十一 十字架を負った少女

 天文二十年(一五五一)九月頭、豊後府内のザビエルに与えられた天徳寺・天主堂に到着して、ほっと肩を撫で下ろしたトーレス一行であったが、山口大乱の顚末を知らされた宇治丸と広は啞然とした。

「おじ上様も、お父様も、亀童丸も、持明院様も、二条様も、みんな死んでしまったのね……みんな……」

 特に、広の心的外傷トラウマは病的なまでにひどかった。日夜涙をこぼし、その涙も枯れて目の輝きを無くしてしまった。

「祖父上様の最期は立派だったそうだよ……自らの命を犠牲にして、おさい様――母上の命を守った、って……」

「そんな、そんなの嫌よ……! どうしてこんなことに……私が転んだりしなければ……」

 実の母方祖父を亡くして誰よりも辛いであろう宇治丸も、必死に広を慰めるが、それは耳にこそ入っても、心の奥のとげまで取り去ることは容易ではなかった。

 物蔭からその様子をじっと見ていたジョアンは、ザビエルとの会見が終わって司祭館から出てくるのを待って、トーレス司祭を二人の元へ連れてきた。

「この度はまことにお気の毒に……心中お察しします」

「トーレス伴天連様……伴天連様、うぐっ……」

 広はなりふり構わずトーレスの膝元にしがみついて泣きむせいだ。

「人は霊を支配できぬ。霊を押しとどめることはできぬ。死の日を支配することもできぬ。何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時があります。生まれる時、死ぬ時、植える時、刈り入れる時。愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時があるのです」

 トーレスは、広を抱き上げると、慈しみ深い目を注ぎ、続けた。

「天主様は全てを時宜に適うように造り給うた。そのみ業は皆その時に適って美しい――また、主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。その者の労苦は憩いとなり、その行いは永遠に報われるでしょう」

「伴天連様……」

 広は伏せっていた顔をようやく上げると、涙を一杯に湛えた眼で、トーレスのまなざしをじっと見つめ返した。

「我は蘇りなり、命なり。我を信ずる者は、死してなお生くるなり――と、耶蘇様は仰せになりました。どうでしょう、広殿。このみ言葉を信じてみませぬか?」

 広は拭ってもなお涙に潤った目で、トーレスをしかと見つめて、手のひらを取って握りしめ、頷いた。

「お慰め、まことにありがたく……はい、今直ちにとは参りませぬが、み言葉をしかと心に留め、信じてみます……!」

 トーレスは慈しみ深い微笑みをたたえて、広の手を握りかえした。

「『“Emmanuel”――しゅ我らと共にいます』。この言葉を、どうか忘れないでくだされ。慈しみ深き主の平安が、いついかなる時も、常に我らと共に在らんことを――Dominus vobiscum, 主なんじらと共に坐す」

 胸元で十字を切るトーレスに続き、広と宇治丸は辿々しい手つきで、そして蔭のジョアンも手慣れた手つきで、みな自らの胸元に十字を切った。

「主我らと共に坐す――」

 宇治丸も、トーレス司祭の言葉を反芻した。


「Requiem aeternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis. ――主よ、とこしえの安息を彼らに与え、絶えざるみ光もて照らしたまえ――」

 山口大乱のひと月後、死者を弔う鎮魂祭レクイエムの中で、広は洗礼の儀を受けて、キリシタンとなった。

「神に愛されし娘カタリナ・ヒロよ。父と、子と、聖霊の御名によって、今汝に聖なる洗礼Baptismaを授く――」

 洗礼名は「カタリナ」。古代エジプトの聖女で、高官の娘に生まれ高い学識を持ちながら、全ての誉れで自分を超える男でなければ結婚しないと宣言。その後隠修士の導きでキリストの教えに入り、数々の迫害と計り知れない責め苦の末に殉教するが、夢の中で聖母マリアの導きによって耶蘇=イエス・キリストと婚約したという人物である。そこから名を授かった。


