3-9 これからのふたり

 真智子は慎一からのメッセージが届いていて、ほっとした。慎一はほんとうに東京に戻ってくるのだ。そして、もうすぐ会える―。そう思うと真智子の胸は高鳴り、そして、その時刻が待ち遠しくて胸がきゅんと苦しくなった。

 池袋のレストラン街のすぐ入れるところで食事をすることにを決め、ふたりはテーブルを囲み席に着き、メニューをすぐに注文すると一息つくように話しはじめた。

「道中、お疲れさま」

「真智子も。お互い入学したら、しばらくきっと忙しいだろうからその前に会えてよかった」

「……そうそう、引っ越し、なくなったんだよね」

「母の形見のピアノ、こっちに持ってきたかったんだけどね。留学のことも考えなければいけないし、バタバタするからとりあえず、今は諦めた。ピアノは学校でも練習できると思うけど、ピアノが弾けるレンタルスタジオを利用するって手もあるから、その方が効率的かなって思って。真智子も時間の都合がつくときにでもそこで一緒に練習しようよ」

「そっか、そういう手があったね。また慎一と一緒にピアノが練習できるなんてそれだけで私にとっては夢みたいだよ」

「僕としてはほんとうは引っ越し先で真智子と一緒に練習したかったんだけど、引っ越しの許しは結局、もらえなくて、そのかわり、留学のスケジュールは僕の意向にまかせてもらえることになったんだ。まあ、いろいろ物入りだからしかたないよね」

「それで、留学のことはどうするの?」

真智子がそう言ったところで、ウエイトレスが注文したメニューを運んできた。

「留学のことは交換留学にしても一般留学にしても大学の制度に従わなければいけないからね。大学に入って先生に相談したりしながら、決めることになるのかな。だから、まだいつ頃になるか、わからない。真智子にもはっきりしたことが決まったら、伝えるからさ。僕は真智子が卒業した後にするのもいいかなって考えていたんだけどね。そしたら、真智子も一緒に連れて行けるだろ?」

「ええっ。その時にならないとついていけるかどうかわかんないよ」

真智子は内心、ビックリしながら即座に言った。

「そうなの?せっかくのサプライズを用意したんだけどな。ま、とにかく、留学のスケジュールは僕がこれからよく考えて決めればいいということになって、そのことで焦らなくてよくなったよ」

「そっか。よかったね。私もこんな風に慎一とときどき会えたら、嬉しいって思っていたところだったんだ」

真智子は内心どきどきしながら慎一の話に相槌を打った。

「父を説得するには芸大に受かるしかないって思って必死で得たチャンスだからね。留学するなら、真智子と一緒にってことも念頭に入れて、無理強いをしないよう、説得したんだ。だから、今から言うのもなんだけど、その時はついてきて欲しいな。留学は真智子の卒業後にしようかなって思ってるからさ」

「でも、それって……お互いの親のことも説得しないといけないってことでしょ?」

「もちろん、そうだよ。その覚悟が真智子にはある?」

「ごめん、今はまだないけど、その時まで慎一と一緒にいれたら、その時には覚悟しようと思う」

「じゃあ、その時までこれからも一緒に頑張ろうか」

「うん。頑張ろう。慎一、いろいろとありがとうね」

思いがけない慎一からの提案といつになく力強い言葉に励まされ、真智子の心の中にほわっとした淡い光のようなふたりの未来がよぎった。

 真智子も慎一も大学入学後しばらくはオリエンテーションや毎日の課題に追われ、連絡も短い近況報告のメッセージをできる範囲で送り合うだけに留めた。修司やまどかにも慎一が奈良から東京に帰ってきたことは伝えたが、それぞれまたそのうち連絡する―といった感じで、それぞれの忙しさに紛れ、音信が滞った状態のままゴールデンウイークが近づいてきたそんなある日のことだった。


―実はゴールデンウイークの初日から数日、池袋にあるピアノが弾けるレンタルスタジオの予約を早めにとってあったんだ。真智子も都合がついたら、一緒にピアノの練習しようよ―


 慎一からのさっそくの申し出だったし、まだ新一年生の真智子はゴールデンウイーク中は自由にスケジュールが組めたので、慎一の申し出に応じた。大学の課題に応じた練習曲とそして、以前、池袋の音楽専門店で慎一からもらったシューマンの『幻想小曲集Op12 夕べに』の楽譜を鞄に入れると、真智子は慎一との待ち合わせ場所の練馬駅へと向かった。シューマンの『幻想小曲集Op12 夕べに』はときどき時間を見つけて練習して、なんとか弾けるようにはなっていた。慎一はなんでも弾けるし、真智子が贈ったラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』ももちろん聞かせてくれるだろう。これからも慎一はどんどんと曲のレベルを上げていくのだろうなと電車に揺られながら真智子思った。待ち合わせ場所の改札口に向かうとそこで待っていた慎一が真智子を見つけて生き生きと嬉しそうに走ってきた。

「慎一、その様子だと大学生活、慣れたみたいだね」

「もちろん。憧れの芸大に入れたんだし、楽しんでるよ。真智子も桐朋短大には慣れた?」

「うん。気が合う友達もできたよ。慎一も友達できた?」

「まあ、話せる男友達はできたけど、真智子ほどは親しくなりそうもないかな。今までもそうだったけど、これからも真智子と過ごす時間が僕の音楽にエネルギーを与えてくれるんだよ」

「そうなの?私は慎一についていくので昔も今も精一杯」

「真智子のそういうところが好きなんだ。今日も久しぶりに真智子の弾くピアノが聞けるね」

「あ、シューマンの『幻想小曲集Op12 夕べに』の楽譜、持ってきたよ。なんとか弾けるようになったところ。慎一も今日は久しぶりにたくさん聞かせてね。音楽室で過ごした頃が懐かしいね」

「それはそうと、レンタルスタジオってどんなところかな。写真ではピアノもグランドピアノでかっこいい雰囲気だったけど」

「そうだね。なんだか楽しみだね。……ところでさ、そのうち、うちのアップライトピアノを弾きにくるっていうのはどうかな?両親には慎一のこと芸大に進学した優秀な友達って話してあるから」

「良い提案だね。真智子がいつかそう提案してくれないかなって僕も思ってたんだ」

「そのうち、またいつか、まどかや修司にも会えるかな」

「試しに今からふたりで連絡入れてみようか」


 慎一は真智子に笑いかけると窓の外の景色に目を向けた―。ふたりが乗った電車に少しずつ初夏へと向かう明るい午後の陽射しが差し込んでいる―。電車に乗っている人々の思いや暮らしをそっと静かに包み込むようなその陽射しの中に悩んだ過去の思いがいつの間にか溶け込んでしまっているような不思議な感覚に不意に囚われはっとした真智子は未来をじっと見据えているような慎一の横顔をそっと見つめ返し、ふたりで今、こうしていられることの幸せの余韻にしばし浸った―。

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