さすがはトール坊ちゃん。わかっておりますな」

 言っている内容は極めて重く、受け止めるにもかなり慎重にならざる得ない情報であるはずなのに、まるで日常茶飯事と言わんばかりに、トールとタブリスは苦笑いを交わしている。

 高級な羽毛と軽く言っているが、それは生きたもしくは殺した有翼族(フェザニス)の翼をむしり取ってるということだ。衣類用なら一本二本ではなく、それこそ一人分の羽毛が必要になるはず。

 そんな非人道的な行いが横行しているのならば、鎖国の多いコウエン国民の自分は知らなくても、交流のあるティタニス国出身のダインならば、何か知っていたのでは? と思い彼に視線を向けた。しかし、彼もまた自分と同じように、この奇妙なやり取りと内容に戸惑っている。

 ならばサイペリアの国民なら常識の話なのだろうか? と思い、ルカに視線を向ければ、自分は知らないと青ざめた表情をしながら首を横に振っている。

「ふーむ、ルカさんは東側へ行くのは、今回の巡礼が初めてなんですね?」

「は……はい……」

「ならば、知らないのも伺えますな。これは完全にと言っていいぐらい、東側だけの話なのです。貴女も巡礼に身を置かれるなら、ぜひ知っておいて下さい」

 タブリスの言葉は表面上優しく諭しているものの、声音には圧が含まれており、ルカにも刻めと突き刺していく。知らぬが仏では済まされない、常識の外側の話が紡がれていく。

「話を戻すと羽毛目的だけでなく、ネフェルトさんぐらいの美人さんなら奴隷目的で人攫いに狙われるってわけだ。実際、ネフェルトさんも今回が初めてってわけではないんですよね?」

「そうですね。過去には二回ほど……未遂でしたけどね」

 話を振られているネフェルトも、彼らと同じく苦笑を漏らす。

(どうして、笑っていられるの?)

 言葉だけなら、人攫いや人身売買とただの単語で簡単に済ませられているが、内容は人権を無視した極めて非人道的であり、どの国でも犯罪行為ではないのだろうか。それをまるで天災に見舞われたような乾いた笑いになるほど、当たり前のように横行しているというのか。

「それなら、カキョウさんも大変ではないですか?」

「……へ? アタシ?」

 急に名指しされたために、すっとんきょんな声を上げてしまい、全員の視線が注がれる。中でもトールの視線は一層強く、ここからが本題と言わんばかりに睨みつけてきている。

「……ホーンドってのは、もっと酷いぞ。角は万能薬や長寿薬の材料、心臓を食べれば若返りの効果があるとかいう噂があって、昔はホーンド狩りなんて言葉があったとか。そうでなくても物珍しさから、付き人や奴隷として“所有”している貴族がいるという話もある」

 有翼族の羽むしりだけでも、背中がゾワゾワと不快な感覚が生まれたというのに、自分ら有角族(ホーンド)は心臓と、命の次に大事な角を奪われ、食されていたていたという話が、脳を焼き殺していく。

「ちょっと……所有ってどういうことよ。アタシは……アタシたちは物同然だってこと!?」

 殺されれば食され、生かされれば所有物として扱われる。話を聞く限り、その辺の愛玩動物のほうが、まだマシな生かされ方をしているのではないだろうか。

「おおお、落ち着いてください! トール坊ちゃんが噂というように、どれも確証がありません。私自身も売買の場面には出くわしたことありません。何分、コウエン国は外交で何か起きるとすぐに鎖国する関係で、ホーンドの方々は基本的にサイペリアでは見かけることはありません」

 噂であったりと言いつつも、現に人攫いの被害者が目の前にいる状況では、説得力が乏しく感じる。

 コウエン国では時折、国外が危険になったとか他国が条約を破ったとかで、貿易制裁として双方向の輸出入や渡航禁止をすることが多い。自分が家出で密航した時も、前回の渡航禁止が解除された直後にもかかわらず、海竜の被害が国の貿易船団やティタニス・サイペリア方面への定期船にも出てきたため、海竜騒動が解決するまでは貿易と渡航が一切禁じられるという話が上がっていた。これを耳にしていたために、あの夜は最後の好機とばかりに大きな決断という無謀な家出を行った。

 しかし、今回の話で分かったのは、政府が鎖国を繰り返す理由が海竜騒動や貿易衝突だけでなく、他国においての有角族が人身売買を中心とした人権侵害を受けていたことに対する報復であった可能性があること。意図的に往来を無くすことで、根本的な形で国民を守っていたということになる。

