第2話 勇敢な子ヤギ

 湯沸かし器が立てたけたたましい音でリッツは目を覚ました。いつの間にかテーブルに突っ伏して眠っていたようで、下敷きにしていた右手が痺れている。左手で目をこすり、涎を垂らしそうになっていた口元を引き締める。湯沸かし器はまだ鳴り響いていた。椅子に座ったまま反り返り、湯沸かし器のスイッチを切る。決して横着したわけではない。この部屋があまりに狭いので、座ったままでも手が届いてしまうのだ。建物の造りからして元々広い部屋ではないのだが、一番の原因は壁一面に作りつけられた棚だ。床から天井の高さまでびっしりと棚板を這わせた壁面には薬草や薬の材料などが乱雑に詰め込まれている。

「お湯は沸いたかね」

「うん」

 色あせた間仕切り用のカーテンを引いて、隣の部屋から腰の曲がった老婆が顔を出した。港の人からはゲルダ婆さんと呼ばれている、下層の薬師だ。下層には港や上層中層のような立派な医療施設がない。よっぽどの大怪我でない限り、風邪から食あたりから擦り傷切り傷から、あらゆる体の不調はこの小さな皺くちゃの老婆へ訴えるのだ。ゲルダは愛想こそよくないものの、その内面は情に厚く世話焼きである。身寄りのないリッツを引き取ろうという話になったとき、最初に手を挙げたのも彼女であった。

 リッツは湯沸かし器を棚から下ろしゲルダの元へ運ぶ。とは言っても狭い部屋の中のためせいぜい3歩の距離ではあるが。この部屋の窓はとても小さく、まだ昼間であるにも関わらず充分な明るさが確保できていない。それに加えて狭い室内は物で溢れており、うっかりすると床に置かれた壺や瓶につまずきそうになる。先ほどフランクが密航者を抱えて駆け込んだときも、テーブルにぶつかったり薬の入った瓶を蹴倒したりでゲルダをすっかり怒らせてしまった。フランクは邪魔だと追い出されてしまったが、残ったリッツは勝手知ったるもので毛布を運んだりお湯を沸かしたりと手伝いにいそしんだ。それでもすぐに手伝えることがなくなり、ついつい居眠りしてしまっていたというわけだ。港の仕事は朝が早いのだ。

「あの子、大丈夫? 死なない、よね」

 尋ねながらリッツが湯沸かし器を渡そうとするも、ゲルダは受け取ろうとせず手招きをして隣の部屋へ入っていった。ついて来いという意味だろう。

 カーテンの向こうの部屋はさらに狭く、薄暗い。小さなベッドとごちゃごちゃした棚が一つ置かれているだけの窮屈な空間で少年が静かに寝息を立てていた。椅子に腰かけて様子を見ているゲルダが湯沸かし器はその辺に置いておけ、と指示するので、リッツはランプやペンや書きつけのメモをどかして棚の上にスペースを作った。お湯が沸いたか聞いてきたわりには、急ぎで必要だったわけではないらしい。

 出ていくように言われないのをいいことに、リッツはゲルダの後ろからベッドの中の少年を観察した。グレーの髪は癖もなく、耳にかける程度の長さだ。リッツよりも少し長い。顔立ちはすっきりとしていて美少年の部類に入るだろう。生気のなかった頬にも今はうっすらと赤みが差している。リッツはほっと息をついた。ひとまず凍死は避けられたようだ。

「ばあちゃん」

 小さく声をかけてみるが、ゲルダは返事をしなかった。気にしないことにしてリッツは続ける。

「この子、密航者なんだって。タイホしなくて、いいの」

「さあてねえ」

 ゲルダの返事はのんびりとしたものだった。

「この子が起きてくれないと、話も聞けないからねえ」

「そっか」

 リッツは咄嗟に言葉を飲み込んで頷いた。この島の大人たちは子供に甘い。子供は小さく弱い守られるべき存在だと思っている。悪事を働いたならば何か事情があったのだろうと考えてしまう。この少年が目を覚まして、自分が運び込まれた小さな家に老婆と年下の少年の二人しかいないと知り、ナイフを片手に強盗と化すなんてことは誰も想像しない。強盗までいかずとも、油断している隙にわずかばかりの金品を、薬を、食料を盗まれるかもしれない。その可能性を案じているのはリッツただ一人であり、周りの大人たちに用心を訴えることはしない。誰よりもリッツ自身がその大人たちの甘い優しさを享受しているからだ。

