荻原唯 2


 

 願いはあっけなくついえた。聴こえてくる音色に走光性をもつ夏虫のごとく引き寄せられた俺たちは、ストリートピアノを奏でる少女……沙耶の背後で立ち尽くした。

 何度も聴かせてもらった、感情を自在に揺さぶる旋律。音楽史に名を連ねるピアニストとは一線をかくす力。

 白と黒の舞台の上で踊る指先は、文字通り、ひとの心を掴む。いい換えると、彼女に心の生殺与奪の権利を掌握される。

 人間の心を殺す楽曲を生み出すのは可能か、素人の俺には判断しかねるが、沙耶は「好き」や「嫌い」といった単純な感情の手綱たづなをひくことはできてしまう。

 今日、俺の内耳に届けられた音は最悪だった。おそろしく整っていながら苛烈かれつで、心をきしませる音程。

 聴覚が拒否反応を示すほどの不協和をもたらしている。

 嫌な音だ。

 嫌な予感もする。

 人殺しの記憶はどろりと濁った臙脂色のイメージだったが、それより格段に悪い。俺の生涯で一度たりとも生じたことのない、心の深淵に潜む悪意を刺激される。

 まるで怒りを煮詰めた成れの果て。これにかたちがあるとすれば、誰もがその醜悪さに目を背けたくなる。


「この曲はなんていうのかな」と荻原はいった。「わたしはすごく好き」

 

 好きなのか? 耳鳴りがする音を? 

 思わず、荻原を凝視した。感性はひとそれぞれ。沙耶と過ごした日々で教えられたこと。

 百も承知だが、嫌な予感は増すばかり。

 

「これはこれは、お似合いのカップルさん。小雨こさめが降りしきるなかでのご清聴ありがとうございました。曇天では音もくもったことでしょう」


 後奏らしきものを弾き終えた沙耶は手を止め、微笑をたたえて空を仰いだ。

 誰だおまえは、といいたくなる。

 ややあって、衝動は霧散する。沙耶は今日もベレー帽をかぶっていなかった。彼女はピアノを弾くつもりで公園にあらわれた。

 心を読みにきた。

 

「そんなことなかったよ」

「しかし連れ添いのかたはお気に召さなかったようです。天才と呼ばれた私の演奏を耳鳴りがすると一蹴しやがっ……りました」

「窪田くんが?」


 純粋な目でこちらを見ないでほしい。


「……まァ無理もないか。ここらで種明かしをしておこう。この音の組み合わせが好きな人はね」


 沙耶の瞳孔がひらく。

 彼女の唇から紡がれる言葉は、本当に、残酷な真実だった。


 ――憎しみを抱いている。それも途方もないくらいの憎悪。


 あぁ、やっぱりか。

 むなしい息が漏れる。


「唯さん……いいや、荻原唯。きみはきわめて強い憎悪を抱いているね?」と沙耶は問いただす。「今すぐにでも目の前の男の人生をめちゃくちゃにしてやりたい」

   

「なにをいってるの?」荻原は表情を変えずにいいかえした。「わたしが窪田くんに思うわけないよ」


 沙耶は腕を組み、意地の悪い笑みを浮かべた。


「いくら護身用といっても、ナイフを持ち歩かなくていいでしょう。普段は持っていないみたいだし」

「どうして……」


 狼狽した声が荻原の唇からこぼれ落ちる。

 蒼白になっていく表情を、俺は見ていられなかった。

 

「心が読めるの」と沙耶が短く告げる。「きみのためにいっておくけど、やめておいたほうがいい。きっと後悔する」


 それを聞き、荻原の目の色が変わる。


「あなたに、わたしの何がわかるっていうの」


 怒りに声を震わせていた。

 沙耶は鍵盤に手を乗せ、一呼吸おいて、荻原を見据える。


「わかるよ。心が痛がってる。だから止めようと思ったんだ」


 だって、と沙耶は言葉を紡ぐ。


「きみの心は叫んでいるから。憎みたくない、こんなこと思いたくないってね。その痛みを我慢できなくて、ぐちゃぐちゃになって、ねじ切れる寸前だ。よくもまァ生きていられたよ。あるいはもう壊れていたけれど、文彦が辛うじて繋ぎ止めたのかな。どちらにしろ、私には治せない」


 喜怒哀楽では表せない嫌悪と苦痛に歪めた表情を荻原が作り、すぐにそれを引っ込め、沙耶を睨みつける。

 静寂。

 言葉の余韻を雨がきかせる。俺は世界の終わりを切に願う。


「治せるわけないよ。あなたが心を読めるとしてもね。わたしの気持ちは理解できないでしょう。

 わたしは、ずっと窪田くんが来るのを待ってたんだよ。馬鹿みたいに。医療少年院にいたときも。一回でいいから、わたしに会いに来て、それで怒ってくれたらよかった。なんで庇ったんだって。