「で、でも、ポートアレアに何人かいたよね!?」

 そう、ポートアレアの市場では自分と同じく角が生え、コウエン国独特の平面構造を主体とした前を重ねる衣類を着た人たちが、刀剣類や宝飾品を売っていたのを覚えている。

「あれは……売り子のなりきり衣装で、付け角だ。本物のホーンドなんて、滅多にお目にかかれない。……その滅多な部分がカキョウちゃんというわけだ」

「わ、私も……カキョウちゃんを見たときは、すっごく、びっくりしまし、た……本当に、いるんだなって」

 トールとルカが、申し訳なさそうにつぶやく。つまりポートアレアにいた有角族らしき人々は、すべて仮装した偽物。同族ではなかった。考えてみれば、つい先日まで鎖国していたために、街に永住している者でなければ、見かけることはないのだ。

 生まれてこの方、十六……もうすぐ十七歳になろうとしているのに、今初めていることとなった危険な事実は、自分から知ろうとしなかったことなのか、それとも他者や国が伝えなかったことなのか、それすら分からない。危険を認識し始めると、これまでの言葉がまるで蛇のように身体にまとわりつき、手は自然に角を覆い隠すように握りしめ、体中が冷や汗まみれになり、顔から血の気が引いてるのがわかる。

「じゃ、じゃぁ……せめて角、ううん、全部、ぜんぶ隠さないといけないよね!?」

 事実を知ってしまった今なら、自分は歩く高額商品、歩く高級食材とまるで売り文句をぶら下げて歩いていたわけだ。

(女戦士が珍しいんじゃない……単純に生きた有角族が珍しいんだ……)

 バッドスターズ掃討作戦の祝勝会で、やたらめったらに男性たちが絡んできたのも、今なら納得できる。何人もが頭を触ろうとして、そのたびに周囲の老齢ともいうべき歴戦の先輩たちが若い戦士たちを注意していた。

 腑に落ちたと同時に、体の芯がますます冷えていく。

「カキョウさん、先ほども言いましたが、これらはすべて東側だけの話です。コウエン国との交流がある西側では、貿易解禁時にはホーンドの商人も来ますよ。最近は機会自体が減ってしまいましたので、ルカさんのように会えない人が大多数なだけです。あと、コウエン国の交易品は品質の良い品が多く、正しい意味で希少価値が高いので、わざわざ危険に足を突っ込んでまで国交を途絶させようとする者は、西側にはいませんよ」

「とはいえ、周りのことを一切考えない奴や、東側から流れ込んできたバカどもがいる可能性があるから、モールに着いたら色々と準備しよう。それでいいかい?」

 あくまでも東側だけの話と念は押されているものの、境となる山脈の麓町であるモールには、東側を主体としている商人などが来ることもあるため、用心する必要はあるようだ。

「うん、わかった……」

 あえて言われなかったが、トールとタブリスからは『すべてのサイペリア国民が悪というわけではない』という、熱意のようなものを感じていた。

 それは分かっているのだ。こんな右も左もわからない有角族に、組織は路銀を稼ぐ手段と傭兵という身分証明をわざわざ与えてくれたのだ。食材にしたり、奴隷にするためなら、このような施しは行わない。むしろ、人身売買の話を隠しておいたほうが、後々都合がいいはずなのだ。

 また、この場でのもう一人のサイぺリア国民であるルカは話を聞いている最中、ずっと涙目だった。同じサイペリア国の人間であるのに知らなかったということは、それだけポートアレアを中心とした西側の種族に対する偏見の少なさや、治安の良さが伺える。

(そういえば……トールやタブリスさんってこの国の人だけど、どの地域の出身なんだろう)

 これだけトールとタブリスが西側を誇張するということは、暗に東側が危険というだけでなく、もっと別の部分も含めて信じてほしいという願いが込められていつかもしれない。

 けれど、今はそれを追求する気にはなれなかった。仮に二人が東側の人間だとしても、彼らが人間を売り飛ばすような悪人には見えない。トールとルカはたった二日、三日の仲とはいえ、長い旅の始まったばかりで、疑いの心全開にギスギスしたくはないのだ。

 さて、こちらが思いにふけっていると、角や衣類をまじまじと観察するネフェルトの視線に気づいた。先の説明でも有角族が物珍しいというのは理解したが、こちらもまた有翼族が物珍しい。焚き木に照らされる純白の翼が、彼女の呼吸によって小さく動いているのを見ると、翼が作り物ではなく、血の通った器官であることを認識し、視線がそっちに行ってしまう。当然、互いに観察しあえば視線が合ってしまったので、互いに小さく笑って視線を変えた。

 視線を変えた先は左隣に座るダイン。なぜか顔がひどく青ざめ、口元を手で覆い隠すようにしている。先ほどから彼に視線を移すたびに、口元に手を置いている姿ばかりであり、それが彼の癖なのだろうか。

(そういえば、アタシ……彼のこと全然、知らない)

