1ー2 外の世界は荒れ模様

 船倉の次に繋がっていた世界は、“矮躯と揶揄されてきた自分と同じ背丈”の者たちがギリギリ一人ずつすれ違える程度の狭い通路や階段だった。先の大きな揺れによって船員や乗客たちが慌てふためき右往左往している。床に置かれた荷物に加え、人ごみによって一層狭くなった通路では、すれ違う人々と何度も身体がぶつかりつつ、進行を遮られる場面もあり、ラディスの背中を追うのがやっとだった。

 それでも……すれ違う人々の背丈が酷く目に付きく。

 老若男女それぞれに差はあれど、ティタニスにいたときに味わった『自分だけが世界から切り離された』と思わされる身長差はない。むしろ、自分とすれ違う人々は、目線よりも低い位置に頭の先が見えることが多々ある。カキョウが言ったように、外の世界においては、自分のほうが平均よりも背が高いらしい。

 乗員の多くは、ラディスのようなヒレ状の耳を持つ魚人族(シープル)で構成されている。また、動物の耳や尻尾を持つ牙獣族(ガルムス)と呼ばれる人々や、俺のように動物的な特徴を持たない純人族(ホミノス)と呼ばれる種族も乗客として多くいる。

 船の構造からも読み取れるものがあった。巨人族(タイタニア)が世界の最多人種なら如何なる船の構造も、その巨躯に対応した大きな構造体になっているはずだ。

 しかし、この船は魚人族や純人族の成人男性が二人すれ違うだけで幅を使い切るほど狭く、天井も巨人族ではぶつかるどころか、常に前のめりでないとその場に居る事すら難しい。もちろん、巨人族が乗り合わせることもあるが、その場合は巨人族用に大きさを調整された専用区画が与えられる。

 カキョウが言うように、外の世界では自分と似たような背丈の者たちで溢れているならば、巨人族用の区画とそれ以外の種族の区画割合は、必然と後者のほうが多くなる。この船だけの特別仕様かもしれないが、自分と似たような背丈の人々に合わせた高さの通路が、延々と続くのだ。

 つまり、これが『世界の本当の姿』なのだと、ヒシヒシと感じ取っている。

 こうして見ると、自分の今まで置かれていた状況が如何におかしく、世界と常識から切り離されていただろうか。小さい頃は、周りの大人たちから成長の遅れから奇形児だの、矮躯だのと罵られた時があった。俺自身の身体的問題が原因で元の家には不要と判断され、養子という形でグラフ殿に押し付けられ、自分の葬式なんてものまで見せられ、徹底的に存在を殺された。

 自分だけが世界に適合できない異端児だと思っていた。

 だが、ここには彼らの言う奇形児、矮躯、異端児たちで溢れかえっている。

 今なら、ティタニス国民が巨人と表現されるのも納得できる。

(俺は……、生まれる世界を間違えていたのかもしれない)

 これまで生きてきた十八年間が、ただの悪夢か他人の物語とさえ思えてくるほど、胸に生まれた戸惑いは小さくなかった。



 だが、今は何らかの非常事態であるために、頭の片隅に押し込め、ラディスの後をひたすら追う。このまま進めば甲板にたどり着くだろう、人工的な光源から自然の強烈な光に切り替わることによって、目が眩んでしまうかもしれない。

 そんな外の世界に対する淡い期待を描いていたが、到着した甲板の先には、想像していた景色とはまったく異なるものが広がっていた。

 空は雨が降りそうな暗い曇り空。はじめて見る海は、本で見た透き通る青ではなく、曇天の空がもたらす色彩の奪われたのっぺりとした灰混ざりの青色。

 そして、先ほどまで船体が傾くほどの大波が立っていたとは思えないほど、気持ちの悪い穏やかなものだった。

 どんなに荒れた後であろうと、海には『これぞ大海原!』というような青い空、青い海を期待していたので、不謹慎ながらも一人小さく落ち込んでしまった。

 不気味な穏やかな海とは違い、甲板は船内と同じように船員の魚人族を中心に、純人族や牙獣族が入り乱れるように右往左往し、耳に慣れた金属のぶつかり合う音がいくつも鳴り響いた。

 船員たちはそれぞれ薪割用の片手斧、自分の背負っているものとは違い明らかに小さいながらも、純人族や魚人族の者が片手で扱う同じ両刃剣のブロードソード、先端に返しと呼ばれる逆さ向きの突起を持つ銛(もり)と呼ばれた槍を携え、自身らの身長と同じか、それよりも大きな……。

「さ、魚!?」

 カキョウが叫ぶとおり、船員たちが戦っているのは巨大な魚だった。

 食卓に並ぶような魚ではなく、桃色に輝く大小不揃いの鱗、頭頂部にはカジキを思わせる前方へ伸びる細長い角。牙が剥きだしの巨大なアゴ。名は体を現すように、先端が異様に伸びた剣状のヒレ。

 見た目も奇妙ながら、最も異常に思えたのが器用に尾ビレと剣状のヒレを使って、ヒトや二足歩行生物同様に甲板上に“立って”いる。

 しかも、起用に片手腕を身体の支えに使い、空いた片腕で袈裟斬りや横一文字など、起用に攻撃していた。剣状のヒレに応戦する船員達の光景は、正に鍔迫り合いの戦場である。

「こいつらは、一体……!?」

「君も聞いたことがあるよね? あれが魔物(モンスター)だよ」

 動植物、またはヒトの中から生態が激変してしまい、従来の生態系を破壊する行動を取る異質な生命体を魔物(モンスター)と呼ぶ。

 大きな特徴としては、原点となる動植物よりも大きかったり、保持する毒素等が強力且つ濃縮されていたりと進化に似た変異を時間を掛けず、何らかの急激な作用によって、引き起こされている生物である。

 また、戦闘本能に若干の理性が入っており、動物的行動の中に戦略性が含まれる事が多く、的確に攻撃対象の弱点となる部分を捉えてくる。

 聞き及んではいたものの、正直、想像を超えた異形な姿と行動に吐き気を覚える。

「見てのとおり、カジキ系が変異したモンスターで、名前はケンギョ。ヒトを含めた様々な大型生物を食べるよ」

 肉食性の魚がいる事は聞き及んでいたものの、船員の魚人族や純人族と代わらない背丈の魚なら、想像に難くない。

 それなら、自分達もこれらの集団に混じって戦うべきなのでは?

