5-4 思いがけないプレゼント
「慎一、留学して活躍してたのにね」
「うん。実績は作れたんだけどね、頑張りすぎたかな……結局、倒れたわけだから……。ちょっと情けないよな。でも実力がある仲間に囲まれた中で周囲に合わせて必死だったからね」
「桐朋短大でもけっこう大変だけど、慎一はハンガリーのブタベストで暮らしながら、リスト音楽院に通っていたんだものね」
「まあ、でも留学の実績は作れたからよかったんだけどね。向こうで倒れたけど、父も迎えに来てくれたし、入院して養生してこうして退院できたからね。留学前は叔父の家から芸大に通ってたけど、父がピアノが置ける部屋を手配してくれて、今度、東京に戻ったら、そこから芸大に通うことになったんだ」
「それはがんばったかいがあったということになるのかな?」
「うん。そのうち真智子と一緒に暮らしたいな」
「えっ、慎一ったら、唐突すぎるよ」
「まあ……まだね。元気にならないと真智子に迷惑かけるばかりだよね。俺の面子も台無しだし」
「面子はどうでもいいけど、私たちまだ学生だし」
「確かにそうだけど、真智子も来年には卒業でしょ。卒業したら、一緒に暮らさない?それまでに元気になるし、お互いの親を説得できるように頑張るから。少し考えておいてよ」
「慎一ったら、卒業までは一年もあるし、まだ先の話だよ」
真智子はちょっと困ったような顔をした。
「もう、離れたくないから、約束だけでもしておきたいなと思ってね。気が早いかもしれないけれど指輪まで買ってあるんだ。ハンガリーのブタベストで見つけたんだけどね」
慎一はポケットからリボンがついた小箱を取り出した。
「本気?」
「本気だよ。僕は昔から真智子とのことは本気だったし、今も気持ちは変わってないよ。ただ、病気のこともあるから真智子に重荷は負わせたくないし、どうするかは真智子が決めることだけど」
「そう……ね。少しだけ考える時間をくれる?帰る前に返事はするから」
「もちろん。考えようによってはあまりにも唐突だもんな」
「唐突……というか、私がこうしてここにいることも唐突なのかもしれないけれど」
「お見舞い……でしょ?」
「まあ、そうだけど」
「真智子が奈良まで来てくれて早く元気になろうと思ったよ」
「うん……。ほんとう早く元気になってね。こうして話していて、私もなんだかやっと気分が落ち着いてきたみたい」
「じゃあ、ちょっとここでゆっくりしたら、僕の部屋へ案内するよ」
そう言って、慎一はテレビのスイッチを付けた。
「まあ、リラックスしてよ。何もないけどさ」
「慎一も疲れないようにしてね。まだリハビリ期間なんでしょ」
「まあ……大丈夫。疲れたときは遠慮なく休むよ。……だけどほんとうに会えて嬉しいからさ」
テレビでは報道番組が流れていた。真智子はテレビの方に目を映しつつ、慎一がさっき炬燵のテーブルの上に置いた小箱が気になった。
「あの、これ一応今はもらっておく」
「うん。まあ、返事はともかく、ハンガリーのブタベストのおみやげだと思ってあまり気にしないでもらってよ」
「開けていい?」
「いいよ。もちろん」
包みを開けると中からはシンプルな型の銀箔の指輪が出て来た。
「今日の記念に受け取ってもらえたら、嬉しいよ」
「うん。じゃあ、もらっとく。さっきの話はあとできちんと返事するね」
「……。今回、来てくれただけで僕はもちろん、嬉しいよ。病気のことがあるから、真智子に迷惑はかけられないというのもほんとうだし」
「……慎一のこと、心配で会いに来ただけでまだ、精一杯で……」
「そうだよね。無理に返事しなくていいからね。こうして会いに来てくれただけで僕はほんとうに嬉しいんだ」
「慎一……昔と少し変わったような気がする……」
「そうだね。病気で倒れてから変わった……というか、まだ不安だからね」
「大変だったんだね」
「まあ……ね」
そのあとふたりはしばらく黙った。少し俯き加減の慎一の横顔がどこか透き通るような脆さを伴って真智子の目に映った。真智子はその横顔を見つめながら、まだふたりが出逢ったばかりの頃、真剣な表情でピアノに向かっていた慎一の横顔を思い出していた。あの頃からどこか繊細な雰囲気が漂う横顔でもあったが、今は病気に負けまいと闘っている必死さが滲み出ていていてどこか痛々しい―。病いとの闘いから抜け出し、生まれ変わりつつある自分と向き合っているという状態の中で真智子への変わらない思いを伝えてくれた慎一に真智子は戸惑いながらもどうしようもないほどの愛おしい気持ちで一杯になった。
「早く一緒に暮らせるといいね」
真智子はぽつりと呟くように言った。
「ほんとうに?」
慎一は顔をあげるとまるで子供のような表情で目を輝かせた。
「うん。慎一の身体のこと考えたら、早く一緒に暮らした方がいいよね。ふたりでよく話し合って、協力し合ってこれからいろいろなこと一緒にクリアしていこうね」
「ほんとうに、ほんとうだよね?」
「今もこうして一緒にいるでしょ。ここまで来るの、けっこう勇気が必要だったんだからね。それにこれからも慎一と一緒にいたいって心からそう思ったの」
慎一は嬉しそうに身を乗り出すと真智子の肩から背中にかけて腕を伸ばして抱き抱えると言った。
「ありがとう。真智子のことずっと大事にするよ」
真智子はそのまま慎一の心臓の鼓動に耳を傾けながら言った。
「お父さま、夜帰ってくるんだよね。きちんと挨拶しないと」
「父なら真智子のことはたぶん、すぐに気に入るよ。僕もいろいろあったし、僕には真智子が必要だってきちんと伝えるよ。それに真智子のご両親にもそのうち挨拶に行かないといけないよね」
「慎一ったら、気が早いのね。とにかくこれからはふたりで力を合わせて頑張ろう」
「ねえ、ところで久しぶりに真智子のピアノを聞きたいな」
「あ、うん。そうだね。慎一のピアノも聞きたい」
慎一はそっと真智子から身体を離すと立ち上がり、そして腰を屈めて真智子の手を軽く握った。
「ピアノの部屋はこっちだよ」
真智子は内心少し慌てながら立ち上がると慎一の手を握り返して言った。
「慎一がプレゼントしてくれた楽譜シューマンの『幻想小曲集 夕べに』と、私たちの思い出の曲の『アラベスク』とどっちが聞きたい?」
「うん。どっちも聞きたい」
そのままふたりはピアノの部屋に向かった。
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