 巨人族(タイタニア)の国ティタニスから来た、常識を知ってるようで知らない、知らないようで知ってる純人族(ホミノス)の青年。魚人族(シープル)のラディスが『彼、勘当されちゃった』と言っていた。トールやマーセナリーズ・ネストの支部長ジョージも、自分の知らない書類の上で、彼の詳細な情報を知っている。わざわざラディスやトールといった教育担当と呼ばれる者たちが用意されてる。

 勘当され、ご丁寧に木箱で国外追放。そして教育担当や水先案内人が用意されている。ダインという人物は、本当に何者なのだろうか? この中でなら、自分が一番長く一緒にいるはずなのに、彼のことが一番分からない。

「……すまないが、質問させてくれ。同じ大陸、同じ国の中で、こうも西側と東側で違うのは何故なんだ?」

 こちらの視線に気づかないまま、ダインは口元を覆っていた手を離して、挙手した。

「ダイン、いい質問だ。ここからは地理と歴史のお勉強といこうか」

 これまで威圧に似た重たさを放っていたトールも、ダインの質問に対しては釣り針に魚がかかった時の鋭い喜び方をして、空気が切り替わった。トールは自身のことを彼の教育担当と言っていた手前、ダインが見せる興味や反応が思惑や想定どおりか、それ以上の成果となっている様子が面白いのだろう。

 調理前の炎が出せない自分の一件と合わせ、今の自分とダインに対する反応の違いが、どうしても引っかかってしまう。確実に危機感に対する叱咤も含まれていると思うが、こうも差が大きいと正直、気が滅入ってしまう。

 とはいえ、次の話もしっかりと聞いておかないと、自分に跳ね返るような怖い話ではあるはずなので、おとなしくトールの言葉を待った。



「まず、地理のほうだ。東側は西側に比べて土地の高さが高くなっている。東側から西側へ移動すると、緩やかながらも下っていく地形となっているために、“視線を下げる”ことになる」

「それがどうした?」

「視線を下げる、もしくは見下ろすって、悪いほうの表現をすると?」

「……そうか、“見下す”になるか」

 先の説明にあったサイペリア国の西側と東側は、モールの後ろにそびえるオルティア山脈によってきれいに分断されており、地形や気候が大きく違っている。東側は西側に比べて標高が二〇〇mほど高くなっており、東側から西側へ移動する際には、まるで壇上から降りるように西側大地を見下げる形で下っていくのだという。

 東側の地形をさらに詳しく掘り下げると、西側との境にはオルティア山脈がそびえ、北は海、東には広大な山岳地帯、南はサンドマ山脈が南部の砂漠地帯を分断している。このため、中央となっている東側地区は三方を山々に囲まれた形であり、地形的に守られた土地のように見え、東側の住人たちは安心感と特別感を持っている。

「正解。玉座や祭壇ってのは高いところにあるように、高位なモノは創造主や太陽に近い位置にいるべきだという考え方があるだろ? 加えて山々に守られた土地として、神聖度が高まっている。そんな素敵な土地に、この国の首都が存在する」

 オルティア山脈から少し離れた丘陵地帯に、サイペリア国の首都サイぺリスがある。首都というだけあって、保安や国防の観点から首都及び近郊の地域は国によって直接管理されており、居住する為にも国の許可が必要となる。許可と言っても基本的には貴族が功績を挙げて国から下賜されるか、その貴族の生活及び首都機能を維持するために専門機関の審査を経て、商い及び居住を強制もしくは認可されるものである。

「つまり、首都及び周辺に住む者は国家から住むことを許可された、栄えある者たちということらしい」

 さらには首都の北西、オルティア山脈の最北端にはルカも所属している聖サクリス教の総本山である聖都アポリスがある。首都からは馬車で半日の距離と比較的に近いために、首都は神聖なる国教のお膝元として重要視されている。

 守られた地形、首都を内包する地域、住める人間の限定、国教の重要地区と数多くの要素が重なることで、東側の……正しくは首都近郊住人の身分は必然と高くなり、自然と選民思想が育つ結果となっている。

 代わって西側は、農耕や酪農といった“首都へ送る”食品や工芸心を生産、また交易によって創出する土地と見なされ、東側から見れば自分たちのために働く身分の低い者たちの土地、という認識を持っている。

 また西側地域は国による直接管理地は少なく、街ごとの自治体単位ですべての経済・管理・運用を任されており、国からの援助政策は基本的にない。あるとすれば、生産・物流の機能維持が厳しくなった時に、資金注入や治安維持用の軍派遣、外交政策が行われる程度である。

「とまぁ、そんな感じさ……。そのうえ、貴族や平民っていう身分制度もあるから、さー大変。こんな国策的な不平等が許されるなんて、“外”の人間から見れば、すんげー歪な国だと思うよ」