「って、危ない!!!」

 背負っている巨人族用のブロードソードに手を掛けようとしていたその時、ラディスの叫びと共に、それは視界に入った。左前方、高さにして十m。距離にして五十mも離れている海面から、放たれた矢のように、こちらの頭部目掛けて飛来する一匹のケンギョ。

 見えている。化け物と視線が合う。このまま背中の大剣を抜いても、間に合わない。左腕のガントレットを盾代わりに前に突き出して、防御体勢を取る。それが間に合ったとしても、角がガントレットと腕を貫通し、本体まで到達するだろう。

 ダメだ、総じて間に合わない。


 ……しかし、自分がダメもとの体勢を完成させる前に、事が決した。

 視界に割り込んだ深紅。白銀に煌く縦の一閃。


 気づいた時には、自分の左脇の下からぬるっと這い出るようにカキョウが現れ、細身の曲剣である刀による高速の上段斬りが放たれていた。奇声を上げることなく、頭から真っ二つに下ろされ、自分達の両隣に半身となって転がっているケンギョ。

 その光景は圧巻の一言でありつつ、小さな違和感を覚えた。

 刃が鞘から抜かれる音、踏み込まれた床の音、あらゆる音が一緒くたになる程の高速剣。

 にもかかわらず、一切と言っていいほど、“魔力の流れ”を感じない。この世界の常人なら、意識無意識の差はあれど、一歩を縮めるために足に筋力増加と俊敏性向上、空気抵抗緩和の魔法を掛けるところだ。

 だが、彼女からはこれら魔法や魔力の類が感じられない。自身の肉体が持つ性能と、無駄の無い刀捌きによって生み出された、極めて純粋な一撃。

『君の剣の腕を見てみたい』

 その答えは、こんなにも早く返ってくるとは思わなかった。

 一言でいうなら、強い。

「ダイン!!」

 そう、見惚れている暇はない。振り向くカキョウの怒号で我に返ると、今度は右前方から二匹のケンギョが船員達の壁を抜け出てきた。

 しかし先程の一匹とは違い、床からの直接跳躍では速度も遅く、体勢を整えるにも十分な距離がある。

 背の大剣を抜きつつ、左足を大きく一歩前へ。左手で柄頭を握り、右手は完全には回り切らない指で握り壊さんばかりに柄を掴む。あとは、大剣そのものの重さを生かしながら、左手で引き落とすように、掲げた大剣を振り下ろした。

「フン!!」

 馬鹿正直に一直線に進んできた得物を狙うのは容易く、振り下ろされた大剣がケンギョ二匹を一度に両断。肉と骨の潰される音と共に、ケンギョ二匹の肉片と体液がカエルを潰したような音を立てて、巻き散らかされた。

 真剣での戦闘訓練は行ったことがあるが、この剣で実際の肉を斬ったのは、これが初めてだ。微弱ながらも刃から伝わる肉を引き裂く感覚は、料理用の肉を切るのとまるで違う。そもそも整形された切り身じゃないから、抵抗する骨と筋肉の感触が伝わる。

 加えて、視線の合ったケンギョの瞳には、明らかにこちらを喰らおうとする捕食者の意志が宿っていた。


 そう、これが外。

 これが俺の、これから生きる世界。

 街の中、壁の中というのが、どれだけ安全な場所だったか。 

 殺らなければ、殺られる世界。


 ここから、俺の生存戦争が始まる。


 そこからはもう、自分達を狙ってくる敵を、船員達に纏わり付く怪物を一心不乱に討った。

 自分の左でカキョウが切り捨てれば、自分が彼女の右で叩き切る。時には、刃が身体に対して水平になるよう前に構え、大剣を盾として利用した。

「――アクアショット!!」

 そして後方から、ラディスは周囲の水分を手の平に集めて、弾丸のように打ち出す水系の簡易魔法を、自分達が討ち漏らした個体や、鍔迫り合いで苦戦している個体へ当てて行き、次々に甲板へ転がしていく。

 転がったのを見計らって、自分や周りの船員達がカジキのモンスターの頭に、止めの一刺しを入れる。

 甲板にいる全員が、ひたすら、ただひたすら各々の武器を振った。



 限が無いと思っていた鍔迫り合いの音も、いつの間にか止まっており、甲板は時が止まったかのように静寂に包まれていた。見渡せば、甲板のいたるところに、写真に見る網漁後のごとく、高く積みあがったケンギョの死骸。

 終わった、のだろう。

 しかし、それが倒しつくしたからという感覚には至れなかった。それはいつの間にか、まるで引き際と言わんばかりの、“知性が含まれた戦略的撤退”と思える静けさ。

 恐らく終わってはいなかった。むしろ、俺達は見逃されたのかもしれない。

 そう思えるほど、この静けさは不気味だった。

「初めての実戦、お疲れ様」

 剣に付着しているケンギョの血を払い落としていると、無傷で乗り切ったラディスと、刀を納めようとしているカキョウがこちらに近づいていた。

「うわ!? その傷、大丈夫!?」

「き? ず……、んぐっ!」

 カキョウに言われて思い出したが、自分は先の戦闘の際に、左の頬を思いっきり斬られていた。傷は思い出した途端、自分の存在感を宣伝するように、痛み掻き鳴らした。もはや血は出ていないものの、潮風に呷られる痛みは、なんとも耐えがたいものだ。

「ちょっと、頬貸して」

 こちらが痛みで返事が出来ない間にラディスが真隣まで近づいてきて、傷口に触れないギリギリの位置に右手を近づけた。

「傷つきし者へ慈愛の光を──ヒーリング」

 小さく詠唱と魔法名が告げられると、右の視界の隅に白絹のような淡い光が見え、徐々に頬の痛みが消えていく。

 彼が唱えたのは、誰もが知っているであろう治癒魔法。空気中に漂うマナを集め、魔力に反応させて対象の皮膚組織に変換し止血、修復、欠損補填、復調を行う。発せられた光は、マナが変換される時の反応である。

