透明人間のために 3


「もしかして」と俺はいった。


 あれから夕食の準備をする時間までピアノを聴かせてもらい、続きは自由時間に、という約束をした。

 食事中、たまたま通りがかって聴いていたらしい学生の一人が、沙耶のピアノの凄さについて興奮気味に語っていた。

 二十時をまわる頃には手伝えることもなくなり、俺は真っ先に沙耶のいる部屋に向かった。

 休日の夜はピアノを弾かないといっていたが、ボランティアは明日までということで頼み込んだ。

 そのとき、沙耶は嬉しそうに返事をくれた。なんてことはまるでなく、めんどくさそうな表情を隠そうともしなかった。


「智香さんって、沙耶の家族なのか?」


 ほとんど確信をもって訊ねた。同じ苗字だから、容姿に面影があるから、仕草が似ているから、二人の会話が周りとは異なって見えたから。理由を挙げていくときりがない。

 一つひとつは何となくの範疇にとどまるが、口に出して確認してみるくらいには「何となく」の精度を信用していた。


「そうだよ。ここでは先生って呼んでるけど」


 沙耶の話によると、「虎の杖」では働きかたに決まりはなく、通勤か住み込みかを自由に選ぶことができる。施設に幼い子どもがいるうちは、智香さんと保育士の二人がかりで寝泊まりすることになっていた。

 いくら近くに勤務しているといっても、シングルマザーだった智香さんは薄暗いマンションに置き去りの娘を心配し、施設への引っ越しを提案したものの沙耶は断ったそうだ。

 俺も、仲野沙耶なら断ると思った。彼女の明るさは、きっと賑やかな家庭を好まない。


「分かる気がする」

「なんか気持ち悪い。ぞわっとする」


 相槌だけで酷い言われようだ。

 とにかく、彼女は施設に住んでおらず、普段はピアノと夕食のために通っていることが分かった。 


「文彦の趣味はなに?」


 今度は沙耶が質問した。


「悪いが俺には趣味と呼べるほど好きなことはないんだ。最近になって小説を書き始めたけど、それも特別好きってわけじゃない」

「へぇ、小説。読ませてよ」

「勘弁してくれ。とてもじゃないが、他人に見せられるほどの文章じゃない」

「いいじゃん、笑わせてくれても」


 そういわれてしまうと、不格好な笑顔をつくって流すことしかできない。

 原稿を持ってないことを伝えたら、彼女は唇を尖らせ、「持ってても見せないくせに」となじってきた。


「でも、分かるけどな。考えることが好きってことでしょ?」


 敢えて返事はしなかった。

 書くことは好きじゃないけれど、趣味まがいのものに物書きを選んだということは、考えることが好きなのかもしれない。


「私も考えることがあるんだ。音のない世界を音楽で表現する方法はないのかなってね。あったとしてそれは、楽譜にすると白紙なのか、休止符だけが記譜されているのか」

「それって違いはあるの?」

「もし休止符だったとしたらさ」


 といって、鍵盤をなぞり「ソ♭」の音を鳴らした。


「こうやって前か後ろに音があったかもしれないってことでしょ?」

「たしかに。あったかもしれない」


 彼女と自分の思考を重ね合わせるように、俺は目を瞑る。

 音のない空間の中心に俺は立っている。

 俺が立っている場所は、二つの音の間隙かんげきを引き延ばした刹那だろうか。曲が始まる直前の張りつめた空気の中だろうか。曲が終わった解放感に包まれているのだろうか。あるいは本当に何も、何一つの音もなかったのかもしれない。