 トールが外と強調するように、他国民であった自分にとっては、非常に歪に聞こえ、疑問符が飛び散るほどの不思議な話だった。

 コウエン国でも炎の大精霊であるシンエン様が住む火山を背にする首都は、この国の首都と聖都の関係と同じように、神聖なるお膝元である。だからといって、首都だけが神聖に特化しすぎているわけでもなく、首都以外が捨て置かれていい地域というわけではない。鎖国の多いコウエン国にとっては、可能な限りの自給自足をしなければならないために、首都近郊も含めた国土全域においての農耕、酪農、水産といった食料生産にかかわる産業は盛んに行われている。

 また中央を山脈で区切られたサイペリア国と違い、北に山岳地帯それ以外は平野という単純な地形のコウエン国では、地域や地方を分断するのは主に川であるために、視覚的には地平線に近いほど平坦といえる。そのために、サイペリアほどの地域間による優劣が可視化されていない可能性は十分にある。

「トール。それは歪というよりも、宗主国と植民地の関係だ。確かに一つの国と表現はできるが、関係性の意味では大きく違うと思う」

 ダインの言うように、現状の話を聞くだけなら西側は東側の隷属状態に近く、あくまでも東側の生活を守るための西側という位置づけでしかない。そんな状態の西側に利点が存在するのか見えてこない。

「気持ちは分かるさ。それでも西側の人間も国籍上はサイぺリア国民扱いで、三国同盟に記載される『サイぺリア国』の国民として庇護下にある。まぁ、同時に国民としての義務である納税も課せられる」

「って、それのどこに、西側の人たちの利点があるの? 聞けば聞くほど、ただの吸い上げじゃん!」

 トールの口から出てくる情報は、はっきり言ってどれも胸糞の悪い話ばかりであり、思わず立ち上がって叫んでしまった。全員の視線を集めたことは分かっていても、この胸にこみ上げる怒りを伝えずにはいられなかった。

「そ。カキョウちゃんの言う通り、基本的には吸い上げさ。だけど、西側はその分、東側とは違った多くの自由が与えられている」

 第一は、居住地選択の自由。東側の居住地はすべて国から下賜または貸与されている領地制であり、一度住むことが決まると簡単には転居や移住は認められない。選ばれた土地に住める選ばれた民であることを、誇りに思えということだ。しかし、西側はこれらの制約が一切なく、管理も自治体が行っており、土地自体の個人所有が認められている。

 第二は、所有及び売買の自由。第一の自由にあった土地など自治体管理と思われるものも、所有権の譲渡や、所有割合および税範囲変更等の届出を行うだけで、個人間での売買が可能である。納税分や首都での売買用以外の生産品についても、好きに売買していい。

 第三は、移動の自由。東側の中でも首都および聖都アポリスに入るためには、身分証明書に加えて、入場許可に相当する推薦状や営業許可証などの提示が求められ、誰かれ構わず入っていい場所ではない。逆にそれ以外の地域は、自治体の意図的な封鎖を除いて、すべての往来が可能である。

 第四は、職業選択の自由。東側において商業都市を除く全地域に住む者は、移住が決定された時点もしくは生また時点で、最終的な職業が決まる。これは貴族の血族、地位、生活を守る意味合いも含まれており、貴族の使用人の子に生まれついたら使用人になる定めを負う。そこに自由意志は存在せず、職を変えたい場合は婚姻などで自らの所在を変えるなどの必要がある。その点、西側にはこのような制約はないために、各々がなりたい職業を目指し、気が変われば転職するということも自由に行える。

 西側の自由を語るはずが、比較元となる東側の不自由さを語ったほうが楽なほど、西側というのは非常に自由度の高い地域といってよかった。

「そういわれちゃうと、確かに西側にも利点があるっぽく感じるけど……」

 しかし、トールが語った多くの自由とは、コウエン国においては“当たり前”の話だった。家ごとのしきたりなどはあるにせよ、基本的には職業選択は自由であり、住む場所も話し合いや売買などで変えることができる。各町に入る許可は不要であり、風光明媚な場所は観光地として定められ、集金のために多くの往来を見込む。

 故にサイペリア国の在り方が不思議であるが、あくまでも知らなかった世界として、切り分けて考えたほうがよいのだろう。

「だろ? まぁ、これはあくまでも西側限定の話だ。これが旧国地域となると……ねぇ?」

 と、トールはあからさまに意味深な呼びかけをネフェルトに向けた。受けた側は、口はにこやかに笑っているものの、その眼ははっきりと乾いた眼差しをしていた。

「そうですね。私の故郷のウィンダリアをはじめ、領土拡大戦線で併呑された旧国地域は西側に似ていますが、敗戦国であるためにこれらの自由にも若干の制限がかけられ、税率も重くなっています。自治政府はありますが、その長は旧サイペリア国民に限定されています。それに『人権擁護法』もありますから、本当の植民地状態です」

 トールがネフェルトに向けた意味深な呼びかけは、当事者からの説明を促すと同時に、話を地理から歴史に切り替えるための雰囲気づくりであったのだろう。実際に発言者と内容が変わった途端、場の空気が冷たく、背筋が自然と張っていく。

