夏の雪解け

スズムシ

夏の雪解け

 見慣れた他人というのは、ひどく曖昧な存在だと俺は思う。

 それは互いの存在を明確に認識していながらも、決して近づくことはなく、一定の距離を保ったまま凍結された人間関係のことだ。

 たとえば、最寄り駅の三番ホームに立っている派手なネクタイのビジネスマンや、踏切の遮断桿の向こうでスマートフォンを眺める学生、ポイントカードの有無を覚えてくれないコンビニの店員、帰宅途中にすれ違う犬のリードを引っ張る主婦といった具合に、俺の周りにはまったく関わりはないが顔見知りの他人で溢れかえっている。

 無数にすれ違う人々の大半は風景の一部として溶け込んでいるのに、稀に無視できなくなることがある。

 荻原おぎわらゆいがそうだった。

 彼女とは高校一年生のときから三年間ずっと同じクラスメイトだが、一度も話したことがなかった。

 ただ気がつくと、彼女はいつも俺の前を歩いた。

 一週間も降り続いた雨が止んだ六月の終わりに、荻原は転校生としてやってきた。 

 急な環境の変化に慣れているのか、あまり緊張する素振りは見せず淡々と挨拶をこなしていたが、まとわりつくような熱気に満たされた教室内では彼女の長袖の制服がやけに浮いてみえた。

 五月の半ばを過ぎたあたりから、精神的な病の治療のために休学している女の子がいたので、彼女はそこに座ることになった。さすがに入学してから一か月のあいだでは、グループに入りそびれた人、なかには嫌われる人が出てくる程度でいじめまで発展することはなかったと思う。

 俺は廊下側の一番後ろの席に座っていて、ほぼ対角線上に居る女の子との繋がりはなかったし、もともと休みがちだったので直接的な原因は分からない。季節がそうさせるのかもしれなかった。

 彼女が担任の教師に促されて椅子に腰かける姿を、何も考えずに目で追っていた。


「あの子、変わってるよな」

「長袖は暑くない?」

「ずっと勉強してんじゃん」

「でも胸は意外とありそう」


 時折、友人たちとこうして変わった転校生を話題にしたり、移動教室や購買に行く途中の廊下でよく見かけるうちに、やがて荻原を「見る」ようになった。

 荻原が同じ駅で降車することを知ってからは、自然に登下校の時間を合わせるようになっていた。しかし俺たちのあいだに一切の会話はなく、電車の席が空いているときははす向かいになるように座り、席が埋まっているときは教室と同じように彼女の対角線上にある吊り革を掴んだ。 

 彼女はいつも道路を挟んで向かいのみちから歩いてくる。

 俺は追い抜かれるまでわざと立ち止まって、後ろから歩調を合わせて駅までの緩やかな坂道を上る。

 高校二年生のときに初めてできた恋人と手を繋いで歩くよりも、荻原との距離感のほうが心地よかった。

 俺のほうがよっぽど変わっていると思う。

 もう三年間は彼女の背中を見続けている。学校という極めて閉塞的な環境での三年間は、気の遠くなるほど長かったはずが不思議なことに振り返るとあっという間に過ぎていた。

 目標のために勉学に励んだわけでもなく、部活やアルバイトに精を出したわけでもなく、時間を忘れて没頭できる趣味も、馬鹿みたいに騒いだ思い出もなければ、死にたいと思えるほどの苦悩もなかった。

 残っているのは濃淡も明暗もなく無難で平凡なレールの上を歩いた日々の記憶だけ。無難でいることに慣れすぎてしまったがために、俺という人間は冷めきってしまい、いつしか時間の認識すら困難になったのだろう。

 自ら選んだ果てしなく単調な人生からしてみれば、荻原という特異な人物に強烈に惹きつけられてしまうのは必然だった。

 群れるのが苦手なくせに孤独には弱く、認めてもらいたいのに努力は嫌い、取り残されることを恐れているが変化を拒み、自分は他人とは違うと思いながら少数側について恥をかくことを極端に避けてきた。そんな俺にとって周りの批判や好奇の目を意に介さず振舞う荻原が眩しかった。

 叶うものなら荻原と気さくに挨拶をする間柄になりたかったが、臆病者の俺には隣に並んで歩く自信もなければ、声を掛ける勇気さえもなかった。だからせめてもの抵抗として、彼女の背中を見続けることを選んだのだ。