 少年はうなされることもなく穏やかに眠っていたが、念のため二人で交替して様子を見ることにした。

 彼が目を覚ましたのはその日の夕方だった。ちょうどゲルダがリッツと看病を交替しようとしていた時であり、椅子をゲルダに譲ったリッツが部屋を出ていこうとした時であった。

「ここは……?」

 背後から聞こえたかすれたボーイソプラノに反応しリッツは振り返った。ベッドの中の少年が目を開いている。濃いブルーの瞳だ。困惑した様子で狭い室内を見回し、入口に立つリッツと傍に腰かけるゲルダを代わる代わる見やる。リッツは踵を返しゲルダの隣に立った。

「具合はどうだい」

 ゲルダが話しかけるが、少年は困惑した様子で彼女を見返すだけで何も言わない。わずかに警戒の色が見てとれる。リッツは注意深く少年の挙動に目を凝らした。もし状況を理解した彼がゲルダに危害を加えようというなら、何としてでも止めなければいけない。

「あんたは鯨の貨物室で凍えていたそうだよ。覚えていないかい」

「貨物室」

 オウム返しに呟いた少年は、目線を落として思案したのちおずおずと尋ねる。

「ここは、どこ、ですか」

「わたしの家だよ。島の下層で薬師をやってる。あんたを見つけた港の連中は、あんたが死にかけているのに慌ててここへ運び込んだ。運がよかったね」

「助けてくださったんですか」

「それが仕事だからね。さて、もう震えてはいないようだが、気分は悪くないかね?」

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」

 少年は警戒を解いてゆっくり上体を起こすと、ゲルダに深々と頭を下げた。動作も言葉もしっかりと落ち着いており、少年をまじまじと観察していたゲルダは満足げに鼻を鳴らす。

「温かいお茶でも淹れてくるよ」

 そう言って席を立ったゲルダと入れ替わり、リッツは少年の傍らに腰掛けた。これまでは眠っている少年を見下ろしていたのに、少年が起き上がったことで見上げる形になる。ちらりと目線だけを上げて少年の様子を盗み見ると、少年の方もリッツを見ていて、目が合ってしまった。上目遣いになっていたため、睨んでいるように見えたかもしれない。リッツは仕方なく居住まいを正した。

「ええと」

 口ごもりながら、リッツは少年にかけるべき言葉を考え、組み立てていく。膝の上で揃えた両手をきゅっと握りしめる。

「ぼくの名前はリッツです。ゲルダばあちゃんのお手伝いと、あと、港でお仕事をしています」

「働いている? その年で?」

 少年が目を見張り、リッツをまじまじと観察する。リッツはそれ以上説明しようとせずただ頷き返した。少年が思い出したように人好きのする笑みを浮かべた。

「僕はヴァン。助けてくれてありがとう、リッツ」

「ヴァンさん」

「ヴァンでいいよ」

 朗らかで屈託のない声だった。リッツは少年の名前を舌の上で転がしながら少しだけ肩の力を抜く。言われた通り呼び捨てで呼ぶべきか、丁寧に敬称をつけて呼ぶべきか、一瞬浮かんだ迷いを切り捨てて尋ねる。

「どうしてあんな寒いところにいたんですか」

「貨物室のことか? ちょっと事情があって。逃げてきたんだ」

「逃げてきたって、どうしてですか。貨物室は人が乗る場所じゃありません。お金だって払っていないでしょう」

 つい問い詰める口調になるリッツに対し、ヴァンの反応はまるで緊張感がなかった。へえ、君すごいねえ、などとからかうような声音で言われてむっと口をとがらせる。

「リッツ君はしっかりしてるな。さすがお仕事してるって言うだけはある」

「ごまかさないでください」

「ごめんごめん」

 困ったように笑いながら、ヴァンの目がちらりと戸口の方へ向いたのにリッツは気付いた。ゲルダはまだしばらく戻ってこないだろう。リッツはヴァンのすらりと長い腕を見下ろし、膝の上に置いた自分の手と見比べる。リッツは決して成長の遅い子供ではなく、10歳の男の子としては申し分なく健やかな肉体を持っているが、年上のヴァンを目の前にすると途端にやせっぽちで頼りない体のように思えた。