 人権擁護法とは、サイペリア国が領土拡大戦線で獲得し、併呑した周辺諸国に対して施行した勝利者と敗者を決定的に区切り、戦勝国民もとい、サイペリア東側住人の人権を全力で守るための法律である。

「知ってる……、コウエンの歴史書や教本にも載ってるよ」

 ――主文、サイぺリア国統治下におかれた敗戦国は、自治区外において戦勝国民に対し、いかなる権利を主張してはならない。

 名前と主文こそ、戦勝国民が敗戦国民からの恨みや危害から守るような法律に見える。

 しかし、本質は自治区と呼ばれる旧国地域の主要な街の外では、戦勝国民がいかなる犯罪およびそれに準ずる行い、もしくは敗戦国民の人権を侵したとしても、それに対して反論や異議の申し立て、捕縛といった一切の権利及び行動を禁ずるというものである。言い換えれば、敗戦国民に人権はなく、戦勝国民のためにあれと示しているといっても過言ではなかった。

 いわば、保証されるべき最低限の権利すら捻じ曲げる新生の大国に対し、遠く離れたコウエンにすら、悪法の名は飛び込んできている。当時は号外が出回り、誰もがサイペリアという国に恐怖を抱き、その結果としてコウエン国が鎖国を繰り返す一因になったともいわれている。

「まぁ、法律上では自治区の外と言われていますが、自治区の中でもその犯罪がバレなければ、私たちにはどうすることもできませんけどね」

「そ、それって、つまり……」

 ネフェルトの不穏な言葉にルカが恐る恐る反応したが、まさに的中している。自治区内は一応の安全圏ではあるものの、犯罪の現場が目撃できていなければ、犯罪は起きていないことになり、人攫いの被害もただの失踪扱い。当然、犯人は容疑者程度に格下げされ、挙句に無罪放免となる。

「酷いときには、容疑者に仕立て上げたとして偽証や名誉棄損として、こちら側はさらなる罪人扱いになってしまいます」

「そんなのって……」

「いいわけがありませんが、この状況を打開できないまま、こうして二十年が経過しているんです。悲しいですが、私たちは敗戦国民として受け入れていく運命しかないのです」

 打開という言葉の中には、何度も反抗作戦を行ったり、国の中枢機関への陳情や呼びかけを行ってきたのだろう。だが、こうして何も変わっていないということは、すべてが失敗に終わり、現地の人々の精神をそぎ落とし、反逆の芽を徹底的に潰してきた証なのだ。

 先の西側の話でも吠えたが、人権擁護法の実態を改めて聞いたとき、吠えるだけの義憤は残っていなかった。ここで自分が叫んだところで、世界が変わるわけではない。しかも自分は故郷を捨てた、流浪の傭兵状態。この国での市民権がないために、発言力すらない。ただ、あるがままの現実を受け止めるしかなかった。



「さてっと……、んでネフェルトさん、貴女はこれからどうしたいですか?」

 場の空気がすっかり冷え込んでしまったが、それでは話が進まないとばかりに、トールが新しく舵を切った。

(それはさすがに家に帰りたいんじゃないかな?)

 トールがなぜわざわざ、言葉にして聞いたのか少し理解に苦しんだ。

 しかしネフェルトはその意味を理解しているのか驚く様子もなく、焚き木を取り囲んでいる全員の顔を一通り見渡して、大きくうなづいた。

「厚かましいとは充分わかっていますが、よろしければ私をフェザーブルグまで送ってもらうことはできませんか?」

 やはりこの答えが返ってきた。当然だ、この場所は彼女の立場で言えば、自治区外そのものであり、早く一応の安全圏に戻りたいはずだ。

「ふむ、その前に質問。俺たちはどんな集団に見えます?」

「そうですねー、他種族がこうも一堂に会する興味深い集団ですね。ではなくて、そちらの修道士(クレリック)さんの巡礼一行ではないですか? しかもこの春……数日前に出発。なら、フェザーブルクへはまだいらしていませんよね?」

 ルカが言うには、巡礼の通過点の中に、フェザーブルクの教会も含まれている。修道士の巡礼は季節毎の恒例行事であり、このグランドリス大陸内では周知の行事であるため、このような一行を見れば誰でも想像がつくのだという。

 また、巡る教会自体は決まっているために、道順はある程度固定化され、いつ頃開始したかの予測がつけば道順はおのずと把握できるらしい。

「正解。理解が早くて助かります。ちなみに何か技能は持ってます?」

 ネフェルトの反応に気をよくしたのか、トールの口調がほんのりと弾んでいる。

「実は魔術師なんです。属性は氷と雷、あと風を少々。専攻は攻撃魔法を主軸にした魔法学全般といえばいいでしょうか?」

「おお! 魔術師! うちは現在前衛三人に、癒し手一人と、まぁバランスの悪いことで、少し頭を抱えていたところなんです。それじゃ最後に……見ての通り俺は牙獣族(ガルムス)だし、ルカちゃんと、そこのデカ物は純人族(ホミノス)だが、それでもいいのか?」