 不快な思いはさせたくなかったので、避けられたり嫌がられたりしたら即座に辞めようと思っていた。

 どういうわけか、荻原は俺のストーカーじみた行為をとがめることはなかった。仮に登下校の時間を変えられてしまったとしたら、三年間も背中を見続けることは不可能だっただろう。

 この点に関しては、荻原も俺との不自然に凍結された関係を心地よく感じていたか、少なくとも受け入れていたのではないかと考えている。とはいえ、当時の俺が抱いていたものを恋だと呼んでしまうのは、あまりにも単純で浅はかな結論だと断言せざるを得ない。

 たしかに俺は「荻原唯」が好きだった。

 一方で友人たちが荻原を馬鹿にしていても苛立つことはなかったし、周りの雰囲気に合わせるために彼女を貶めるような発言をしたときも、わずかに劣等感が肥大しただけで心が痛むことはなかった。

 つまるところ俺が好きだったのは、彼女の背中を通して都合の良い想像と解釈を重ねて創り上げた「荻原唯」という名前の偶像でしかなかったわけだ。

 実在する彼女は、所詮は見慣れた他人に過ぎなかった。

 俺たちの関係が終わりを迎えたのは高校三年生の十月だった。最寄り駅から四つ目の交差点で別れるまでの道の途中、今まで一度も振り返ったことのない荻原が、その日、はじめて俺のほうを向いた。

 ただならない気配を感じ取った俺は、彼女に促されて近くの公園に立ち寄った。

 二人して錆びのにおいがするブランコに座り、地面に横たわったジュースの空き缶に蟻の群がる様子を眺めていた。

 荻原はしきりに何かのタイミングを見計らっているように思えた。二、三回ほど目が合っては逸らすことを繰り返し、ついに覚悟を決めたのか顔をあげて呟いた。

 

「わたし、ここから引っ越すことにしたの」


 返事に詰まるほど俺の心というやつは激しく動揺した。荻原が引っ越してしまうことに対してではなく、彼女が話しかけてきたことに対する動揺だった。

 何かの間違いであってほしかった。

 永久に凍結されるはずの距離が縮まったことへの不安を隠せなかった。見慣れた他人を保っている曖昧な境界線をひとたび越えてしまえば、既存の世界が跡形もなく壊れてしまうと思ったからだ。

 荻原はおもむろに制服の上着を脱ぎ、俺の膝の上に投げた。奇妙な行動に戸惑いながらも、落としてしまわないように片手で押さえつける。

 ふと、病的なまでに白い腕が目に入った。左腕には火傷の跡にも見える特徴的な痣があり、それは肘から肩にかけて拡がっている。

 荻原が一年中長袖だった理由が分かったが、本当に隠したかったのはおそらく右腕の明らかに人為的に作られた小さな痣のほうだろう。

 何となく彼女の身に起きている事態を察することができたものの、「引っ越すことにした」という言葉に込められた感情は、息を吸って吐いているだけの俺には想像もつかなかった。

 同時に、俺の中の「荻原唯」という偶像や、変わった転校生という前提が根底から覆されてしまった。

 その時、俺は彼女の秘密に近づくことを許された事実に胸を高鳴らせたが、それ以上の罪悪感を抱かずにはいられない。

 かけるべき言葉が見つからずに黙り込んでいる俺のことを、荻原は急かさずに待ってくれた。


「半袖にしたんだな」


 口から飛び出してきたのは、思い出すだけでも恥ずかしくなるほど見当違いな言葉だった。


「なにそれ」と彼女は小さく吹きだした。「きみになら見せてもいいと思って」 

「そっか」

 

 彼女にとっては下手な同情よりもよっぽど正解だったのかもしれないが、落胆したようにも見てとれた。

 普段から仲間内で悪口を言い合っていた俺には、彼女の期待する何かを受け止める資格はないと思っていたので、あきれ返ってくれたほうがよかった。

 荻原は立ち上がり、うなだれている俺の肩を叩いた。


「だからさ、窪田くぼたくんも頑張れ」


 最後に無責任な言葉を残して荻原は去って行った。

 俺たちは、昨日よりも少しだけ近い距離で、再び凍結されてしまったのだ。


 

