死線を辿りて

「……おまんらぁ!! 下がっちょれ!!!」


 突如、龍馬が切迫した声を張り上げる。間もなく伸びてきた逞しい腕が自身の肩へと凄まじい力を掛けるため、更紗は否応無しに後方へと飛ばされていく。


「……っ……や…!!」



 手に持っていた盃が宙を舞う。目の前の二人が機敏に身構えるのが視界に入るも、浮遊した女の身体は勢いに抗えず、床の間の壁へ叩き付けられた。


「……っ………痛……」



 飾られていた茶鞘の太刀が背中にめり込むように当たって畳に落ちる。打ち付けた全身に稲妻が走ったような痛みを感じた。更紗は悶えながらも、強く瞑った瞳を見開く。


 ゆらり、ゆらりと不安定に揺れる灯の先に見えるのは、怪しく光る抜き身を握った浪人風情の男たちだ。その数は五、六人。障子は無遠慮に開け放たれていた。



「天朝様の御為おんために働けぬ徳川の血筋は必要なきもの。やはり尊王攘夷とは名ばかりであったか」


「水戸の名を穢す一橋慶喜……その命を持って償って貰う」



 室内に響いた声はどれも感情がなかった。畳を摺り足で歩む音が鼓膜を掠めるや否や、日本刀の反射光が潤む視界をくらました。



「……おんしらぁ、それはまっこと誤解じゃ。幕府は諸藩に攘夷期限を布告しちょる。来襲時は掃攘せよと命じちょるぜよ!」


「……土佐の田舎商人と付き合いがあるとは。将軍後見職も廃れたものだな」


「生麦事件の賠償金としてえげれすに三十万両払うと決めた幕府は攘夷を諦めたも同然。この上洛で開国を国是こくぜにするのは見逃せぬ故、御覚悟を」



 浪人たちは蔑みを滲ませた冷酷な眼差しをこちらに向けていた。時間はなかった。一気に間合いを詰めようとする男たちへ向けて、龍馬は目の前にあった膳を思い切りぶち撒けた。


