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 私がニッキー・ザ・ブラスターこと、ニコラス・オハラハンについて書こうと思いついたのは、なにも私とニッキーとが幼馴染だったからではない。

 ニッキーについて書かれた本並びに書物に新聞記事、等があまりにもひどい代物ばかりであったからである。

 ファレル・コンプトンの書いた『人殺しの生涯』。

 JJ・クッシングの書いた『ガンスリンガー・オハラハン』。

 ドン・キャプラーの書いた『娼婦の女王とニッキー』。

 コーネリアス・ヒギンズの書いた『西部の王、ニッキー・オハラハン』

 すべて、一言一句ことさら舐めるように確かめて読んだが、酷い本ばかりだ。

 一体、版元と編集者はどんな目的と算段でこのような本をこの新大陸で売り出しあわよくば儲けようとしているのか、それこそニッキー顔負けで銃、片手に乗り込んでやりたいところだが、アパラチア山脈からこちらそれこそ、超弩級の西部に住んでおる私には、到底ムリな話だ。

 だが、正直な話し人の口には戸が立てられぬわけで、これらのニッキーにまつわる醜聞は実を言うと、怒りとは別個にしてあまり興味がない。

 この前、娘と大喧嘩をしてやけ酒を煽っているときに、もう私も五十一歳になるのかとふとふらふらしがらぼーっとする頭の中で思いつき、そして棺に入り無縁墓地に埋められたニッキーの倍以上も生きとるのか、と思ったことが正しいきっかけである。

 もちろん、その後、安物のウィスキーをニワトリの屎尿の匂いをきっかけに鶏小屋の手前で胃から盛大にぶちまけたが。

 妻や娘に嫌われるのも無理はない。

 私は西部どころか世界中のどこにでもいる意思の弱い中年男性である。


 ニッキーと私、それにリッチーにジャノスは概ね似たような境遇で育ってきたわけだが、家族構成、家族のアメリカへの移住の経緯もほぼ同じだと思う。

 差異と言えば、多少、ニッキーのオハラハン家はうちやジェイムの家より子沢山で父親の倫理観が著しく低く暴力を恐ろしく容認しやすいたちの人間だったということぐらいだろうか?

 私達三人は正確な年齢も定かではない。私に関してはかなり大げさだが、ニッキーとジェイムはそうだろう。

 私の両親、Mr&Mrs・クルツ夫妻は丁度、南北戦争の最も激しい折に大西洋を横断する大型外輪船の竜骨をまたぐような船底の底の底。奈落とも言える三等船室でNYにやってきた。天気はわからないが船が進んでいることはよくわかったと母はよく私に言っていた。

 もちろん完全な片道切符である。

 経済的な理由が一番大きな要因だが、人生そのものが片道切符なのだから至極当然の帰結とも言える。

 もっと正確に書けば、欧州で食い詰めてやっていくあてがないから、対岸のアメリカを目指したのである。

 兄のロルは大西洋横断中の船内で生まれたが、アメリカ国籍を無理やり取得するために産気づいたのが船内で生まれたのはNYということになっている。

 真っ赤な嘘であるが、分娩における痛みよる多少の認識と認知の問題にすり替えれば容認されうるレベルである。

 その二つ歳下の私が始めてのアメリカ国籍を取得したクルツ家の人間となる。

 母はよく、当時のことを北軍の黒人兵がNY中にたむろしていつ押し倒されるか気が気でなかったというが、ギリギリ白人というプライドしかないクルツ婦人にはそれが最低の生きるための自尊心だったらしい。

 チョット考えれば、思いつきそうだが、欧州で大変だったのにもっと社会資本が整っていない新大陸のアメリカにいけば、もっと大変だと誰でも気付きそうだが、親父は真剣にアメリカン・ドリームを夢見ていた。

 すくなくとも、クルツ家の家族内での食卓での貧弱な表現力に頼った会話ではそういうことになっている。

 また、親父がプロシア系チェコ人という差別するべきか差別されるべきかよくわからない境遇も自分こそが世界市民たるアメリカ人になりえるもっとも適した人間だと思ったとしても、なんの不思議もない。

 なんにもないことがチャンスに思える人間もいることを満ち足りた境遇に居る人間は理解しなければならない。

 アメリカではというより、世界中いや宇宙でもそうだろうが、後から来たものにいい場所は残されていない。

 もうすでに既得権益は最初の移民に抑えられ、後から来た移民ほど苦労するシステムがアメリカでは出来上がっていた。あり体に言えば、どんどんピラミッドの下部に人を送り込むのである。

 親父のMrクルツは、NYの港湾のドブさらいをしながら私と兄と母と家族を毎夜子犬ほどのネズミが走り回りノミとシラミで溢れたベッドが墓場のように永遠に並ぶ木賃宿に留置とめおき暮らしていた。