文彦ふみひこらしい、ありふれた作り話だ」


 寝巻き姿の彼女はそういって、あはは、と肩を揺らして笑った。それに合わせてボブカットの髪がすこし舞い上がる。

 角が切り落とされて台形になっているテーブルの上には、空になった缶チューハイが五本置いてあり、今まさに最後の一本のプルタブを開けたところだった。


「いや、作り話じゃない」


 俺はめずらしく、目の前の酔っ払い相手にむきになって返した。

 理由はなかった。

 荻原との記憶は自分にとって輝かしいものではあるが、否定されて憤りを感じるには時間が経ちすぎていた。

 わざわざ酒を飲みながら話すような内容ではなかったと反省する。それこそ、適当な作り話でも披露しておいたほうがよかったのかもしれない。


「ふぅん」


 あまり興味なさそうに相槌を打つと、おぼつかない足取りで冷蔵庫まで歩いていき、追加の缶チューハイをコンビニの袋ごと取り出した。

 部屋が本来の静けさを取り戻した途端、急激に眠気がおそってくる。彼女が戻ってくるまでのあいだ、テーブルの端のほうによけてある眼鏡をさわって気をまぎらわすことにした。口か手のどちらかを動かしていないと、垂れてくる瞼に逆らえそうになかった。


「まだ飲むのか」

「当たり前でしょう。今日は記念日なんだから飲まないと」


 すこし考える。今日は彼女の誕生日ではないし、もし彼氏がいるなら、記念日に俺と宅飲みをしているのはいささか問題がある。

 そこで、以前からアルバイトを辞めたいと話していたことを思い出した。


「バイトを辞めた?」 

「そう。自由の日」

「じゃあ、改めて乾杯しようか」俺はわざとらしく飲みかけの缶を掲げた。「自由を祝って、乾杯」

「乾杯」


 勢いに任せて一息で飲み干す。自由というやつはグレープフルーツの味がした。


「ところで、部屋は片づけたんじゃなかったの?」

「これでいいの。家はアトリエだって前もいったでしょ」

 

 彼女の部屋に招かれたのは今夜が初めてではなかった。

 仲野なかの沙耶さやは同じアパートに住んでいる美大生なのだが、本人がいっているようにアトリエを兼ねているため、生活に要るものとそうでないものを区別することが不可能な空間となっている。

 端的にいうと、汚い。

 最初に足を踏み入れたときには、いまだかつて見たことがないほどの散らかりように驚き、声をかけられるまで動けなかった。

 汚さないための配慮からか、壁から床までブルーシートが敷いてあり、資料とおぼしき画集やレコードの山の一部は土砂崩れになっていて、染みだらけの段ボールには絵を描くための道具が乱雑に投げ込まれていた。

 玄関には四半世紀以上も前の映画のポスターが何枚も飾ってあるし、パンクロックに関する本ばかり収集していたり、楽器は傷みがひどく使えない状態で、時計はすべて止まっているか、あり得ないほどずれていた。ブルーシートの上にあるものは時間という概念から抜け出しているような気がした。

 彼女によると何もかもひっくるめて芸術らしい。

 もともとだらしない性格というわけではなく、キッチン周りやトイレは綺麗に掃除されていて、干しっぱなしの衣類も見たことがないので、目的があって散らかしているのは本当のようだった。

 俺のような一般人からしてみれば、ベッドはおろか掛け布団すら見当たらない部屋ではとてもじゃないが快適に住めるとは思えない。


「寝るところに困ったりするだろう」

「もし困ってたらどうする? 文彦の部屋で寝かせてくれる?」

「それは……」


 俺が言葉を濁らせてしまうと、そこに生じた隙間を埋めるように「冗談だよ」と頬を緩めて会話を中断した。


「でも本当によかったのか? 俺の過去なんて何も面白くないけれど」 

「うん、いい。おかげで次の作品のタイトルが決まったし」


 沙耶はスケッチブックのわずかな余白にボールペンでメモを取り、自信ありげな顔で見せつけてくる。

 

 〈夏の雪解け〉


 意味はよく分からなかったが、響きは悪くないと思った。


「悪くない」と素直に感想を告げる。「あの絵も見せてもらっていいかな」

「あー、ちょっとまってね」


 俺は、彼女がを探している最中さなか、徐々に血液がたぎる感覚に浸っていた。

 

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