「ごめんね、“癒し手”じゃないから、治癒速度が遅くて」

 非常に便利な魔法である半面、魔力の消耗が激しく、専門的に学んだ者以外は、その効率の悪さにあまり使うことがない。また、生体の知識も必要とするために専門性が高まり、治癒魔法を重点的に習得している者を『癒し手』と呼ぶ。

 癒し手ではなくとも、先の戦闘では水の弾丸を飛ばすアクアショットを撃ち続け、戦闘後には治癒魔法のヒーリングと魔力の消費が激しい行動ばかりにもかかわらず、彼は汗一つかいていない。

(つまり、彼は魔術師系ではあるのか)

 ラディスが言い終わった頃合では、痛みは完全に消え去っている。頬をなでれば、傷のような凹凸もなく、見事に修復されているのが分かる。魔力が少なく、魔法よりも技(アーツ)の習得に注力した自分からすれば見事なものであり、彼がどこに卑下する要素があるのかと思ってしまう。

「いや、助かった。ありが」

「ちょっと!! さっきの揺れは何なのよ!! しかも甲板に行かせないとか、どういうつもりですの!!!」

 ヒトが言い切る前に、怒気の孕んだ女性の声が甲板にこだました。

 船内への入り口には、光沢のあるワインレッドのドレスローブに身を包み、手には羽毛たっぷりの扇子を持ち、いかにも自分が上流階級の人間であるかのような振る舞い。加えて、上等な物を食い荒らしたような見事な恰幅の純人族の中年女性が立っていた。表情は、眉間にしわを寄せ、奥歯むき出しの如何にも怒り狂っていると言わんばかりの形相であり、床板を踏み抜きかねない勢いで、甲板の中央へ歩いてくる。

「ひぎぃ! 何ですのこれは! ケンギョですの!? じゃぁ、アレのせいなの!?」

 中年女性が叫ぶのも無理は無い。甲板は現在、大量のケンギョの輪切りや中身が惨たらしくブチ撒かれた状態となっており、洗浄処理する者たちに、戦闘の負傷者を治療する者もいる。様々な意味でも、まだ戦場が続いている状態だ。

 中年女性の叫び声を聞きつけた他の乗客たちも、甲板に次々と上がってきては、甲板の様子に小さく悲鳴を上げはじめた。

「ラディス、アレとは?」

「ああ、最近、この海に出現する海竜のことだよ」

 それは新聞に載っていた記事と、ネヴィアが語ってくれた噂話を思い出した。

 ティタニスのヒュージェン、サイペリアのポートアレア、ミューバーレンの首都ミューズの三箇所を繋ぐ定期船の航路上に、先ほどのケンギョの大群と共に謎の巨大生物、通称『海竜』が出現するようになった。

 出現し始めた頃は、まだ航路から遠く離れたところで、水面から顔を出す程度であり、頻度も一か月に数回と低いものであった。

 次第に航路近くでの目撃情報が増え、最近では航行する船の間近に現れ、自身の作り出す大波によって、船に危害を与えるというものだ。

 蛇に似た細長い姿、頭は角のようなものが生えているらしく、大きさは全長一〇〇mとも二〇〇mとも言われている。表現が曖昧なのは遠近に関係なく、巨大な身体が霞がかったようにぼやけた姿をしており、誰もはっきりとした姿を見た事がないという話である。

 また、移動速度は船の航行速度以上で泳ぐと言われており、連日で起きた襲撃事故の発生地点が、船の航行速度でなら三日かかる距離だったという報告がある。

 ケンギョもまた、海竜が出現するようになってから、発生し始めたモンスターである。海竜がケンギョを生んだのか、ケンギョが海竜を生んだのか、被害の規模から調査が中々進まず、いまだ解明に至っていない。

「アタシも聞いたことある。なんか、もう二十隻は沈められたって……ヒィッ!」

 不気味な穏やかさを切り裂くように発せられた、カキョウの小さな悲鳴。彼女の視線を追えば、そこには急激に様変わりした海が広がっていた。

 船の進行方向から波間を漂い、通り過ぎていく無数の木屑。時には木箱。時には柱のような丸太。いつヒトが流れてきても不思議ではないほどの、惨状というべき異様な光景だった。

 ここは、見渡す限りの水平線。座礁しそうな岩場もない。この惨状が物語るのは、進む先に海竜に襲われた船が存在し、まだ近くにいる可能性を指している。

 海面の変化に乗客たちも気付き、中年女性の盛大な悲鳴を皮切りに大音量の奇声が甲板を包み込んだ。恐怖心の伝染というのは極端に早いものであり、奇声を聞きつけた船内の乗客たちも慌てて甲板に駆け込んできた。

 船員達もまた、海の藻屑となった他船の残骸に気が動転しており、次は自分たちの可能性を考えながらも、必死に乗客をなだめるので精一杯の様子だ。

 甲板はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図を描こうとしている。

「あーあー、皆様落ち着いてくだせぇ! 落ち着いてくだせぇ!!!!!!」

 それまで金切り声や怒声に包まれていた甲板が、巨大な男の野太くひしゃがれた声によって、瞬く間に静まり返った。

 声の発信源は、船長室などがある後部甲板の二階部分、舵の前に立っている男。左手を腰に当て、右手にはメガホンと呼ばれる音声拡張魔法が施された三角錐の魔道具を持ち、襟の立ち上がったネイビーブルーのコートを引っ掛ける形で着ている、これぞ海の男といわんばかりの筋骨隆々な魚人族だった。

 羽織っているコートの肩口には、この船の認証記号となる船旗と同じ文様が刻まれており、風格と様相から、この男が船長である事が窺える。

「この船は予定通り、このままポートアレアを目指します!」

 静寂の中、新たに響き渡った言葉に一同はまず息を飲み、そして小さく動揺の声が起きはじめた。

 自分も少し耳を疑った。このまま、危険と分かっている方角へ進むのか? と。

「貴方、馬鹿なの!? このまま海竜のいる方向へ進むというの!?」

 船長に対して突っかかったのは、先ほど船員に詰め寄っていた、地獄絵図の中心角になってしまった純人族(ホミノス)の中年女性だ。

 中年女性の言わんとしている事は、ここにいる全員の思いそのものだ。このままの進路を保てば、海竜との遭遇率だって格段に上がるはずである。

 しかし船長は、中年女性の睨みに怯むことなく、むしろ鼻歌交じりの笑顔を送った。

「ミューバーレンの研究機関の調べでは、海竜とケンギョが船を襲うのは一日一回との報告が出ておりやす。ゆ・え・に! このまま最大速度で突っ切り、一気に駆け抜けるつもりであります」