 沙耶はそれを音楽で表現したいのだという。不毛な考えだ。耳の不自由な人が宇宙のはじまりの音を知りたいと思うくらい、不毛だ。知ったところで、誰のためにもならない。

 音のない世界を音楽で表現できたとして、それがなんだ、といわれてしまうだろう。

 そんなこと分かりきっている。分かりきった上での無意味さは好きだった。俺は無意味さにまみれた思考を楽しんでいる。なるほど、確かに俺は考えることが好きで仕方がない。


「どうでもいいことだけどね」


 沙耶は茶化すように肩をすくめた。

 俺はピアノを弾いていない、仲野沙耶という少女にわずかな興味を持った。 


「そういうの、俺は好きだ」


 ここにきて、俺たちはありふれた会話をした。

 たとえば沙耶の通っている高校は海の近くにあること。ピアノは物心ついたときから弾いていること。鍵盤に触るのは呼吸と同じようなもので好きではないこと。実は楽譜が全然読めないこと。

 おそらく過去にうんざりするほど繰り返した、心底うんざりする内容の会話は、最後に別れを惜しむくらいには盛り上がった。


「文彦とは気が合うかもしれない」


 ぽつりと、彼女が声を漏らした。


「俺たちが話せるのは、今夜だけだ」


 自分でいいながら、初めて会話する女の子とすぐに会えなくなる奇妙な人生だな、と思う。


「そうだね。私たちはもう会うことはないかもしれない。けど、芸術家はどうしようもなく惹かれあってしまう生き物だから、文彦が書き続けているかぎり、いつかは会うんじゃない?」

「沙耶が弾き続けてるかぎり?」

「どうかな」


 彼女は何ともいえない表情を浮かべていた。

 椅子の上で身体をくるりと反転させると、白い指先を鍵盤に落とした。背すじがあわ立つ。

 また、曲が始まる。


「では餞別に、文彦のために曲を作ろう」



 あのピアノを聴いてから五年の月日が経った。五年も経ってしまっていた。転勤先の町は、かわり映えのない地元の景色とは違い、せわしなく工事が行われている。古い建物は壊し、どんどん新しいものが建つ。寿命を迎えた細胞が入れ替わるみたいに、町全体が急速に入れ替わる。

 行き交う人々も、駅構内の宣伝も、コンビニの商品も。見慣れることなく新しいもので溢れかえり、見知らぬ他人だけが増えていく。

 五年間、変わらないものもあった。六月に降る雨のにおいと、自宅と職場を往復する自分自身。

 懐かしい記憶をたぐりながら、沙耶の連絡先が電話帳にないことを確かめた。

 深いため息が出る。

 寂しさも後悔もない。

 むしろ喜ばしいかぎりだ。輝かしい未来が確約されている少女に、ただ生きているだけで精一杯の惨めな姿を晒さなくていい。

 学生のとき、「それで食べていけるのか」といってばかりの両親が嫌になった時期がある。社会人になった今ではその気持ちがよくわかる。何の目的もなく生きていると、ひとは金しか信じられなくなるのだ。何をするにも金がかかるから、金にならないものは価値がないと錯覚してしまう。

 錯覚は自分のなかにもある。

 仲野沙耶の才能を、純粋な感動とは別の金銭的価値で判断している部分が嫌いでたまらなかった。

 二十五の俺は、二十歳と同じ感動を味わえない。

 改札を抜けたところにあるベンチで休憩していると、隣に若い男が座った。男は生きているのが楽しくてしょうがないという声音で、恋人と通話をしていた。俺は無性に腹立たしくなった。

 男が立ち上がった際、煙草と百円ライターを忘れていったので、腹いせにそれらをポケットにねじ込んで喫煙所に入った。煙草を吸う習慣はなかったが、このときばかりは悪くないと思った。

 谷崎先生に挨拶をした帰り、駅のロータリーで知り合いと鉢合わせたのは偶然ではなかった。


「やっ、フミくんにしては早いじゃん」


 彼女、相澤あいざわとは飲みに行く予定を立てていた。

 相澤は会社の同僚に紹介された子で、明るめの茶髪と薄い眉毛からやんちゃな印象を受けるが、相手に不快な思いをさせずに話すのが上手く、何をいっても大袈裟に笑ってくれる。