「この島へ何をしに来たんですか」

 大人たちは子供に甘い。それならば同じ子供であるリッツが一番にヴァンの前へ立たなければならなかった。子供だって悪いことは悪いことだ。たとえやむにやまれぬ事情があったとしても、この島の優しい大人たちに悪意を向けられることは許せない。気付いているのはリッツだけなのだ。

「僕はずいぶん怪しまれてるな。そんな怖い顔しなくたって何もしないよ。どちらかと言うと、僕の方がいつ警察に引き渡されるかと怯えているんだけど」

 ヴァンはちっとも怯えなど見せずにうそぶき、肩をすくめた。リッツは黙って目を細める。

「本当だよ。僕は逃亡者だから、逮捕されて元の島へ帰されるのが一番困る」

「困るって、悪いことをしたから?」

 さらに詰め寄ろうとするリッツが口を開くのと同時に、ヴァンはすっと笑みを消し小さな声で呟いた。

「借金があるんだ」

「え」

「とても返せるような金額じゃない。一生働き続けたって、僕じゃとてもあんな額は稼げない。だからどうしても借金取りに捕まりたくはないんだ。どんな目に遭わされるか分からない」

 ささやくように続けるヴァンは真剣な面持ちだ。リッツはまっすぐに彼の目を見返す。幸いにも、リッツは今まで借金取りという類の人間に関わったことはない。話には聞いたことがある。強面の男たちが取り立てにやってくるとか、お金を返せなくなった人は連れ去らわれて売り飛ばされるとか、嘘か本当か分からないような話だ。ただ一つはっきりしているのは、荒くれ者の集まる港の男たちよりも、もっとたちの悪い連中だということだ。

「捕まったら、どうなるんですか」

「さあ。どこかへ売り飛ばされるかもしれないな。借金を作った親は連れていかれて行方不明だ。もう生きていないかもしれない」

 ヴァンの言葉には濃く諦めが混じっている。生きていないかもしれない。生きていなくても仕方ない。そんな風に言われているような気がした。自分の鼓動の音がやけにうるさく感じ、リッツは胸を押さえてうつむく。頭上からヴァンの慌てた声が降ってきた。

「あっ、ごめん。大丈夫だよ、僕がここにいることをあいつらは知らないから。借金取りだって、いるかどうかも分からない奴を探しに他の島まで来たりしないさ。だから安心して。怖い人なんて来ないって。な?」

「うん」

 おろおろするヴァンが少し気の毒になって、リッツは素直に頷いた。泣き出す赤ん坊をあやすように宥められるのは不本意でもあった。ヴァンの白い手がリッツの頭を撫でまわす。その手はリッツよりも大きくゲルダより力強いが、フランクの手よりずっと薄く華奢であった。

「嫌な話を聞かせてごめんな」

「ううん」

 リッツはかぶりを振った。リッツが聞きたがったのだから、ヴァンが謝る必要はない。それにリッツはヴァンが思うより子供ではないのだ。たとえヴァンが泣く子も黙る極悪人だったとしても、人を人とも思わない借金取りの連中が大挙して押し寄せてきても、リッツは7匹の子ヤギの末っ子のように時計の中に隠れてぶるぶる震えはしない。この小さな体でもできることはあると、勇敢に立ち向かうのだ。だが大人たちはきっと、そんな危ないことはしなくていいと止めるのだろう。みんな優しいから。

 そう、大人たちは優しいから、こんな華奢な手をした少年を見捨てることはできないだろう。借金取りに捕まってしまえと放り出すことはしないだろう。両親を喪ったリッツを養ってくれているように、当然のこととしてヴァンに住処を与え食べ物を与え、悪人から身を隠して生きていけるように計らってやるのだろう。脳裏に浮かぶそんな未来を思いながら、リッツはヴァンに向けて子供らしく笑って見せた。

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