 男の力強い次の言葉に、甲板は再び静寂になった。

 この船長の自信に満ち溢れた顔と、同調していた面々が押し黙った状況が余計に気に障ったらしく、中年女性の顔つきが周りから見てもはっきりと分かるほど歪み、絵で描写できそうなほどの明らかな怒気を爆発させた。

「お黙らっしゃい!! シープルごときの研究機関? 聞いたことありませんし、信用できませんわ! こっちはお金を払ってるんですから、 すぐに引き返して頂戴!!」

 中年女性の負の感情がたっぷり乗った金切り声は耳障りではあるものの、こちらが金銭を払っている以上、金銭に見合った安全が確保されるべきだという意見には、賛同するものがある。

 だが、それ以上に俺個人としては『シープルごとき』という差別的な言葉に反応してしまった。

 ラディスに、外の国ではこういう人種差別が当たり前なのか聞いてみた。

「……サイペリア国だと、ホミノスとガルムスの人口比率が多いから、国内での少数種族に対してはあんな感じなときがあってね」

 特に、現在サイペリア国は面積と人口が世界で最も多い国となっているために、自分達が世界の頂点、世界の中心、選ばれし民族であるという意識が芽生えているらしい。

 また、サイペリア国にはティタニス国同と同じく王族、貴族、平民という三つの階級から成る身分制度が設けられている。王族は国そのものの運営権を有し、国の象徴たる極僅かな最上位特権の階級である。貴族は王族の国営を補佐する中間的階級であり、国営補佐という重要な役割からいくつかの限定的特権を与えられる。そして、王族と貴族以外の国民は全て平民と呼ばれる。

 この二つの背景からサイペリア国民の中でも貴族に分類される者の中には、他国民に対しても無差別的な特権意識の突きつけを行うことがあるらしく、目の前の女性はその一例といえる存在のようだ。

「だからと言って、三国同盟の条文でも三国の国家と国民は対等と謳っているではないか」

 三国同盟とは、現在向かっているサイペリア、出発国であるティタニス、この二国の南側に位置する海洋国ミューバーレンとの間に結ばれた各種友好条約を纏めた国家間協力体制を指す。

 その条文には三国間での様々な制約を取り払いつつ、相互が対等な関係である事が記されており、三国間での基本的な理念となっていると思っていた。

「そうだね……。本当はそう考えるべきなんだけど、あくまでも政治経済での話でしかないからね。下々には関係ないっていうヒトも、結構いるんだ。……所詮、理想は理想でしかないんだよ」

 小さく囁かれた言葉が、目の前で繰り広げられている光景という現実を物語っており、蔑むという行いは外だろうと、内だろうと一緒なのだ。

 こうして話している間にも、中年女性の金切り声が止むことなく、また船長もそれをずっと無視しながら、舵を切ることなく真っ直ぐ進路を保っている。

「しかしなぁ、こっちにも、他の客達にも予定っちゅーもんがあるからなー。アンタの意見だけじゃぁ、簡単には引き返せんぜ」

「だから何なの!? シープルごときが、私に逆らおうっていうの!?」

「む~……シープルごときかぁ……。あんた王都民だろ? 海のことはちーっともわからんだろ? ま、ここは海に生きる我らに任せといてくだせぇ。なーに、必ず送り届けますぜ」

「ふざけないで下さる!? 私を誰だと思っているの! シープルごときが口答えしないでくださる!?」

 中年女性は論理的思考を捨て置き、感情だけで喚き、顔は茹蛸のごとく真っ赤な状態だ。加えて、船長らしき男の対応が、中年女性の憤怒の炎に油を注ぎ続けている状態であり、最早収拾の付けどころが失われつつある。

 向き出しの感情から出る差別的な言葉が、例え自分に向けられたものではないと分かりつつも、どうしても耳の奥に残ってしまう。

『矮小』

『出来損ない』

『呪われた子』

『血族の面汚し』

『だから私は言ったのだ。さっさと外へ出してしまえと』

 雰囲気が似ているのだ。まだ、前の家に居た頃、ただ近くを歩いただけで次々と浴びせられた言葉。大人たちの蔑む顔。何年経とうとも、養子となって接触が一切無くなろうとも、些細なことで思い出し、その時の思考を侵食する。

「……大丈夫?」

 腕に生まれた感触から、意識が再び甲板の上へと戻った。

 顔を向けると、こちらを心配そうに見上げるカキョウに、苦々しい表情を向けるラディス。

 二人の表情から、俺の眉は相当中央に寄ってしまっているんだろう。

 正直、助かった。彼女が呼んでくれなければ、自分は延々と負の感情を生産することになっただろう。

 まだ、中年女性の喚きは続いているが、周囲の状況は変化し始めていた。

 初めこそ、中年女性の言葉に同調していた他の乗船客達も、次第に「おいおい、勝手なこというなよ」「戻られたら商談までに間に合わないぞ」など、時間に追われた者たちの小言を発し始めている。

 見渡せば、取り囲んでいる人々の表情が徐々に辟易としたものになってきており、新たなる険悪な雰囲気が生まれつつあった。

「お、奥様、そろそろお引きなったほうが……」

 中年女性の付き人らしき細身で明るい茶髪の男性が、周りの雰囲気に飲まれそうにオドオドとした様子で中年女性へ勇気の意見具申を行った。よく見ればに垂れ下がった犬耳が見え、牙獣族(ガルムス)だと分かる。ただし、その体は非常に細く、種族的知識が無い者からしても痩せ細っていると感じる。なおかつ、中年女性の恰幅との対比がまるで裕福と貧困を体現したかのように見える。また、付き人として支給されたであろう衣類は、着せられている感じが前面に出ている。