 MrクルツはNYという名の”本当の”掃き溜めを掃除しながら自身が"本当の"掃き溜めとなって消えていきつつあった。

 元から”掃き溜め”だったという説もあるだろうがここでは意図的に触れない。

 私の父もニッキーの父親に負けないくらい暴力にとりわけそれが家族に向かう場合は寛容だったからだ。

 これがドリームではないということに気付くまでにそれほど時間はかからなかった。

 親父はチェコ語訛りの赤ん坊並の主語と動詞だけの二語文の英語で雄弁に語ったた。


「出るぞ」


 おそらく、チェコから出るときも、欧州から出るときも同じセリフをレイプまがいの性行為のあとの寝物語で母に語ったことを想像するのはかたくはない。

 よく西部劇だと馬車のワゴンに家財道具を詰めて大西部の開拓地に乗り出していく

家族が描かれるが、クルツ家には武器になる包丁ぐらい持ち得ていなかった。

 無論馬もワゴンもない。

 あるのは、ここではないどこかに逃げなければという獣が生きるために持つ生本本能的存在欲求だけである。


 戦争、とりわけ南北戦争のような内戦は混乱を生み出す。これに新大陸だからという理由は当てはまらない。


 クルツ家は見た目で一番西に行きそうな北軍の部隊の輜重隊に紛れ込み一台のワゴンに乗った。

 家財道具が少ないのが思わぬ利点になった。

 詳しくは書きたくないが母の貞操観念の低さも利点だった。

 兄の手癖の悪さも利点になった。

 私は幼さゆえ口が堅いあらゆる違法行為に対し傍観者として有能だった。

 クルツ家自身が資質と高度に訓練された軍隊そのものだったのである。

 軍隊の備品がそれぞれの所有する人間のものでなく税金を通して支給されていることも最大の利点だった。

 クルツ家は輜重隊のワゴンに紛れ込みながら、どんどん家財道具を増やしつつ西へ向かった。

 但し、この世の中うまくいくことばかりではない。

 父が北軍の特務曹長にヒーヒー涙を流しながら鞭打たれるのを私は見たし、父が南軍のゲリラの泥まみれのブーツを舐め跪いて命乞いするのもみた。母の父と全く違う声のささやき声とともに下卑た笑い声と妙な喘ぎ声も散々聞いた。兄が生のウサギを食べ骨を喉に詰まらせた際には適切なアドバイスを与えた。少なくとも母の子ではあるが誰の子かわからない妹アリサも途中で生まれた。アリサを取り上げたのは幼い私である。

 しかし、これを"生きる"と呼ぶのではないのか!?。

 とりわけ、この新大陸では。

 

 この人間の大切なものを失いつつあるのか、得つつあるのかわからない旅は、カンザス州まで続く。

 実際はそこがカンザス州であることも後で知る。

 途中で知らない間に戦争が終わっていた。西に行くほど北軍も南軍も減って戦っていなかった。

 南北戦争が全米を巻き込んだ内戦とは嘘である。アメリカの東部だけでアメリカ人同士で殺し合っていた。

 しかし壮絶だったのは事実である。過酷な境遇に耐えかねた北軍の黒人兵士の集団が同じ北軍の白人の士官の死体を引きずりながら饗宴を開いているのも見たし。南軍ゲリラが空腹に耐えかねて南軍の正規軍の補給所を襲い証拠を消すために部隊ごと焼き払うのも見た。

 一方のクルツ家は北軍の刻印が入ったワゴンを手に入れ家財道具も一通り揃っていた。

 北軍の焼印が入った四頭の馬まで持っていた。

 北軍が勝ってすくなくともワゴンと家財道具に関してはクルツ家は助かった。

 奴隷制度や北部の工業製品の欧州に対する保護貿易や南部の農産物の輸出の自由貿易の是非については、知る由もない。

 すべて後付けである。

 誰でも、そうであろう。事が起きている間は誰もどうなっているかわからない。

 事が起きていることを変化と呼ぶからだ。

 後から聞いて、そうかな?と思えばいいだけである。すでにシーザーやナポレオンが歴史で証明している。

 旅の終わりは始まりが唐突だったように唐突にやってきた。

 親父の主語と述語のみの二語文は新大陸での西部への旅でさらに洗練されていた。 状況に応じて主語を省いても意思の疎通ができることを理解していた。そこに存在するものか、語ったその人が主語だった。

 プロシア訛りのチェコ語しか喋れなかった男からすれば、これを進歩と呼ぶ。


「ついたぞ」


 そこは、主語とおなじく何もなかった。

 もう一度書くが、文字通りなにもなかった。

 荒野である。これを以上も以下の表現方法もない。

 近くの丘の間から小さな湧き水がチョロチョロ流れていることが親父の決め手になった。

 空腹はしばらく耐えられても、水だけはどうしようもないというのは、チェコ時代からの親父の教訓らしい。

 それに水を飲めば、すこし腹もふくれるし。

 ここが誰の土地かもわからなかった。誰もいないからクルツ家のものだった。不法占拠の恐れは多分にあったが、クルツ家に失うものはなかったし前書ぜんしょしたが、クルツ家は軍隊だった。一応武装もしていた。超接近戦を得意とする北軍騎兵一個分隊ぐらいの戦力は保持していた。

 しかし、なにもない荒野での生活は苛烈を極める。

 我々は、歯より硬い乾燥したトウモロコシを齧り、腕ぐらいの芽の生えたブヨブヨのじゃがいもを食べた。最初はワゴンで寝泊まりし、石を拾い土台をつくり倒木を寄せ集め家を立てた。火をおこせることぐらいしか、獣とクルツ家を分けたがうものはなかった。

 歩けるところまで、歩いてそこに低い石垣を並べてクルツ家の土地とした。

 歩いて往復して疲れない程度の距離が石垣設置のルールだった。

 これは自然の摂理だった。父の暴力は必要なかった。家族の誰にも異論はなかった。西部において距離と広さは逆に生存を脅かす敵になる。

 しかしこれぞ、アメリカンドリームだった。くるぶしほどもない石垣並べる時の父は涙すら浮かべていた。

 やや横道にそれすぎたが、これが、私の幼少期の話である。

 つまりニッキーや、リッチーに出会う前のお話である。

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