眠る蜻蛉 2



 奇妙な男の幽霊探しは二十年前に始まったのだという。

 毎日、決まった場所の写真を撮り続けているという彼の話を聞いて、俺が真っ先に思い浮かべたのは、ポール・オースターが脚本を書いた映画、「スモーク」に登場する主人公だった。ブルックリンで煙草屋を営む主人公――オーギー・レンは、同時刻に同じ場所の写真を十四年も撮り続けている。だから、その映画のタイトルにあやかって、彼をスモークさんと呼ぶことにする。

 

「沙耶とはどういった経緯で知り合ったのか、訊ねてもいいですか?」


 スモークさんは掠れた声で、あぁ、といって街路樹を指差した。


「去年の冬の、今日と同じくらい晴れていた日だ。ちょうど、あんたの隣に立ってるけやきの下で、あの女は絵を描いてた。最初は気にしてなかったんだが、何度も見かければ嫌でも気になってくるだろ」


 彼は不愉快そうに鼻を鳴らす。


「何してンだって訊いたら、あいつ、星を描いてるって答えやがった」


 見えないものを描かないといけない。ゆえに昼間に星を描く。なるほど、沙耶ならやりそうだ。

 俺はスモークさんの話から、当時の会話を想像する。そういった妄想を容易にできるのは趣味による数少ない恩恵の一つだといえる。

 二人の出逢いは、きっと彼の荒っぽい台詞で始まる。

 街路樹の根が盛り上がったまま舗装されていない歩道のアスファルトで、折り畳みの椅子に座って空を見上げる女の子。

 雪はどうだろう。溶けきっているかもしれないし、足元には薄く残されているかもしれない。

 生きていたくないやつ向けの煙草を吸いながら、「星なんて」と男はぶっきらぼうにいう。


「昼間から描いても意味ないだろ」


 女の子は表情を変えない。 


「意味なんかいらないよ。青空に星を描く画家がいても悪くないでしょ」

「そうかい」

「逆に訊くけれど、あなたは何の写真を撮ってるの?」


 スモークさんのほうを見向きもせず、彼女は空を眺め続ける。彼もそれにならって空を睨む。吐き出した煙は真冬の青に吸い込まれて消える。


「心霊写真だよ」と彼は答えるのだろう。


 そこでようやく、沙耶は意地の悪い笑みを浮かべて振り返るのだ。


「アドバイスをしてあげる。探すのは夜にしたほうがいい」

「うるせぇ、昼間に幽霊を撮る写真家がいてもいいだろ」

「時間の無駄だね」

「可愛くねぇガキだな」


 苛立ちを隠せないスモークさんと、自分のペースを崩さない沙耶。会話だけのはずが、やけに生々しく再生された。

 時間をさかのぼって現場に居合わせたみたいだ。「彼女らしい」と呟かずにはいられない。

 スモークさんは眉間にしわを寄せ、不快感をあらわにする。


「なに嬉しそうにしてんだ」


 といって、彼は自販機で甘ったるいココアを購入した。余計に喉が渇きそうな飲み物を一息で飲み干すと、中身が飛び出ているゴミ箱に押し込んだ。今度は口直しとばかりに水を飲み始める。


「惚れてんのか?」

「そこまでは……ないと思います」


 はっきりと否定はできなかったが、認められるほどの動揺もなかった。沙耶を異性として意識している。でも、それだけだ。彼女に対して盲目になれるほどの感情は、ない。

 それは今に始まったことじゃない。もうずっと、ひょっとしたら一度だって、俺は恋に落ちる感覚を知らない。だからこそ、街中で幸せそうに腕を絡める男女の人間らしさをうらやみ、そのたびに俺は欠陥品だと自責の念に駆られる。

 そのくせ自分に向けられた好意は突っぱねるのだから、俺は救いがたく愚かな人間なのだろう。

 スモークさんは眉間の皺をさらに深く刻んだ。   


「忠告しておいてやる。あの女とは深く関わらないほうがいいぞ」

「なぜですか?」

「分かるんだよな。おれも似たような雰囲気の、何考えてんのかわかんねぇ女に人生を滅茶苦茶にされたことがある」


 人生を滅茶苦茶にされたことがある。そう断言するわりには、言葉に怨恨えんこんの情を感じられなかった。

 ろくでもない娘だ、といいながら我が子を溺愛する父親に似通っている。


「いいか、あの女が悪意を持ってるわけじゃない。理解できないってのが重要なんだ。なんつーか、おれたちは無意識に理解できないものを信仰する。奇行が印象に残るのもそうだ。だが、いくら信仰したところで理解できないものは理解できない行動をしやがる。