「お黙り!! お前も誰に物申しているの?」

 付き人の言を理不尽な権力を持って一蹴した風景に、甲板の険悪な空気は更に色濃さを増し、早期終了が望まれる事態へとなっている。

「ご婦人」

 どこからとも無く、中年女性を制する声。

「何よ、うるさ……!!」

「ご婦人、もうお良しになってはいかがですか?」

 ソレは自分の声だった。

 気づいたときには、中年女性の隣に立っており、周囲の目線は中年女性と自分に注がれている。

 制止させられた中年女性は、驚いたのか目を見開き、餌を求める水槽の魚のごとく口を何度も開閉している。

 一度止められてしまうと、激高の波は引き過ぎ去り、徐々に落ち着きだした。

 が、何故か徐々に頬を赤らめ、目をトロリと細め、こちらを見つめだした。黙ってくれたのはよかったが、何処か寒気を感じてしまった。

「せ、船長。今から一度引き返すとして、引き返した先に海竜やケンギョが現れる可能性は?」

 寒気を帯びた熱視線を無視するように、後方甲板上の船長を見上げた。

 船長は俺の言葉に僅かに口角を上げると、まるで勝利を掴み取ったような誇らしげな笑みとなった。

「無い。これはミューバーレン政府の発表でな、どんなに大きな船団を組み、日に何度も出航したところで、襲撃は一日一回だけだ。海竜に関してはさらに船の大小を問わず一隻しか襲わねぇ」

「大小問わず、一隻だけ?」

「ああ。何度か試しに戦闘艦を混ぜた調査船団を出したことがあってだな、どの船団も襲われたのはテキトーに選ばれたような一隻だけだったらしいな。もちろん、こっちから攻撃した場合には、みーんな襲われるらしいな」

 それはヒトも化け物も変わらず、自分を攻撃してきた相手への報復は行うという事だろう。

 ケンギョに関しては、海竜の被害にあったから一定の範囲内に入る船全てに攻撃を襲うようであり、ケンギョに襲われるということは、何処か近くのほかの船が海竜に襲われている証拠でもあるという。

「でもって、どこかの領海まで入ってしまえば、襲ってこないっちゅうことも報告されてるな」

 つまり、何かしら一隻の犠牲があれば、その日の安全な航行は約束されている。

 また領海とは、各国の陸地からおよそ五〇〇〇m先までの海を指し、陸地と同じようにそれぞれの国の法律が適用される範囲の事を指す。領海の判定となる陸地は、上陸可能な浅瀬や小島も含まれるために、安全な範囲は大陸に近づく程、急速に増大する。

 また、ティタニス国の港町ヒュージェンから三日間の航程で、現在は既に二日目。ここから引き返すのに丸一日。すぐに再出航したところで、さらに三日が加算される。

 先の話で本日の襲撃はもう無いと断定できるならば、このまま突き進み、明日にでもサイペリア国の領海内に入ってしまえば、海竜とケンギョに遭遇する確率は引き返すよりも格段に低くなるではないか。

 船長の話から、ミューバーレン国を中心に海竜の行動については、多くの研究が進められており、各国の港関係者には通達済みなのだろう。こちらの様子を見守る船員達や乗客の中にも、船長の言葉に頷く者たちがいる。

 なればこそ、今ここで引き返すのは得策ではなく、先に襲われた船の犠牲を無駄にしないためにも、突き進むしかない。

「ご婦人」

 俺と船長が話し始めてから、一言も発していなかった中年女性に意見を仰いだ。

 この場の全員が恐らく同じ答えに行き着いたと思うが、盛大に異を唱えていた者にも一応の確認は取っておく必要があるだろう。

 中年女性は制止されてから、俺と船長の会話を黙って聞いていた。……というより、こちらを見つめていたかにも見える。

「今引き返せば、時間も命も無駄になってしまいます。ここは船長に任せてみては、いかがですか?」

 俺から声をかけられたことに気づくと周囲の見渡し、ようやく自分の立場が危うくなっている事と、船長からの言葉に納得せざるを得ない状況であることを理解したようだ。

「……そ、それだけの根拠があるのなら、先に言いなさい! 部屋に戻ります!!」

 中年女性は身を小さく震えさせながら静かにお怒りを振りまくと、ドレスローブを翻し、重量級の動物の足音を立てながら、船内へと入っていった。付き人の男も周囲に一礼すると、中年女性を追いかけていった。

 そして、回りで見ていた乗客たちも、納得と安堵によって散り散りになった。

「いやぁ! 助かりましたぁ!!」

 安堵したのは、乗客や自分達だけではなかった。

 二階建て建物よりは少々低いで高さの後方甲板から、船長が万遍の笑みを浮かべながら柵を飛び越え、重い音を立てながらも軽やかに着地したのだ。

 ここで初めて船長と同じ高さになったのだが、船長の背丈は俺よりもラディスに近いぐらいであるが、衣類にまで現れてしまうほどの盛り上がった筋肉から、遠目からは自分よりも大柄に見えていた。

「改めまして、俺は船長のバステロだ」

 豪快な動作で差し出された右手に対して、こちらも右手で握り返しながら名乗った。

 握った手は船長の肉体と似た筋骨隆々としており、これが話に聞く荒波を越えてきた海の男の手なのかと、感心してしまった。

「船長。彼が例の箱の中身さんですよ」

 握手を解き振り返れば、ラディスとカキョウが寄って来ていた。

 カキョウは俺の隣まで来ると、小さく「いきなりでビックリしたよ」と小声で伝えてきた。俺自身も中年女性の声や言葉が不快に感じたものの、実際の行動に出たことについては驚いている。「俺自身もだ」と返せば、彼女は眼を丸くして、不思議そうな顔をしている。

「なーるほどぉ……あんたがあの“謎箱”の中身さんか。よーさん寝とって、あんの戦いぶりとは恐れ入ったぞ!!」

「謎箱、ですか」

「ああ、中身がヒトだって聞かされてな、どんなヒトが入ってるのか気になってな! 色んな荷物を運んできたが、人が入った箱っちゅーのは滅多にねーからな! ガーッハハハ!!」