「トーレス伴天連様……キリシタンとなった暁には、日本の神仏を拝んではならないのでしょうか?」

 広の洗礼式が済んでのち、宇治丸はかねがね思っていた一つの疑問を訊ねた。

「天主様こそがあらゆるものをはるかに超えた万有の主である、ということわりを忘れさえしなければ、寺社に詣ろうとも、神事・法要に参祷しようとも、主の御心にたがうことはありませぬ。主は人の行いの形よりも、まことの心こそをご覧になります。つまるところは、それぞれの者の心の置き所次第です」

「そうですか、ほっとしました。僕達二人とも神社に生まれ、幼い頃から神道を学んできた身ゆえ……ことに、僕は陰陽師の子、京にて跡取りとならねばならぬやも知れぬ身ゆえ……」

 慈しみ深く答えるトーレスの言葉に安堵しつつ、宇治丸は天主の助けに与りながら、広を残して自らは洗礼を受けられないという後ろめたさを告白した。

「風は思いのままに吹く。その音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを人は知らぬ。今はまだ時が満ちていないのでしょう。もしも、いずれの日にか再び天主様のお導きがあったなら、また戸惑うことなくおいでなさい」

「はい、いつの日にかきっと……!」

 宇治丸は、今こそ京へ戻って父の跡嗣ぎとして対面すべき時であると考え、洗礼は見送った。そして、京への海の窓口・堺の港へと行く船の手配を伴天連に依頼した。広もこれに同行を決意した。


 トーレスの言葉を聞いて安堵した宇治丸と広は、宇治丸の生まれの地にして二人の学業の場であった山口今八幡宮を思い起こしつつ、最後に豊後府内の鎮守社・若宮八幡社に詣で――

「これに坐す八幡大明神の御前にかしこみ畏みももうさく、この度は天主様と共に、広き篤き恩頼みたまのふゆを給わりし事をかたじけなみまつり……」

 それからほどなく、港へ向かって船出の仕度に着いた。

「宇治丸殿、この本はそなたに差し上げましょう」

 トーレスは、一冊の洋書を宇治丸に渡した。それはきれいな活版で印刷され、図解がたくさん入った、天文学の初歩的解説書であり、洋書ながら日本人通訳が書き込んだであろうたくさんの和文の註解が入っていて、宇治丸にも十分読めるものであった。

「これは……ありがとうござります、大切に拝読いたします!」

「立派な天文学者になるのですぞ」

「はい、精進いたします!」

「広殿も、今度は宇治丸殿のために日々祈り、たとえキリシタンの集いから離れていようとも、いかなる困難があろうとも、主のみ恵みとお導きを感謝し信じて依り頼み、共に助け合うのですぞ」

「はい、慎んでお言葉心に留め――天主様のみ助けによりて精一杯努めます!」

 宇治丸と広はトーレス司祭と固く握手を交わすと、船に乗り込んだ。

「宇治丸、広、達者でな!」

「不肖了斎の夢は、ザビエル伴天連様が果たせなかった再度の上洛と宣教公認を果たすことにござります。その折には何卒私めを思い出してくださりませ」

「旅路に主の導きと平安の豊かにあらんことを――主、汝らと共に坐す」

「また、汝の霊と共に坐す――カタリナ広、行ってまいります!」

「まことにありがとうござりました! 宇治丸行ってまいります。皆様も御達者で!」

 かくして、ちょうど豊後から一路堺へ向かう大型貿易船に便乗を許され、トーレス、ジョアン、了斎らに見送られつつ、豊後府内の港を旅立っていった。


・本章は架空。

・「人は霊を支配できぬ…~全てを時宜に適うように…」――コヘレトの言葉8章8/3章1~2、11。

・「主の慈しみに生きる人の死は…」――詩編116編5/ヨハネの黙示録14章13。

・「我は蘇りなり、命なり…」――ヨハネによる福音書11章25。

・「Requiem aeternam」――死者のためのミサ「レクイエム」入祭唱。

・「風は思いのままに吹く…」――ヨハネによる福音書3章8。

・「主、汝らと共に坐す/また、汝の霊と共に坐す」――ミサ中の司祭と信徒の応答。

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