02 えい

 お前にはじめて会った日。

 木島萠という字を誰かが指さしていた。

 モモだったか、明菜だったか覚えてない。もしかしたら、拝島だったのかもしれない。

「めちゃくちゃ背高い。有望だよあれは」

「経験者?」

「違うみたい」

「なんて読むの?」

「え?」

「この名前」

「きしま――もえじゃない?」

「きしまもえ」

 姿形を見ていないので、その名前に全く感慨はなかった。新入生の名前が沢山並んでいる中で、その字面は完全に埋もれきっている。世の中には、ぎょっとするような名前の人間がいくらでもいるのだと、自分が入学した時にも思った。

「きしまもえ!」

 新入生の部活見学の時間に入って、最初にその子を見つけたのはあたしだった。 

 と言っても、時間の問題だっただろう。

 あの子はともかく目立っていた。一人だけ頭が飛び抜けて、それを隠そうとして酷い猫背だった。周りから見ると、トロールか何かが人間の振りをしているみたいなのだ。どこにいても、何をしていても目立つ。

 その子を取り巻く二三人の友人たちの存在を無視して、あたしは走った。

 急に走って近づいてきた上級生を見つけて、でも、その子はどんな表情も見せなかった。少年のような真っ黒い髪は、前髪だけ少し長くて、目に被っている。

 髪の後ろに、ウロのように黒い瞳があった。

 ウロ、というのは黒い穴のことで、おばあさまが教えてくれた。

 小さな虫が地面に開けた小さな黒い穴だ。

 ウロ。

「ねえ、君、きしまもえでしょ?」

「は」

 と、その子は声を出した。は? でも、はぁ、でもなくただ短く「は」という音だけを吐いた。

 全くの無表情、驚きも侮蔑も怒りも何もない。

「違いますが」

「え?」

「名前、違います」

 スカスカと間に空気が入っているような、味気ない声でその子は言った。

「嘘だぁ。君しかいないもん、背の高い子」

「あ、いや」

 彼女が目を動かして、隣にいる二人の女の子に「先に行ってて」と小さく呟いた。そう言えば連れがいたのだったと思って「ごめんね!」とその子たちに謝ったら、まるでカツアゲを見逃してもらったみたいに、ヘコヘコと頭を下げて渡り廊下を渡って行った。

「きじまめぐむです」

 突然目の上から声が振ってくる。

 顔を上げると、その子は、あたしの目を見たままもう一度言った。

「私の名前――きしまじゃなくてきじまです。あと、もえじゃなくて、めぐむです」

「きじまめぐむ」

「はい」

「きじまね。きじまめぐむ」

 覚えるために何度か呟いている間、その子はじっとあたしの目を眺めていた。

 赤ちゃんがよくやる見方だ。盗み見られることは多くあるけれど、こんな風にはっきりと見続けられた経験はあまりない。

 だから正面から見せてあげようと、目を見返した。

 きじまのウロの目の中に、あたしの顔が映る。穴じゃない、と思った。これはウロじゃない。

「あ。う」

 と微かに声を漏らして、きじまはぱっと目をそらした。

「ごめんなさい」

「え、なに?」

「睨んだわけじゃないんです」

 そんな風には見えなかったけれど、確かに一部の上級生にしたら、面倒なことになるかもしれない。人の目をじっと見て喋ることは、この国ではあまりしない。

「目が――綺麗で」

 そう零したとき、やっとその顔の上に表情が出た。困惑とか、混乱とか、そういう類いのものだったと思う。けれど、それもすぐに消えてしまった。

 ずいぶん変化に乏しい顔だ。

「ママがイギリス人だったの」

 そう答えると、またきじまは私の目を見た。

「だった?」

「うん?」

「過去形ですか」

「え?」

「かつてはイギリス人で、今はイギリス人ではないということですか?」

 そんなことって、あり得るのだろうか。

 オタマジャクシじゃあるまいし、人種は変わらないだろう。

 少し抜けている。

「ママはおせち作るの上手だったし、いつもおもち食べてたけど、ずっとイギリス人だったよ。だった、ていうのは、死んじゃったって意味」

 ひゅ、と短く息を吸う音がする。

「ご、ごめんなさい。わたし」

「えー、やだ。許さない!」

「えっ」

「許さないから、バレー部入って」

「は」

「あ、ほら、来た来た」

 遠くにバレー部の軍団が見えた。

「ねー! この子の名前! きじまだった! きじまめぐむ!」

 大きな声で叫ぶと、きじまは能面の顔のまま、固まってしまった。

 そうしているうちに、一瞬で部員に囲まれてしまった。部内で一番背の高い拝島と比べても、きじまの背は飛び抜けていた。背が曲がっているから、まっすぐにしたらもっと高いだろう。

 あの手この手で勧誘されて、きじまは表情のないまま目を回していた。

 面白がって見ていると、ぱっとその目があたしに向く。

「あの、入ります。入りますので」

 その時の表情はどうだったろう。困窮。もしくは陳謝。

 いや哀願か。

 あの子はいつでもあたしを請い願うような顔付きで見てきた。こいねがう。それもおばあさまが教えてくれた言葉だ。こい、ねがう。

 パパがもういないママにしていることだ。

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