煙晴るく 3

「なぜ、そのことを……」


 俺は立ち去ろうとするスモークさんを呼び止める。彼に小説を書いていることを教えたおぼえはなかった。


「あぁ……あの女がいっていた。あんたはいい文章を書くってな」

「いつのことですか」

「いつって、ついさっきだが」

「ついさっき?」

「あんたが来る四十分くらい前だな。精神科に用があるとかなんとか……聞いてもないこと喋るだけ喋って帰りやがった」


 嵐のようだ、とスモークさんはいう。


「精神科ですか……。他に何かいってましたか」

「準備が整う、だと。おれには見当もつかないが、病を患っているわけではなさそうだ」

「沙耶のことはわからないですからね」

 

 彼女が事件に巻き込まれたわけではないらしく、安堵の息が零れる。スモークさんの話を聞いたからこそ、沙耶の失踪に事件性が無きにしもあらずと危惧きぐしていた。

 通院以外で精神科に用事があるとは考えにくいが、彼女の母親は児童養護施設のセラピストだ。

 頼まれごとはあり得る。俺はひとまず、「ありがとうございます」と礼をいう。スモークさんは眉を動かした。


「深く関わるなといった手前あれなんだが……好きになったンなら大事にしろよ。誰だって、今日が最後になるかもしれない。おれみたいに後悔だけを残すと悲惨だからな」


 その言葉に、少しばかり考えさせられる。

 俺がスモークさんだったとして、言葉を使ってハルさんを救えたのだろうか。いいや、言葉には限界がある。

 壊れた心に対して、言葉は驚くほど無力なことがあるのだ。理不尽にさらされて今にも命を投げうってしまおうと考えているひとに、どれだけ綺麗な言葉で取り繕っても届きはしない。

 時には、年齢も善悪も何もかもをかなぐり捨てて唇を塞いだり、骨が折れるほどつよく抱きしめてしまうほうが物事を瞬時に解決してしまうことさえある。


「そうですね」と俺は苦笑する。「でも、俺はあなたが羨ましいです」

 

 本人は気づいていないけれど、ハルさんはしっかりとスモークさんにのこしている。

 自分の遺品を受け継いで二十年も捨てずにいる愚か者を、霊魂になった彼女が目撃したとしたら、おまけに愛くらいはついてくるだろう。

 スモークさんが写真家として大成できず、いつまでもココアを好きになれないのは、ひとえにハルさんの仕業なのかもしれない。

 彼の幸せを願い、過去のしがらみから解放されるように呪いをかけているのだ。とすれば、そねむ心すらもばかばかしい。

 二人の関係の美しさに胸が躍りだす。

 俺は路上でたたずむスモークさんに、携帯電話を構えた。幽明のさかいを越えた相愛をの当たりにし、放っておけるほど感性をなまくらせてはいなかった。


「あの、写真を撮ってもいいですか」

「おれなんか撮っても面白くねぇだろ」

「いいえ、ツーショットです。二人を撮るんですよ」

「……あんたも変わってるな」

 

 同意と受け取り、俺はシャッターを押した。この写真にはスモークさんとハルさんが映っている。

 そういうことにした写真だ。


「……俺は考えていました。小説家にしかできないことは何なのかと」


 何かを伝える手段としては優秀だが、何かを訴えかける手段としては他に劣ってしまう文章。

 伴奏で真価を発揮する楽器を主旋律として演奏するとき、その楽器の音色でしか表現できない何かが必要となる。


「きっとそれは、死んでしまった人を生き返らせることだと思うんです」


 映像は生きている人を使わないといけないし、絵画では象徴的なものになってしまう。

 亡くなった人を死者のまま、命を吹き込むことができるのは小説家だけだ。漫画でも同じことはできるけれど、やはり絵はどうしても視覚に正解を与える。それに半分は文字に頼っているから、小説よりも優れているとは言いがたい。

 スモークさんは何もいわなかった。

 俺はしどろもどろになりながらも言葉を繋げる。

 だから、その。えっと……。

 必死に脳内を駆けずる言葉から相応しいものを探す。

 迷惑じゃないなら。もしよければ……、


「ハルさんを生き返らせてもいいですか」


 俺の心と言葉で。ハルさんの時間を巻き戻したい。


「好きにしろ」とスモークさんはいった。「どいつもこいつも。勝手なことばかりいいやがって」


 憤慨したような口調で、けれども怒りの感情はなく柔らかい声で、彼に吐き捨てられる。

 照れ隠しであれば嬉しく思う。

 俺は忘れてしまわないよう、二人の写真を保存したフォルダを〈煙晴るく〉に改名しておく。

 記憶とデータの片隅で温め、いつかちゃんと言葉の領域に翻訳できる力が備わったなら、〈煙晴るく〉の執筆に取りかかるつもりだ。

 タイトルの読み方は決めていない。スモークさんとハルさん。けぶり男と晴れ女。二人に関係するなら好きに読めばいい。


 一冊くらい、そんな小説があってもいい。 

 


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