 最初に会ったときはさすがに緊張もあったが、別れ際にはそれなりの好意を示してくれた。俺も相澤と一緒にいるだけで退屈しなかった。

 飲みに行くのはこれで四回目になる。気がつけば自然な笑いかたで接する間柄になっていた。

 二人でぶらぶらと歩きながら入れそうな居酒屋を探す。木曜日なので一軒目に入ることができた。

 席に座り、俺はいつもの倍のペースでビールを注文する。とにかく酔いたかった。

 すると自棄になっている理由を相澤に訊かれ、話の流れで仲野沙耶について教えることになった。


「どんな子だったの? 可愛かった?」

「変わった子だったなぁ。会話の内容は気まぐれだし、勝手にあだ名まで付けられた」

「あだ名って」

「透明人間」

「まって、めちゃくちゃ面白いじゃん!」

 

 俺は会話を盛り上げるために嘘をいた。さすがに中身のない人生を送ってきた俺でも、誰かに透明人間といわれたことはない。

 沙耶が贈り物と称して作った即興曲のタイトルが、〈透明人間のために〉であったというのが真実。

 直接いわれているようなものなので、完全な嘘とも言い切れず複雑な心境だった。


「本当に変わった子だったなぁ。素人でも分かるくらい天才してるくせに、ピアノを弾いてるときはこれっぽっちも顔の筋肉が動かないところ。

 普通はもっとあるだろ。なんかこう、才能に驕ってたり、楽しそうだったり、情熱的だったり」


 身振り手振りを交えて説明する俺を、相澤は可笑しそうに眺めていた。 


「そこまでいうのってフミくんにしては珍しいよね。いつも他人のこと忘れてるくせに」


「あんなの一回会ったら忘れないって」自分の内側から笑いが込み上げてくる感覚があった。「忘れてたけど」


「でも妬けちゃうなぁ」

「けっこう酔ってきてる?」


 ジョッキの底のほうに置いてけぼりの泡を胃の中へと流し込んだ。うへぇ、と声に出しそうになる。

 心なしか彼女の頬は赤い。


「フミくんがいつもより男らしく見えるくらいにはね」


 このとき彼女の発する言葉の端々から、二人の関係を気の合う異性から次の段階に移行することへの淡い期待を感じ取っていた。

 俺からの誘いを待つサインのようなものが、飲みかわすたびに、日を追うごとに増えているのも気づいていた。気づいていながら今日まで先延ばしにしていたのだ。

 そして今日も。本当は全部分かっているくせに何も知らない振りして、居心地がいいだとか、気を遣わなくて済むだとか、曖昧な言葉とアルコールで罪悪感を薄めてやり過ごそうとしている。

 好意と向き合えば彼女の見せる笑顔が失望の色に染まってしまうのは確実だった。いくら目を背けようが、変化を望む人間と不変を望む人間の関係は長くは続かない。

 つくづく自分は最低な人間だと嫌気が差した。


「今日は来てくれてありがとう。フミくんと話せて楽しかった」


 話しぶりから、俺の思惑はとっくに見抜かれているに違いなかった。

 彼女は賢い。期限があるとすれば今日までなのだろう。期待に応えなかったとしたら、俺に見切りをつけて距離を置く可能性が高い。


「最後に一つ聞いてもいい?」

「いいけど」


 今日はよく最後の質問をされる日だな、と思う。


「もし、その子と再会したらさ、どうする?」


 酔っているせいか言葉足らずで分かりにくい。


「どうするって」俺はおどけてみることにした。「恋でもするんじゃないか」


 答えを聞いて難しそうな顔をしたかと思えば、急に顔を上げて叫んだ。


「やっとかー!」


 その叫び声に、心が癒された。彼女はとてもいい人だ。アパートに帰って酔いが醒めてくる頃には、相澤の期待に応えなかったことを後悔していた。

 俺は人間関係を蔑ろにしすぎている。

 だがこれでよかった。他に冴えたやりかたなんてない。

 頭の中に響いた一文を、小説のどこかで使えるかもしれないとメモした後、反芻させるように口を動かして眠った。


 そう、俺は未だに小説を書き続けている。


 




 


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