 荷物の中身が人間というのは、普通なら小説のような物語の中だけの話だろう。外の常識が乏しい自分でも、それぐらいは分かる。そんな荷物なら、中身を見ておきたいというのも分かる。

「そんで、ははーん……お嬢ちゃんが密航者か」

 すると船長は、次にカキョウへ視線を向けた。その視線を追えば、それは密航者という不審者を見るような眼というよりは、何か物珍しそう観察するような眼で彼女をじっくりと見ている。

 どちらにしろ、視線を向けられた彼女は気まずそうに、俺の半歩後ろに隠れた。

「おうおう、すまんすまん。金は貰ったし、よーさん戦ってくれたからな! お前さんももうお客さんだ! 心配せんでええぞ! ガーッハッハ!」

 船長の直々の言葉で密航者から乗船客と改められると、カキョウは一度、驚いたように大きく目を見開いた後、ようやく安堵のような微笑を浮かべた。

 彼女と出会ってから、まだ三十分と経っていないが初めて見た笑顔であり、俺もようやく今の状況を静かに受け止めようと思った。

 進行方向から流れてくる船の残骸が、まだ不穏な気配を運んできながらも、遠くの空が今日の不穏の終わりと言わんばかりに晴れ始めた。

 これが自分にとっての、初めての外の景色。

 遠くに見える何もない海は、絵本で見た青一色の世界。一括りに青という大きな分類の色にも関わらず、空の青と海の青は色がはっきりと違った。水平の彼方に線を作って、二つの領域を演出している。スカイブルーと呼ばれる水平に向かって白くなっていく空の青。マリンブルーと呼ばれる何処までも色褪せない海の青。

 青の世界を表現する作品が多いのは、この美しい青を多くの人に伝えたいという気持ちの表れなのかもしれないと思った。

「よーし、気合入れて突っ切るか! お前ら、配置に着け! 物見ィーーーー! 漂流者いないか、死に物狂いで見ろよ!!」

 船長は笑い終わると、大声で喝に似た指示を出し始めた。

 ケンギョとの戦いで疲れているはずの船員達は、ロープや浮き輪、漁に使うような大きな網、救助用の小型艇の準備に、甲板に残っている乗客の誘導、声を張り上げながらの要救助者の捜索と、ひどく慌ただしくなった。進行方向から流れてくる船の残骸の量は、船体の木材だけでも多いのに、家具や荷物も流れてくるために、漂流者を見逃さないようにするのは骨が折れるだろう。

「船長、俺たちにも何か手伝わせてくれませんか?」

 指示を出し終わり、舵の元へ戻ろうとした船長の背中に提案を投げかけると、船長は振り返りながらも、苦笑しながら頭を掻いた。

「気持ちはうれしいが、これは"海"の男の仕事だ。なーに、たっぷり戦ってもらったからな、ここからは客は客らしく、まずは休むといいぞ! ンガーハハハハ!!!」

 そう、自分は金を払っている側であり、航海の安全を買っている者なのだ。船長を含めた船員たちは、これから仕事を行うだけ。

 加えて、自分は海を知らない。この水の底が何百mと聞いていても、入ったことも無ければ、泳いだこともない。つまり、海に関しては本当の素人であり、専門家に任せるべきだろう。

 さらには、休めと言われて初めて、身体に重みを感じた。この剣での実戦が初めてだった自分は、予想以上に疲れているようだ。

 申し訳なく思いながらも、船長へ一礼を送りつつ、大人しく船内へ入っていった。



 ラディスに連れられ、再び狭い船内の通路を通り、案内された先は『二等客室』と書かれた区画の一部屋だった。

 部屋の内装は右の壁が二段ベッドとなっており、部屋の半分を占領している。左の壁には二辺がおよそ〇.五mほどの作り付けのテーブルと、それにあわせた背もたれ付の椅子が二脚。そして正面奥の壁には、外の海原を見ることができる小さな丸窓がある。ベッドの幅だけで部屋の半分が埋まってしまうほどの小さな部屋であった。

 二等客室と書かれている通り、この部屋は船の中でも比較的広いほうに分類されるようで、更に一つ下の三等客室では両側の壁面が二段ベッドであり、テーブルなどの寛ぎの空間は無く、相部屋にもなりやすいらしい。ちなみに、等級がついた客室は乗船料に室料を加えた額が必要であり、乗船料のみでは、絨毯が敷かれた程度の大部屋で雑魚寝となるようだ。この部屋に案内されたという事は、今夜の布団はこの二段ベッドとなるだろう。

 しかし、カキョウはどうなる? 乗船料だけの支払いしかしていないので、彼女は雑魚寝の大部屋に移動しなければならないことになるのか? いや、女性の彼女を雑魚寝部屋に追いやるなんて、世間知らずの自分でも、そんなことはできない。

「二人ともここで少し待ってて」

 そういうと、ラディスは足早に部屋を出て行った。

 取り残された俺とカキョウは、ただ突っ立って待っておくのも変だなと思い、それぞれの武器を左側の空いた壁に立てかけて、カキョウが部屋の奥側に、自分が入口側の椅子に座った。

 改めてカキョウを見ると、世の女性というものは本当に小さいのだなと感心してしまった。

 比較対象であるネヴィアの場合、こうやって面と向かって着席している状況でも、ネヴィアのほうが頭一個から二個分ほど高いために、俺のほうが見上げないといけない。現在の俺とカキョウでは真逆の状態であり、彼女が俺より頭一個分ほど低いのだ。

(カキョウとネヴィアが面と向かって座ったらどうなるんだろう)

 単純計算なら三個分の差ができるのだろうが、それこそ体格の比率自体が違うために、個数以前に大小での違和感が起きるのではないか?