 途中までは和やかなやり取りかと思われたが、トールの空気が固く張り詰めたものに一変した。その変わりように全員が固唾を飲み、トールの鋭い視線を追った先のネフェルトを全員で見た。

 先程の人権擁護法が定める戦勝国民とは、具体的にサイペリア国の国籍を持ち、なおかつ主要種族となる純人族(ホミノス)と牙獣族(ガルムス)であることを指す。また、他国籍であっても、この二つの種族に加え三国同盟で結ばれているティタニス国の巨人族(タイタニア)、ミューバーレン国の魚人族(シープル)も擁護対象種族となる。

 そして、一瞬だが自分は? とも思ったが、この擁護対象に入っていない種族は敗戦国側と同じ扱いになるようであり、トールの確認から外れたらしい。

 それはすなわち、自分もまたネフェルト同様に街の外であれば、いかなる人権も存在せず、また国籍も全く違うために保護すら受けれない。国籍の関係で保護が受けれないのは、国を飛び出す時点で分かり切っていた話である。

 それでも……今になってようやく、自分の置かれている状況や立場が見えてきた。歩く高額商品。生きた珍味。みんなを不用意に危険にさらす爆弾。

 むしろ自分が本物の有角族(ホーンド)であり、流浪者だと分かっていた上で、ポートアレアの人たちやバッドスターズ殲滅作戦祝勝会で飲み交わした先輩傭兵たちは、好奇の眼差しがあったとはいえ、自分を一人の人間として扱ってくれていたのだ。今なら、それがひどく優しいことだったのだと痛感させられた。

 となれば、改めて自分を採用し、旅に同行することを許可したマーセナリーズ・ネストのポートアレア支部長ジョージと、この一行の決定権を持つトールは何を考えているのだろうか。

 そして、ダイン。先ほど、彼のことを全然知らないと思ったが、今は疑念のほうが増してきた。いくら彼が外を知らないとはいえ、人権擁護法の話なら聞いたことがあるはず。それに有角族が該当するかどうかを知っているかは、分からない。でも有角族の存在については、架空の存在に近い認識だった。このチグハグ具合に、彼が何をどこまで知り、隠しているのか、全く分からない。表情も相変わらず青ざめて、口元を隠している。

「ふふふ、大丈夫です。もし、私を売ったりしようとする人たちなら、こんなに手厚く介抱なんてしなかったでしょう。それにカキョウさんを見れば一目瞭然です」

 こちらが疑心で心がモヤモヤしているのとは裏腹に、ネフェルトはまるで安心の指標として名前を挙げてきた。

 同時にそれは、今まで自分が置かれている状況に疑念を抱くことなく、警戒すらしていなかった自分に対する釘にも聞こえた。その輝かしい微笑みも、胸に突き刺さる。

(アタシ、何やってるんだろう……)

 誰かを疑いたくなんてないのに、状況と情報がそうさせてくる。自分の馬鹿さ加減にあきれてくる。

「いい返事ありがとうございます。さて……もう分かると思うが、ネフェルトさんも同行してもらうってことでいいか?」

 トールが先に言ったように自分たちの構成は近接戦闘中心の前衛に寄りすぎている。トールは範囲攻撃ができるとはいえ、魔力の消費が激しい大技であり、乱発はできない。自分とダインは基本的に一対一の戦闘が多いため、離れた位置の敵には改めて距離を詰めなおす必要がある。数で来られたら、近接戦闘能力の低いルカを守る人員すら割けなくなる。

 また、ネフェルトは魔術師を自称し、自分の得意属性と魔法の方向性を自信をもって述べているあたり、実力はあるのかもしれない。彼女の自信が本当なら、遠距離や広範囲といった自分たちの届かない部分への行動が起こせるようになる。この戦力増強は非常に大きなものとなること、間違いなしだ。

 それはみんなも同じであり、ダインとルカも異存はなしと、みんなで大きくうなづいた。

「ふふふ、改めまして。魔術師のネフェルトです。どうぞ、よろしくお願いいたします。私のことはネフェと呼んでください」

 ニコッと微笑んだ姿は、同性の自分でも見惚れてしまうほど美しさの中に女性らしいかわいさを持ち、純白の翼がおとぎ話に出てくる天女を彷彿させた。

「よし、なかなかいい時間になったな……。今日はもう寝よう。んじゃ、ダインは見張りを頼む。後で起こしてくれ」

「分かった」

 トールが自身の懐中時計を確認すると、すでに十時を過ぎていた。いつの間にか見張り役と順番が決まっていたようであり、今夜に関してはひとまず彼らが担当するようで、ダインはさっそく周囲の見回りへ向かった。

