5-9 母への報告

 慎一は電車が発車するまで一緒にいてくれて、京都方面に向かう真智子のことを見送ってくれた。慎一と別れひとりになると、真智子は一気に緊張が解れていくのを感じた。知らず知らず、緊張していたんだと改めて思いながら、窓辺を移りゆく景色を眺めた。思い返せば昨日奈良駅に到着したときには慎一に久しぶりに会える嬉しさで胸が一杯で会ってからのことはほとんど考えていなかった。慎一に会いに来たことで真智子は気付けば、人生の岐路に立たされていた。慎一と久しぶりに会って、一緒に過ごすうちにこんなにも自分を求めてくれる人ともう離れたくないという強い意識が一気に芽生えていった。思えば、はじめて会ったときから真智子の気持ちをぐんぐんと導いてくれたのも慎一だったし、今回の再会も慎一の気持ちがあってはじめて実現できたことだった。そして慎一の気持ちに応えることが真智子にとっての喜びである限り、迷うことなどもうなかった。これからは結婚の実現に向けて、努力していくしかない。真智子は心の中で決意を固めていた。


 京都で新幹線に乗り換えた真智子は家に帰ってからのことをあれこれ考えたり、窓からの景色を眺めたりしながら少しうとうとするうちに東京駅に着いた。東京駅から乗り換え、光が丘に着く頃には時計の針は七時をまわっていた。慎一と奈良駅で別れたのがついさっきのことのように思えるが、辺りを見渡せば外は夜の闇に包まれ、時計の針は九時を過ぎていた。幾分疲れを感じながらも真智子は歩いて家に帰り着いた。玄関の灯りがついていたのでベルを鳴らすと母がすぐに出てきた。

「ただいま」

「あら、早かったのね?」

「明日のこともあるし、心配かけないようにって思って早く帰ってきたの。それでお父さんとお母さんに話があるんだけど……」

「あら、帰ってそうそう改まってなにかしら?」

「うん……」

「お父さんはまだ帰ってないし、帰ってからにする?」

「お母さん、先に聞いてくれる?」

「ええ、いいけど……」

「あのね……。びっくりさせちゃうと思うけど単刀直入に言うね。私、真部慎一さんと結婚することにしたの」

「え?いきなり結婚?昨日、会いに行きたいって出かけたばかりなのに、もう結婚?」

母の声はかすかに震えていた。

「うん……久しぶりに会ったら、一緒に暮らそうってことになって、それなら結婚前提にしなさいって慎一のお父さんから言われて……慎一からは指輪ももらったのよ」

「そう……」

「びっくりさせちゃったよね」

「びっくりしたというか、正直まだ、信じられないわ。それに私はまだ会ったこともない人だし……」

「もちろん、慎一も近々挨拶に来てくれるって……」

「そう。挨拶に来てくれるのね。それなら話はそれからね。お父さんにも話さなければならないことだし……。真智子は私たちの大事な娘だからね」

「うん。慎一、病気のリハビリ中だから、体調のいいときになると思うけれど……」

「病気のリハビリ中……。昨日も病気で倒れたって言ってたけど、いったいどんな病気?」

「ネフローゼって腎臓の病気なんだけどね」

「腎臓の病気……」

「うん。それで慎一が早く回復するように一緒に暮らそうって……」

「そう……。だけど、とにかくまずは真部さんって方が挨拶に来なければ、結婚には賛成はできないわ。それに同情で結婚するならやめた方がいいと思う」

「同情で結婚を決めたわけではないわ。ただ、慎一と一緒ににいたいと思ったの。それに慎一と一緒なら好きなピアノの道ももっともっと高めていけると思うの」

「そう。真智子の気持ちはわかった。だけどお相手の真部さんの気持ちもしっかり聞かないとね。だから、真部さんが挨拶にいらっしゃるまではなんとも言えないし、お父さんにも真部さんがいらっしゃる日がはっきりするまでは話せないわ」

「わかった。お母さん、話を聞いてくれてありがとう……ところで、昨日のことはお父さんにはなんて言った?」

「音大のご友人と旅行に出かけたことにしたわ」

「そっか……」

「そうよ。じゃあ、そういうことで、真部さんと連絡を取り合って日程がはっきりしたら、教えなさいね」

母はいくらか呆然としながらもどこか冷静だった。


 真智子は部屋に入ってひとりになるとすぐに慎一に電話した。

「もしもし、慎一、真智子です」

「無事に着いたんだね」

「さっき、母には私たちの結婚のこと話したよ」

「そう……。お母さんはなんて?」

「慎一の気持ちを聞いてからでないと賛成できないし、父にも話せないって」

「そっか、そうだよね。とにかく、はっきりしたことが決まったら、すぐに連絡するし、東京に戻ったら早めにそちらに挨拶に行くから。それまでは身体のこともあるからお互いに無理はしないようにしよう」

「そうだね。私も自分のこともあるし、明日からアンサンブルの練習に行くね」

「じゃあ、予定がはっきりしたら連絡するから」

「慎一も身体のこと、くれぐでも無理しないようにしてね」


 電話を切ると真智子はどっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。真智子はベッドに横たわり疲れに任せてうとうとしながら、少し考えごとをした。それにしても振り返ってみるとまさしく急な決断に真智子は迫られたわけだった。もし、あの状況で慎一からの指輪を受け取っていなかったら今ごろはどうしていただろう?慎一は真智子のことをすっきりと諦めてくれただろうか?どこかプライドの高い慎一のことだから、おそらくその場では真智子のことを諦めたのではないかと思う。そしてたとえその後しばらく思いを引き摺ったとしても諦めた時点から人の気持ちというのは少しずつ別な方向に向かっていくものだ。だが、あの状況で真智子は慎一からの申し出を断ることを微塵も考えることができなかった。それどころかすっきりと受け入れてしまったわけだった。そして今は結婚というふたりの未来に向かって気持ちがどんどんと進みはじめている。

―奈良に行くまではこんな展開、考えてもいなかったのに……。

真智子は小さく溜息をつくと同時にだんだんと心細いような思いが生じてくるのを感じていた。でも慎一との結婚を決めなければ、真智子と慎一の関係はきっとどこかぎくしゃくしはじめたことだろう。慎一と再会して慎一の存在がこれほど自分の中で大きかったと実感したのには音楽への思いが根底にあったというだけでなく、慎一との連絡が途絶えたことも原因しているようでもあった。あのまま連絡が途絶えたままだったら……と思うと真智子は慎一の気持ちがただただ嬉しかったし、慎一の父が前向きに受け止めてくれたことも今回の決断を速めたようにも思う。ふたりの未来が今、実現に向けて少しずつでも前に向かって進みはじめた今、真智子自身はなによりもまず慎一の心の支えになれるよう努力していこうと心に固く誓うのだった。

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