「えっと……、アタシの頭、なんか変?」

 彼女の頭の輪郭をじっと見ていたために、目線はあっていなかったものの、自身をじっと見られている感覚は、さぞ気まずかったものだろう。

「す、すまない。……その、角って本当に頭から生えているんだなと」

 先程、背についての失言をしている後ということもあり、咄嗟に出てきた返しが角についてだった。

 自分が分類上は純人族(ホミノス)であることや、今まで生きてきた環境での周りの者が巨人族(タイタニア)であるという事を知った今だからこそ、彼女やラディスのような本の中でしか認識していなかった種族との出会いが新鮮極まりないのだ。船長や中年女性、甲板に出ていた乗船客、船内ですれ違った人々だってそうだ。見るものすべてが興味の対象である。

 そして目の前には、自分の目線の位置に最たる興味対象として角があるはないかと、再確認している。

「これ? そうだよ、ほら」

 そう言うとカキョウは机に突っ伏すように頭を突き出し、角の付け根に当たる部分の髪の毛を掻き分け、頭皮から突き出す角をしっかりと見せてくれた。角は元々太い一本の角であるが、根本より少し上の部分から二本に枝分かれしており、大きさにして彼女の手の平と同じぐらいの長さであった。

「角は頭蓋骨から生えてるんだな」

「詳しく話すと、頭蓋骨に角芯っていう突起状の骨がついていて、その上に角鞘っていう爪みたいな硬質の皮膚が被さっているの」

 彼女は頭を戻し、髪も整えながら、さらに詳しい話を話し出してくれた。

 この有角族の角は頭皮から骨が直接飛び出しているのではなく、爪のような硬質の皮膚による保護膜によって守られており、骨が直接外気に触れないようになっている。これは動物の角の中でも、牛の角に近い構造をしている。

「ただ、動物の角と違って、角芯から折れてしまうと、二度と生えないらしいの」

 まず、有角族(ホーンド)の角芯には類似例として出てきた牛と同様に血管が通っており、角を切り落とすと血が出てくるらしい。この血管は脳等の大事な臓器とも繋がった大事なものであり、この血管が傷つくと、それらの臓器を守るために血管を切り離し、外部からの感染経路を塞ぐ防衛機能が備わっている。

 この防衛機能による血管の経路がなくなることによって、それまで身体から送られていた角の成長成分が角に行かなくなることで、二度と成長しなくなるようだ。

 これはどんなに素早く、角の断面同士をくっつけて、治癒魔法を施したところで、防衛機能の発動が優先されてしまい、外見上くっつくこともなく、今後一切の成長がなくなる。

 と、解説はしてくれるが、彼女の周囲では角芯ごと折れてしまうような大事故が起きたことは無いために、彼女自身も半信半疑である。

「でも、先っぽとかは爪と同じで角鞘だけの部分が多いから、転んだり引っ掛けたりして、少し折れてしまっても再生するよ」

 つまり、日常生活の中でも頭をぶつけたり、転んだりしても、角芯部分に影響がなければ、表面となる角鞘は皮膚と同じように再生する。

「なるほどな……。いや、それを聞いて少し安心した」

「安心?」

「例えば、立ち上がろうとしたときに他の人にぶつかったりして、角を傷つけてしまったら、こう……脆くなりやすくなってしまうんじゃないかと思ったんだ」

 初めこそ、キョトンとした表情でこちらを見たが、安心の内容を聞いてると、口元を押さえて小さく笑い出した。

「あー、そうだよね。いやいや、角はそんなに脆くないよ! 角鞘は重ね着の服みたいに角芯を守ってくれるから」

 つまり、角鞘は角芯にとっても緩衝材とも防具とも言える大事な組織ということだ。確かにそんなに脆ければ、彼女のように大っぴらに角を晒すことは無いはずである。

 また、彼女ら有角族(ホーンド)は頭に角を有している関係で、衣服は彼女のような羽織を胸元で重ねるような衣類や、首元が大きく開いた服を好むようだ。タートルネックなど服を下から着用し、最後に頭に吸い付くような着方をする服装では、角が引っかかり、破いてしまうらしい。やはり角鞘があるおかげで、角芯が傷つかないようになっている。

 他種族とは、本当に不思議なものである。角が生えているだけの差しかないのに、身体自体に起きている変化の差や、体に合わせた生活様式の変化が、ここまで違うのかと感心してしまった。

「本当にいろんな種族がいるんだな」

「そうだねー。私も魚人族をまじまじと見たのはラディスと船長さんが初めてだったよ」

「そう? なら、僕らの特徴も見てみる?」

 突如、背後からの声に、声は何とか上げなかったものの、思わず肩が大きく跳ねてしまった。

 振り向くと、ラディスが折り畳み式の簡易ベッドと椅子を持って立っていた。

 背後に迫る気配に気づかないほど、自分はカキョウから得た新しい知識と見聞という経験を愉しんでしまっていたのだろう。

「おかえりー」

 入口側が見えるカキョウには、ラディスの来るのが見えていたので特に驚く様子はない。

 驚かされてしまったこっちとしては、「ただいま」と笑顔で返すラディスにちょっとしたイラを覚えてしまった。

「びっくりした……」

「ごめんごめん。脅かすつもりはなかったんだよ。よっと」

 ラディスは手に持っていた折りたたみ式の簡易ベッドを二段ベッドに立てかけ、俺から見て囲っているテーブルの右側に椅子を置き、そこに座った。

「それで、僕等シープルの特徴についてなんだけど……」

 魚人族(シープル)の大まかな特徴は、人体に魚類と似たような構造体を持ち合わせている。

 分かりやすいところでは、耳の外輪が軟骨で出来た数本の筋が天に向かって伸び、その間を帆のように薄い膜が張られており、魚の各ヒレのような姿形をしている。

 また、手の平を精一杯広げると、指の付け根と第二関節の中間を頂点とした薄い膜が張ってある。カエルの脚と同じく水かきの役割を持っているらしいが、それにしては小さい。

「昔は第一関節ぐらいまであったらしいんだけどね」

 この指の膜は世代を重ねるごとに短小化してきているらしく、原因としては船舶の製造技術の発達など水中での活動時間が減ったことや、他種族の血が混じることによる血の薄まりなど、様々な要因があるようだ。あと数世代重ねれば、この水かきが無くなり、純人族(ホミノス)と同じようなただの手の平になってしまうと言われている。