 これまでの話から、自分自身が最も危険な人物だと分かった以上、何もしていないというは非常に心苦しいと思い、自分も見張りを申し出たが「今日はお兄さんたちに任せなって」と、なぜかデコピンを貰ってしまった。痛い。

 多分、自分が今、多くの感情が巡っていて、心に大きなモヤっとした感覚が広がっているのが分かるほど、ひどい顔になっているのだろう。この時は言葉に甘えて休ませてもらおうと思い、各々が出発前に購入した野営用の寝具を広げ、寝る準備を行った。



 寝具に入ってからも悶々とした気持ちが消えず、眠れないだろうと思っていたが、色々と考えるうちに脳が疲れたようで、いつの間にか眠っていた。目が覚めた時には、星の輝きに負けないほど光る月が真上に来ていた。草原は青白い月明かりに照らされ、薄っすらとだが牧草の一本一本を数えることができる。

 そんな月明かりを跳ねのけるほど焚き木の灯は煌々と輝き、見張り役であるダインの背中に大きな影を落としている。

(結局……、ダインはどう思ってるんだろ)

 彼は箱入り息子状態で世間を知らないとはいえ、頓珍漢な行動を取るということもなく、いたって普通の青年に見えてしまう。だからこそ、何をどこまで知っている上で、有角族である自分をどうしたいのかというのが見えてこないことに、こちらがヤキモキしてしまうのだ。

(ダインは……『君の剣の腕を見てみたい』って……)

 あの時は、自分の命がかかっていたために即決したが、社会情勢的にはそれすらも迂闊だったのもしれない。

 果たして、その言葉は真実だったのか。実は人権擁護法の実態を知ってるが故に自分を保護したのか。それとも希少種を手元に置きたかったのか。……闇商人に売るというのは、まずないだろう。彼とは出会って四日しか経っていないが、死線で背中を預けあった仲とも言え、密航時にも自分をかばってくれたために、彼に対しては信じていると信じたいの二つの気持ちがある。

(ダメだ……気になってしょうがない!)

 雑念を振り払うために体を起こせば、衣擦れの音に気付いたダインが自身の武器である大剣に手をかけつつ、こちらに振り向いた。

「……どうした?」

 敵襲でなかったことに安堵したのか、彼は武器から手を遠ざけ、張り詰めた肩を下げた。

「ちょ、ちょっと目が覚めちゃった。……あ、あのさ……隣、いい?」

 勢いのあまりに彼に無駄な気を使わせてしまったのと、ヤキモキの対象本人を目の前にすると妙に気が動転してしまい、許可を求めたにもかかわらず返事を待つことなく、彼の左隣に座った。

 その行動に驚いたのか、ダインはこちらが座るまでずっと動きを見てきたが、座ったのを確認すると焚き木に視線を戻していた。

 そして自分も、揺れる炎に視線を落とす。それこそ時折吹く草原の春風に、炎がユラユラと踊る。燃える薪のはじける音が心地よく、同時に先ほどまでとは違った不安を引き寄せてくる。

(もし、自分の力でこの炎を熾せていたら……)

 夕食前のトールを思い出してしまう。自分は火すら生み出せない、半人前以下の見た目だけ有角族。そんな自分に価値があるとすれば、一応の有角族であるという部分だけ。となれば歩く高額商品以前に、人間としての価値はないのかもしれない。

「あ、あのさ……、じ……人身売買の話さ……」

 新たなる不安に胸が張り裂けそうになり、とうとう口に出してしまった。

 互いに目の前の炎を見つめているのに、こちらの言葉に反応して、彼の肩が震えたのが分かった。

 彼からの返事はすぐには返ってこず、体感で長い感じてしまうだけの時間、牧草の揺れる音と弾ける薪の音だけが沈黙の空間に響いていた。

「……正直……ショックだった」

 ようやく返ってきた返事は囁きに近いほど小さく、また力が無かった。ショックという言葉が、極めて激しい驚きを意味する言葉というのは知っている。その言葉の意味を意識するまでの数秒後、彼の顔を見た。

 その顔は、夕食後に地理と歴史の勉強をしたあの時の顔と同じ。口元を隠すように手を当てつつ、青ざめた顔をしている。こちらの視線に気づいたダインは、ゆっくりと視線を合わせるように顔を向けてきたが、その顔は横顔以上に悲痛と申し訳なさを混ぜた苦々しいものだった。

「もし知っていれば、仲間になってほしいと言わず、国へ帰るよう説得したと思う。あと、人権擁護法の話自体は知っていたが、ティタニスとの交易が時折あると聞いていたから、俺たちと同じ擁護下の種族とばかり思い込んでいた。俺が何も知らなかったばかりに……本当に、すまない……」