「……ああもう! 日ノ本の者同士で諍いを起こしてどうするんじゃ!! こんのべこのかぁ…!!」



 料理が踊り、舞い上がるように浮かんでは落ちていく。器の割れる音が容赦なく響く中、龍馬は手当たり次第に周囲にあるものを相手にぶつけていく。


 隣にいた美丈夫が懐から取り出した黒い物を素早く投げれば、浪人たちが呻き座り込む。その隙に自分のものらしい黒鞘の刀に手を掛け、侍は静かに抜刀した。



「……おのれぇ! 早う斬り捨てぃ!!」


 苦しそうに息を吐く浪人の掛け声と共に三名の刺客が抜き身を振り上げる。大刀を構える侍と赤い花束を手に取った龍馬の傍へにじり寄ってきていた。


 更紗はその光景を目で追いながら起き上がる。武器となる物を何一つ持たない龍馬を見据えた次の瞬間、金切り声で叫んでいた。


「……龍馬さ…!! 右ぃ!!!」



 全身の血液が逆流したかのようだった。手に触れた茶鞘の刀をギュッと力強く握った更紗は、足裏で地面を蹴り上げた。



──サラ、抜くのはもっとギリギリでいい。俺ん家が教えてる居合は鞘走りさせて、刃の先端が鞘から抜けた瞬間のパワーを最大限生かすんや



 本能的に蘇る過去の記憶に目頭が熱くなり、急上昇する体温が冷静な判断力を鈍らせていく。


「……力を限界まで溜めて…」



 誰にも届かぬ呟きを残した更紗は鯉口を切る。敵は龍馬に迫る不穏な影だ。


 龍馬の放った赤い花がふわりと宙を舞う。闇と化していた浪士が大刀を振り上げるのを捉えた刹那。


「……やあぁっ!!」



 更紗は闇に呑み込まれる勢いそのままに駆け込み、鞘から太刀を一気に引き抜いた。



 白く光る刃がまるで空間を切り裂いたかの如く無抵抗の感覚だった。振り下ろされた相手の刀へ向けて、より勢力の増した斬撃をぶつけていく。


 耳をつんざく金属音が鼓膜を震わせる。初めて味わう奇妙な痺れが柄を握る手を伝い、更紗の全身を走り抜けていった。



「お前、女か……こりゃあ良い。一橋の手付きならこのまま慰め者にしてやろう」


 剣越しに吐かれる悍ましい言葉を跳ね返すように更紗は鍔迫り合いに応じるも、指先の震えは止まらない。無残にも握り締める刀は中央で折れ、破片が壁へと突き刺さっていた。



「……お更!!! おまんはいらわるな!!!」


 耳に届いたのは龍馬らしからぬ切羽詰まった怒号だった。このままでは全員助からないかもしれない。更紗は切迫した状況に気後れし、冷水を浴びたかの如く手足が竦んでいく。


 押し切られるままにズルズルと後退りしてしまうものの、着物の裾さばきがうまくできず、その場で転びそうになってしまうが。



「………うわあぁ…っ…!」


 剣を交えていた男の表情が一変する。苦しそうに顔を歪めた浪人の後ろで血飛沫が派手に飛び散った。どちらも時間の差はない。ほんの一瞬の出来事だった。


 浪人は血走った目を見開いたまま更紗を睨みつけた。畳へ崩れ落ちた男の背後に立っていたのは、ここに来るまで一緒にいた仲間だった。



「……危うく俺も命を落とす所だったか」


「………斎…藤……さ……」


「お前に死なれてしまっては、副長に腹を切って詫びるしかないからな」



 血濡れた大刀を斎藤は利き腕の左手で握り締めていた。間髪入れず更紗に近づくと、折れた刀を落としてふらつく華奢な身体を右手で強引に引き寄せる。



「……斎藤…さん……二人を…助けて…」


「それは俺の任務ではない。それに……その必要はない」



 味気ない眼差しで一点を見据える斎藤に釣られるように、更紗もその逞しい身体に縋り付いたまま恐る恐る視線を向けていく。


 目に映るのは、ひょろりとした黒装束の男の身のこなしだ。あたかも吹き抜ける疾風のように、目にも止まらぬ速さで妖しく光る太刀を振るっている。異様であり残虐な光景だった。人という人を次から次へと斬り伏せていた。



「……土井…さん……」


 仄暗い闇に侵された場所からは人間の断末魔が聞こえ、行灯の柔らかい光が細く消え入りそうに揺らめいていく。


 赤黒い液体が四方八方に飛んでいる。敵は壊れた人形のように転がっている。更紗は震える手で懸命に口元を覆うが、強烈な死の匂いから逃げることはできなかった。



「……まるで鎌鼬かまいたちだな。正真正銘の人斬りか」


「……かまいたち……人斬り…」



 弱々しい声で斎藤の言葉を反芻する。呆然と立ち尽くす更紗を、狩りを終えた色の無い双眸がゆるりと射抜いてくる。心臓がどくり、と警告するように跳ね上がった。


 誰も動くことはできなかった。屍に囲まれた土井鉄蔵は情味のない顔つきで、じっとこちらを見据え続けている。


 先ほどの喧騒が幻のようだ。血の海と化した部屋は、暫し深い水の底にいるような音を失った静寂に包まれていた。


 誰しも息をすることさえ躊躇う状況の中、仲間の生存を確認した龍馬はふぅ、と魂が抜けたように息を吐くと、具合悪そうに口を開いた。



「……以蔵……やりすぎじゃ。めっそう人を斬るなや…」


「ほがな事ゆうけど、わしが斬らんちょったらおんしらは皆殺しじゃったが。まぁ……あこにおる男が何らぁしたかもしれんが」



 土井は自身の行為に何の罪悪感も感じていないのか、けろりとしていた。懐から取り出した和紙で血の滴る大刀を拭うと、血溜まりの中へそれを落として部屋の端に佇む男女へ再び顔を向ける。



「女、流派はどこじゃ」


「……え、」


「剣の流派はどこじゃと聞いちょる」



 更紗は咄嗟に指に触れる斎藤の着物を縋るように握り締めた。純粋に人斬りの男が怖い。否応なしに視線を絡め取られ、胸がどきどき張り詰めてくるのを感じ、


「……あ…の………」


 ガクガクと膝の震えが止まらず、紅色の唇を噛んで迫り来る恐怖を耐え忍ぶ。覚束ないその姿を間近で見ていた斎藤は更紗を隠すように立つと、冷ややかな眼差しで土井を一瞥した。