「そして、見えづらいけど、最大の特徴がこの鰓だね」

 そう言って、今度はラディスが机に突っ伏すように前のめりになり、ヒレ状の耳の裏側を見せるように、耳を前に折りたたんだ。

 耳の裏、顎の付け根の皮膚に、二本の"切れ目"があった。

 切れ目の奥はまるで血管のような真っ赤な色の襞がびっしりと敷き詰められており、脈打つように小刻みに動いている。

 程なくして、切れ目は皮膚に溶け込むように閉じた。

「ごめんね。ここ、長く開きっぱにはできないんだ」

 詳しく言えば、魚人族の耳の下についている切れ目は本物の鰓であり、口から鰓に水を流す事で水の中に含まれる微量の酸素を鰓で取り込む。また、鰓の開閉を利用して三半規管や体内にかかる水圧を調整するために、水中で長時間の活動を行う事ができる。

 水中にいる時は鰓が自然と開き、それに合わせて気道と食道の入り口が同時に閉じられるために、水中以外で鰓を開くと呼吸が止まった状態になる。

 魚の鰓呼吸と大部分で同じ原理であるが、魚人族(シープル)の鰓には栄養摂取機能が無いために、食事は他の種族と同じく食道を通して、胃で栄養を摂取する。

「いや、無理させてすまない」

「気にしないで。僕から見せたんだし」

 ゆっくりとした動作で、押さえつけていた耳を元に戻すラディスは、小さく一息つくと、改まった表情でカキョウの方を向いた。

「さてっと……そろそろ聞かせてほしいんだけど、カキョウちゃんは何で密航したの?」

 旅行目的にしては危なすぎる橋である以上、何かしらの事情があってのことだろうとは思っていた。こちらから旅の同行を願い出たとはいえ、聞いておきたいところではある。

 ラディスも俺が箱詰めで国外で出されたのが計画的なものだとして、素性の知れない計画外の者を、勝手に増やすわけには行かないんだろう。

 彼の言葉に酷く目を泳がせたカキョウは、次第にうつむいた。

「その……家出……なの」

 小さく発せられた言葉の先は、とにかく家に帰りたくない、誰も自分のことを知らない場所へ行き、家に引き戻させないためだと語った。

「にしては、随分と思い切った行動だよね」

 この世界では、中型以上の船は基本的には国外との貿易船や渡航目的の定期船を指すものであり、この乗り合わせている船もコウエン国から交易品を載せ、ティタニス国を経由して、サイペリア国へ行くものだ。港に停泊していたのなら、船の行き先も自ずと国外である事は分かるものである。

 家出とはいえ、国外に出る予定の船に密航となれば、捕縛された際には国に強制送還され、様々な前科まで加算されるほどの危険極まりない行動であることだ。

「いや、つい……というか、港に行ったら、たまたま船があったから……」

 嫌な予想は的中するものだなと、つくづく思ってしまった。

 危機感を持っていれば、計画的に国外へ行く事だってできただろう。

 だが、俺も危機感が足りないと思う。

 素性も知れない相手に、突然旅のお供を頼んだのだから、軟派的行動と捉われるだろうし、彼女側からも危険人物と思われても仕方がない事案である。

 互いに怪しみだしたらキリが無い。

 が、着の身着のままで、何か荷物を持った様子もない今の彼女の姿からは、計画性も無く感情的にポッと家出したという事は、真実のように感じる。

 考え出せば俺とカキョウの行動は、ラディスから見ればつくづく呆れたものだっただろう。

「見つかった相手がいろんな意味で、彼でよかったね」

 いろんな意味の中には、命の危険以外にも何か含まれているのだろうか?

 ただ、ラディスの言う通り、出会ったのが俺でよかったのかもしれない。別に彼女の命を取って食おうという気は起きない。どちらかといえば、傍で常識を教えてくれる仲間が欲しいのだ。

「うん……ダイン、本当にありがとう」

 顔を上げたカキョウは、改まって深々と頭を下げた。

 他人から見れば俺の行動は奇抜なものだったかもしれないが、あらゆるものが無い今の自分にとっては、何かに縋りたかった心の現われなのかもしれない。

 だから彼女にとっての救いは、俺にとっての救いでもあるのだと思う。

「いや、お互い様だから気にしないで欲しい」

 これが今の俺から出てくる精一杯の言葉なのだ。

 彼女から何処がお互い様なのかと問われるが、少なくとも今こうしてゆったりとした時間の中で、世界の常識を吸収できる時間が持てたのも、今の俺にはありがたいものだった。

 そんな事を考えていたら、腹部から盛大な音が鳴った。

 ようやく、腰をすえて落ち着けたために、心も身体も安心しきったところで、身体の生理的機能が本稼動し始めたのだろう。理解してしまえば、腹に生まれた空腹感の支配速度は異様に速く、船の揺れと共に気持ちの悪さがこみ上げてくる。

 こちらの腹の音に呼応するように、カキョウのほうからも大きな空腹を訴える音が響き渡った。

 腹を抑えながらも、頬を赤らめる彼女の姿が、どことなく可愛らしいと思ってしまった。

「アハハ。二人とも戦った後だし、ダインは起き抜けで、カキョウちゃんも船に乗ってからは、まともに食べてないんじゃない?」

 確か、この貿易定期船はティタニス国の港町ヒュージェンよりも前にコウエン国の港町スイレンから出発しており、そちらも海の状況次第で二、三日間かかる。また、ヒュージェンでの停泊は荷物の積み替えなどで一日停泊する。最大でも五日間はまともに食事をしていない可能性がある。

「う、うん……飛び出した際に、持ってたお金で少しは……」

 少しと言っても二日間で、各二食分ずつしか確保できなかったらしい。航程はスイレンから停泊も含めると既に四日経過。つまり、一日一食ずつしか食べておらず、水も今日になって底をついた。一応、最悪の形は回避できた状態ではあるものの、空腹に加えて先の戦闘と、彼女の喉と胃袋は限界に近く、彼女の顔は少し青ざめ始めている。

「そっか。ちょうどお昼だし、急いで食堂に移動しよっか」

 俺とカキョウは、互いに腹の虫が大声にならないよう祈りながら、ラディスに食堂へと案内された。

 それからは、船長の言葉通り襲撃が無く、目的地到着までの間、平和な時間が流れた。

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