 考えれば考えるだけ、答えれば答えるだけ、彼の顔はどんどんしわくちゃに崩れていく。それぐらい彼にとってもこの国の実情は衝撃的なものであり、本当に知らなかったことを物語らせていく。

(ああ、自分、バカだなぁ……)

 突然木箱に押し込められて、気が付けば船の中で、意図的に世間知らずにさせられてる雰囲気もあって、彼自身が訳も分からない状態で、こちらをどうこうなんてできるわけがなかったのだ。

「だ、ダインは何も悪くないよ。アタシだって、何も知らずに飛び出したんだし……。ダインが誘ってくれなかったら、故郷に戻されるんじゃなくて、誰かに捕まって売り飛ばされていたかもしれない。だから……ほんと感謝してる! その、ありがとう!」

 だから、そんな顔をしないでほしい。

「そうか……。それなら、よかった……」

 彼もまた大いに悩んでいたのか、まるで肩の荷が下りたかのように、強張っていた彼の頬が緩みだし、表情も次第に柔らかくなっていく。

「むしろさ……有角族だからって、みんなに変に期待させちゃって……、蓋を開けたら、本当にただの歩く高額商品ってだけの価値しかないアタシって、どうなんだろうって……」

 普通の有角族なら目の前の炎も自力で熾せるが、自分はそんな些細なことすらできない半人前以下である。皆からは剣の腕で相殺できていると言っているが、あくまでもこの国の闇を知る前の話だ。

「カキョウ」

 炎に落ちた視線が、呼び声によって引き戻される。見上げた先にあった彼の顔はいつになく真剣であり、炎の橙が混ざる群青色の瞳がまっすぐこちらを見つめてくる。

「“よろしく”と言ったトールやジョージ殿を信じるんだ。ホーンドという部分が、傭兵としての仕事にどんな影響を及ぼすかは分からないにしても、それを差し引いても“確保したい価値や素質がある”と判断されたはずだ」

「でもそれは……、あくまでも一般的な有角族であることが前提だったからだし……」

「実はな、トールに言われたんだ。カキョウは魔力をうまく隠しているんじゃないかってほどに薄く感じると。なら、設置魔法に長けたジョージ殿は探知魔法とかでとっくに気づいているんじゃないだろうか」

 二人はいつの間にそんな会話をしていたのだろうか。なら、自分の魔力については遅かれ早かれ明るみになっていたのだろう。

 また、自分たちの大上司であるネストのポートアレア支部長ジョージについても、ダインの意見にも賛成だ。ネストの建物入口になんらかの看破魔法を設置しておくなどもあり得るし、経験の差などでも見破られる可能性も高い。

「確かにそうかも。……って、それだと全部分かったうえで、トールに何も言ってなかったことになるじゃん。それ、相当意地悪だよね」

 ならば自分は、現状を含めたうえで、今はまだここにいてよいのだ。やはり自分は、ダインを含めた多くの人たちに拾われているんだ。

 そう思えるようになると、自然と声が弾み、自分としての調子が戻っていくのが分かる。

「そうだな。だが、殲滅作戦の前後を見てれば、本当にありえそうだからな。……それも仲間を理解する、戦力を把握するという意味では重要なことだから、一種の試練だったのかもな」

 ダインもこちらの弾みに釣られてか、まっすぐな真剣顔からやかに小さな笑みを浮かべる優しい顔になっていた。

(仲間を理解するための試練か……)

 まだ出会って三日、集団となって二日だからこそ、互いは知らないことが多く、これから知っていかなければならない。それはこの国の闇と同じように、互いの闇もいずれ知り、衝撃を受けつつも受け入れていくのだろう。

(んま、私みたいな欠陥持ちは中々いないよね)

 そう思うからこそ、自分は他の仲間たちがどんな闇を抱えていようとも、受け入れれる自信がある。

「それもそうだね。……ダインと話ができて、スッキリした。ほんとにありがとぉ……ふぁ~」

 特に自分の闇である『魔法が使えない』は、この世界の人間として重大な欠陥であるため、早い段階で知ってもらえたことや受け入れてもらえたことは、幸運だったのかもしれない。

 この優しい仲間たちに安堵した途端、身体が緊張するのをやめてしまい、睡魔が押し寄せてきた。

「ハハッ。あとは俺たちに任せて寝てくれ」

「うん、そうさせてもらうよ。んじゃ、おやすみ」

 微笑みだけではなく、彼の笑い声まで聞けてしまい、お得感を得たところで、再び寝具に潜り込んだ。

 ――コツン。

 小さいとはいえ、一応は頭の輪郭から飛び出ている角が、頭部の近くに転がっていた石にぶつかった。

(そうだ……街についたら、一応隠すようの何かを考えないと……)

 何か良い案はないかと考えながらも、得られた安堵のほうが大きかったのか、意識はあっという間にまどろみの中へと落ちて行った。

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