 最後にはこっちの気なんか知りもしないでどっかに行っちまう。そしたら、取り残されて前に進めなくなるのは凡人のおれたちだ」

 

 心臓が止まるかと思った。俺にはその気持ちがよくわかったからだ。もし沙耶が町からいなくなったら。

 荻原ですら未だに忘れられない俺が、沙耶を忘れるなんて果たしてできるのだろうか。


「……まったく笑えない話です」

「灰色しか映さねぇ腐った目にとって、普通じゃないやつは輝きそのものだろうよ。あんたに、あの女がどれほど魅力的に映ったとしても、下手に入れ込むと痛い目をみるぞ」


 スモークさんの人生を滅茶苦茶にした女性は、いったいどんなひとだったのか興味がわいた。


「あの……幽霊探しは、その女性と関係があるんですね?」

「教えるわけねぇだろうが」と彼は頬を緩ませていった。「今のあんたにはな」

「では、いつかは教えてくれると」

「そうだな。あんたがもっと絶望して、この世の終わりみたいな顔してたら教えてやるよ」


 ないといいですけどね。と俺は心のなかでいった。それに対し、遅かれ早かれ絶望するだろうよ、と自答する。

 幸福よりも不幸のほうが想像しやすいのは、いかにも臆病者らしく、また自分自身に巣食すくう悲観主義は嫌いではなかった。嫌いになりきれなかったことが、自らを中途半端に空っぽな人間に至らしめた。沙耶の言葉を借りるなら、根本的に生きるのが下手なのだ。

 必要以上に自分をあわれむことはせず、俺はスモークさんと向き合った。彼は何かを勘違いしたのか戸惑いを見せる。大方、強い語調に俺が気を損ねたとでも思ったのだろう。


「あれだ、代わりにこれをくれてやる」


 五本目の煙草を吸うか迷う素振りを見せ、吸わずにアルバムから写真を一枚だけ抜き取って差し出す。


「写真を?」

「あんたにとってはゴミだろうがな」

「まぁ……」 

「当たり前だな。こんなの欲しがるやつはいかれてる。けどよ、それがおれの芸術ってやつで、おれは自分以外の誰かに無駄に費やした二十年を伝えたい」と彼は真面目な顔をする。「しょうがないだろ」

「しょうがないですね」


 俺は幽霊不在の心霊写真を受け取った。


「……あんたと話せてよかったよ。写真は破って捨ててくれても構わない」


 遺言めいた台詞を残し、スモークさんは路地に向かって歩きだした。やがて頼りなく揺れる背中は影のなかに溶け込む。

 彼が立ち去った後、いわれた通り、俺は写真を折り畳んで捨てた。情が移るまえに処分しておこうという判断だ。

 俺は、もう少し休息をとり、公園には寄らずに帰ろうと思った。会話のおかげで散歩には満足していた。

 突然、携帯電話が鳴る。沙耶からだ。合鍵を所持する隣人が、携帯の電話番号くらい把握していても違和感はあるまい。


『今、どこにいるの?』


 いつもより高めの声。雑踏の片隅に何人かで固まっているようで、端末の向こうは騒がしかった。


「公園だよ。美術館の隣にある」

『そう……なら、そこで待ってて。すぐ行くから』


 天体観測に誘われた夜のように、胸がすこし高鳴る。


「分かった」

『文彦と美術館に行きたかったし』


 電話越しに若い女の子たちのはやし立てる声が聞こえる。その嬉々とした声を聞いて、沙耶にも年相応の友人がいるのだと安心する。正直、彼女は健全な人間関係を築けるのか疑わしいところがあった。しかし意外にも問題はなさそうだ。


「……うん。じゃあ、切るよ」


 情けないことに電話を切った後で、彼女の友人らが俺にとって都合のいいように二人の関係を誤解してくれないかと考えた。

 何を考えているんだ、と頭を振り、邪念をかき消すべく歩を進める。

 蜻蛉が二匹、じゃれ合うようにして飛び去った。〈眠る蜻蛉せいれい〉だってさ。ほんとうに、俺はどうかしている。




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