「それに答える義務はない。あんたには関係無い事だ」


「関係無いゆうても……おまんはそっちの人間じゃ無かろうが」


「……どういう意味だ」


「わしとぶっちゅうじゃき……濃い血のかざがこびりついちょるぜよ」



 不穏な言葉が更紗の脳内に木霊する。言霊なのかもしれない。身体の中にある大切な何かを壊し、静かに落下させていく。


 虚ろな眼差しで血の海を眺める更紗に気づいた龍馬は無造作に頭を掻くと、その傍へと歩みを進めていった。


「……ああもう、誰にも血のかざは付いちょらんき。付いちょるのはお天道さまのかざよ」



 更紗の前で龍馬はピタリと立ち止まる。腕を組み真剣な面持ちで女の頭の先から爪の先まで凝視すれば、罰が悪そうに苦笑い、手を伸ばした。



「突き飛ばした上に怒鳴ってしもうてまっこと悪かったのう。ちっくと見た限り怪我はないようじゃが、痛いところはないか?」


「……大丈夫…です」


「おなごがそれホイと剣を抜くもがやないと言いたい所やけんど……今回ばかりはお更に助けられたぜよ。おまんはわしとお龍の命の恩人じゃ。ありがとうな」



 栗色の頭を優しく撫でる大きな手の温もりが、凍り付いた心を徐々に溶かしていき、目に映る凄惨な世界を霞ませていく。


「……無事で……本当に良かった……」



 坂本龍馬の命が危ないと理解した時、衝動的に刀を抜いて見ず知らずの人間に斬りかかってしまった。そんな自分の行動に、更紗は多少なりとも負い目を感じていた。


 尽忠報国の志の下、命を賭して戦う男たちが振るう刀。志など持ち合わせていない自分が抜いた刀。どちらも正しくて、どちらも正しくないのだ。


 けれども、あの瞬間に刀を抜かなければ、命を落としていたのは自分たちかもしれない。目の前の人懐っこい笑顔を失ってしまっていた未来を思うと、刃を向けたことを後悔する気持ちはなかった。



「……それにしても、更に剣術の嗜みがあったとはな」


 暫し硬く口を閉ざしていた美丈夫は、溜め息交じりに言葉を放った。抜刀したままだった大刀を鞘に納めていく。


 その声を聞いた龍馬は更紗から身を離した。顔が綻んだのは無意識のようだ。龍馬は侍のほうへと身体を反転させた。



「このおなごは柔術も出来ますき。お龍も大坂でお更に命を救われたがじゃ。確か……襲ってきた男を足蹴にしたやか何やか…」


「それは俺としては有り難い。言わば、あの絵にある巴御前のようか。……髪はざんばらだが」


「髪はじき伸びますき。芸事にも武術にも長けちょる美人はなかなか居らんです。まぁ……ちっくとはちきんじゃけんども…こほん」


「……確かに、そうかもしれんな」



 疲れた顔つきのまま口元を緩ませる侍を半泣きで見つめた更紗は、何とも複雑な気分に苛まれながら床の間へと視線を移していく。


 太刀台が倒れ、周りの装飾品も見事に散乱している有り様だが、飾られた浮世絵の女武者は今あった惨事など素知らぬ振りで、美しく結わえた髪をなびかせ自信に満ちた表情を浮かべていた。



「……そういやぁ、ケイキ殿。刺客に投げてた黒いもん……ありゃあ何ですか? 苦しそうに呻いちょったが」


「……ああ、これか。これは……棒手裏剣だ」



 侍は着物の合わせに手を差し込む。尖った細長い棒のようなものを数本取り出すと、カチャリと金属音を立てながら手の内に広げた。



「父上の方針でな、水戸で武術を徹底的に仕込まれたんだよ。その中でも手裏剣術は得意でね。今宵は一人しか護衛をつけぬ故、念の為にも持つよう中根に口煩く言われたんだが……お陰で初めて役に立ったか」



 手の平を握り締めて小さく息を吐いた美丈夫は、血溜まりを避けずにパシャパャと水音を立てながら歩みを進めていく。


 その行き先が部屋の隅にいる自分たちの所だと更紗が理解した直後、隣の斎藤は慌てた様子で膝を折って畳に頭を擦り付けた。



「お前は新撰組の者か。俺が誰だか分かるな」


「……はい、しかと心得て居ります」


「ならば話しは早い。今宵、此処で見聞きしたもの全て忘れよ。更は一介の水戸藩士と滞りなく見合いしたのだと上に伝えれば良い」


「……御意」



 常にポーカーフェイスの斎藤の様子が目に見えておかしかった。初めて見せる緊張した素振りに、更紗も次第にどきんどきんと動悸が打ち始める。


(……さっきこのお侍さん、一橋慶喜って呼ばれてたっけ…? 慶喜って、徳川最後の将軍と同じ名前だよね……勝海舟と知り合いっぽいし……まさか…)



 ふと湧き上がった疑心が女の脳裏で確信に近いものへと変わっていく。更紗は事の重大さに青ざめ、腰が抜けるようにその場に座り込んだ。



「そんなに畏まらなくていい……障子にかかった血飛沫は中根のものであろう。あの男は俺の腹心だった。最期を見届けたのなら聞かせてくれ」


「……は、恐れながら申し上げます! 私が到着した時には既に事切れており…」


「……そうか。ならば仕方あるまい」



 その哀しげな美しい顔には、誰にも癒やせない孤独の影が静かに縁取られている。


 皆が口を閉ざし音が止むと静寂は前にも増して深くなり、それを待ち構えていたかのように宵の闇もより一層重く濃いものへと変わっていく。


 全てが息絶えそうな海の底に一筋の光が差し込む。それはまるで儚い道標であるかのように、死の匂いが立ち込める部屋を行灯が無情にも柔らかく照らし続けていた。

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