 面会がだめなら、手紙の一枚でもよかった。そしたら許せたのに。窪田くんは来な かったし、手紙もくれなかった。

 はじめは居場所を調べるのに手間取っているのだろう。葛城先生に手紙を託したのなら卒業までは忙しいのだろう。……色々考えたよ。

 でもさぁ。

 何年も待っていれば、馬鹿なわたしでも気づくよね。きみは、わたしのことなんか、どうでもいいってことに」


 どうでもいい、の冷たさにぞっとする。

 言葉が刃物になり得るというのなら、極限までがれた切っ先を首筋に突き立てられている気分だった。


「それは違う……ちがうんだ。俺は昨日まで記憶喪失だった」


 いや、そうだ。どうでもよかったはずの少女。忘れられなかった少女。忘れていた罪。歯車の噛み合いは見せかけで、ずれていた。

 俺は荻原を救えてなどいなかった。救えないばかりか、彼女の心を完膚なきまでに痛めつけた。

 これは罰だと思った。


「信じられると思ってるの? 都合のいいことは起こらない」


 都合のいいことは起きてしまった。そう伝えてやりたいものだが、必要なときほどかえって言葉は嘘くさい。


「奇跡は起こった」沙耶がトートバックを俺の足元に投げる。「念のためカルテを持参してきて正解だったよ」


 地面に衝突した際にクリップで留められた診療記録がはみ出る。俺はそれを拾い上げ、荻原に中身が見られないようにして破った。

 荻原は今日まで俺を憎んで生きていた。

 いま一番やってはいけないことは、彼女の七年間を無駄にすること。俺は憎悪の対象であるほうが好都合。心のなかで沙耶に謝っておく。


「ごめん、嘘だ。記憶喪失っていうのは咄嗟に思いついただけ。沙耶に頼みこんで偽装してもらった。荻原をだますために」

「……だと思った。窪田くんがそういう人間でわたしはよかった。きみが死んでも、悲しまずにいられそうだよ」

「そうだな。荻原の気持ちを裏切った俺は殺されて当然の人間だ。持っているナイフでひと思いに突き刺してくれないか。きみに殺されるなら構わない」


 ただでさえ一人の命を奪っている。逆に奪われても仕方がない。荻原が俺の自由いのちを脅かすことは、彼女の自由だ。


「突き刺すだけじゃ、わたしの怒りはおさまらない」

「なら気が済むまで拷問にかけてくれ」

「窪田くんはなんにもわかってない!」

 

 激昂した彼女に胸ぐらを掴まれる。突然のことに身体が対応できず、俺たちは地面に倒れ、二人の傘が宙を舞う。腹部に体重がかかる。背中にじわじわと冷たさが拡がる。雨粒は彼女の髪に溶ける。

 泥が跳ねるのも気にせず、荻原がさけぶ。


「どうでもいいならなんで助けたんだよッ! 忘れるくらいなら、中途半端に置き去りにされるくらいなら、あなたの助けなんかいらなかったのにッ! なんでいまさら掛けてくるのッ! なんで……わたしから消えてくれないの」


 掴んでいた右腕を離し、高く振り上げる。殴られると思った俺は、目をつむる。しかしいつまで経っても衝撃はやってこなかった。かわりに湿った布の感触があった。

 唇をきつく結び、濡れた頬を袖でいてくれている。どうしてそんなことをするのか、俺にはわからなかった。

 

「俺は殺したいほど憎い相手だろう」

「わたしにもわからないよ」


 それがすべてだと、なんとなく理解する。どうしようもなくどうしようもない感情にき動かされた結果、そうしてしまった。俺が彼女の義父を殺したように、荻原も。

 浅く息を吐き、雲を眺める。袖がナイフでも、俺は穏やかな気持ちでいられただろう。

 しばらくすると景色が傘にさえぎられる。沙耶が俺たちの元へ歩み寄り、拾った傘を掲げてくれたのだ。


「明日っていったよね。きみが文彦を殺すつもりにしろ、自殺した姿をみせつけるにしろ……明日までは時間があるわけだ」場違いに落ち着きはらった声でいう。「なら一緒に来て」


 夕餉ゆうげの準備をするみたいな音調だった。

 荻原が無言で立ち上がり、乱れた衣服を直す。俺もならって立ち、シャツの皺を伸ばした。


「今日は予定があるの」

「金槌、睡眠薬、ロープ、スタンガン、結束バンド、ハングマンズノットの検索。べつに道具を揃えるのは二時間後でも構わないでしょう」


 観念したように、荻原は黙りこんだ。


「一ついいことを教えてあげる。ここで記憶を盗まれたカピバラみたいな顔で突っ立っている男はね、きみが死ねといえば喜んで自殺するくらいの救いようのない馬鹿なの。お金の無駄だから、買い物はしないほうが賢明だよ」

「……自殺されたところで、わたしの気持ちは晴れてくれないから」

「それもそっか」


 あっさりと肯定し、ひとり、やけに楽しそうに鼻歌を歌いながら駆けていった。そして振り向きざま、手招きをして俺たちを呼びつける。 


「私のお父さんが美術館の駐車場で待機してる。二人とも、こっちこっち」


 歩きだした荻原の背中を見て、ジョン・スタインベックの「怒りの葡萄ぶどう」が脳裏をかすめる。

 住まいを失った家族のオクラホマからカリフォルニアまでの過酷な旅路と、約束の地で待ちうける苦難を描いた作品。カリフォルニアに行けば救われると、ありもしない希望をおんぼろなトラックにたくしたジョード一家のように、荻原もかつて、俺に希望を抱いていた。

 希望が粉砕されたとき、人間は、ちっぽけな胸には入りきらない大きさの「怒りの葡萄」を実らせる。

 みにくれた果実が彼女を生かしてくれた。こう考えてみると、それはそれでわるくないとも思える。 

 この期に及んでそんなふうに考えていた俺は、八方塞がりな現状を打開するすべがひとつだけ残されていたことに最後まで気がつかなかった。先にいっておくと、答えは腕のなかにあったのだ。





 谷崎先生を含めた車内での四人の空気は色々と気まずいものだったが、ひとつこんなやり取りをした。


「どこに向かうんだ?」俺は助手席の沙耶に訊いた。

「着いてからのお楽しみ」もったいぶった返答を寄越す彼女は、ピロウズの「スケアクロウ」を口ずさむ。

「いい曲ですよね。ぼくは好きだなぁ」と谷崎先生がいう。


 取りとめのない会話であるのに、頭にこびりついて離れなかった。スケアクロウ。ろくでなしの私たち。

 選曲に意味らしい意味は、なかったのだろうけど。 




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る