第26話 全て、繋がる①

「ありがとうございました! 」

 まさみは商品を買った客に頭を下げた。客が帰ると、古着を畳み直していた晴人がレジにいるまさみに声を掛けた。

「お客さんも帰ったしそろそろ締め作業するか」

「うん。分かった」

 まさみは晴人の怪我が治ってからも、中々店に来れない信五の代わりに、休みの日に晴人の店を手伝うようになった。その日もまさみは仕事が休みなので、晴人の店を手伝っていた。

 まさみは店に人が入ってきた気配を後ろに感じて振り返った。

「すいません。もう閉店なんですよ……。三谷さん? 」

 小春が濡れた傘を持ち、彼女はひどく緊張した面持ちでそこに立っていた。

「何しに来たんだよ! 」

 晴人はまさみを庇うように二人の間に入った。小春は黙って俯いていた。

「どうしたの? ゆっくりでいいから話してみて」

 まさみがそう言うと小春は深く頭を下げた。

「この前は本当にすいませんでした」


「どうぞ。今日は雨だったから冷えたでしょ。これホットコーヒー。ミルクか砂糖は入れる? それともどっちも入れる? 」

 まさみは店の二階にある自宅に小春を招いた。小春を席につかせるとホットコーヒーを彼女の前に置いた。朝から降っている雨はまだ止む様子はなく雨音が部屋に響いている。小春は先程から顔が強ばったままだ。

「いえ。大丈夫です。ありがとうございます」

「で? 何しに来たんだよ? 」

 晴人は尖った声で小春に問いただした。

「そんな言い方しない」

 まさみは晴人を窘めたが、それでも晴人は小春をきつく睨みつけている。

「この前は本当にすいませんでした。お怪我は大丈夫でしたか? 」

 小春はまた深々と頭を下げた。

「うん。大丈夫だよ。そんなに痛くなかったし」

「それに私は酷いことを言ってしまって……」

「本当に大丈夫だから。気持ちは伝わったからもう謝らないで」

 小春はひどく思い詰めた顔をしていて、まさみは胸が痛くなった。

「なんであんなことしたんだよ」

 しかし晴人は怒りが収まらないのか、相変わらず小春を睨みながら言った。小春はコーヒーの黒い水面を見ながら、言いづらそうに口を開いた。

「それが……。よく分かんないんです。カッとしてしまって気がついたら高橋さんを突き飛ばしてました」

「あぁ? 」

 その言葉に晴人は目をかっと見開いた。肉食獣のような晴人の低い声に小春は恐怖で首を竦めた。

「ちょっと止めてよ。三谷さんが怖がるでしょ! 」

 まさみは立ち上がってすぐさま二人の間に分け入った。しかし晴人はまさみの言葉を無視して小春に問いただした。

「まさみと会ったのは本当に『偶然』か? 」

 小春は怯えながらも口を開いた。

「偶然じゃないです。駅にいたら会えるかもと思ってました……」

 小春の言葉にまさみは座り直した。

「どうして私に会おうと思ったの? 」

「この前西条さんから電話が来て、その時に高橋先輩と戸山先輩が結婚したことを聞いたんです。それで確認したくなったんです」

「確認? 何を確認したかったの? 」

「高橋先輩が私より不幸であることを確認したかったんです」

 小春の言葉にまさみは一瞬息を飲んだ。

「三谷さんは今不幸なの? 」

「私が幸せそうに見えます? 」

 小春は自虐的な笑みを浮かべた。

「それは……」

 まさみが答えられないでいると小春は語り出した。

「二人が不幸だったらそれでよかったんです。満足して帰りました。でも違った。駅から出てきた高橋先輩を見た時に悔しくなったんです。私が憧れていた未来がそこにあったから」

 小春は一呼吸置いてから話し始めた。

「私、セクハラ受けてるんですよ。数字が取れないと体で取って来いって言われるんです。それに上司からは体を触られるし。仕事が終わるのは終電近くなんてざらだし。休みの日なんか関係なく電話が掛かってきて、すぐに会社に呼び出される。もうボロボロなんです」

 大学生の時のまさみは猫背で化粧っけがなくて、カジュアルな服しか着ていなかった。小春はそんなまさみを見て、もう少し服装やメイクを変えれば垢抜けるのにと思っていた。しかし久しぶりに見かけたまさみはただ立っているだけなのに小春は本当に眩しく見えた。小春は見ているだけでよかったはずなのに気がつくとまさみに声を掛けていた。

「だから戸山先輩のお店が失敗してれば安心出来ました。でもお店は上手くいってるみたいだし、二人が本当に仲良さそうだったんです。だから……」

 小春はそう言うと俯いた。まさみは小春と再会した時には気づかなかったが、よく彼女の顔を見ると彼女の肌は荒れていて目の下にはクマがあった。まさみはここまで疲れ切っているのにどうして辞めないのだろうと思った。すると今まで黙って話を聞いていた晴人が口を開いた。

「今働いてる会社って新卒で入った会社だよな? そんな目に遭ってんのにどうして辞めないんだよ? 」

「辞めたかったですよ。でも辞めれなかったです……」

「どうして辞められなかったの? 」

「母に心配掛けたくなくて……。母は鬱病なんです。高校生の時に父と離婚して、そこからは母が私を育ててくれました。父はモラハラって言うんですか? いつも私と母に馬鹿だ、お前らは生きてる価値なんてないって怒鳴ってました。でも離婚する時に慰謝料は貰えなくて、しかも養育費は踏み倒されちゃって。だから母が一生懸命働いて私を大学に行かせてくれました。でも鬱になってから母は働くことも家事をすることも出来なくなりました」

 小春は物心ついた時から父の機嫌をいつも窺っていた。父は機嫌が悪くなると小春と小春の母を怒鳴りつけ、壁や家具を思いっきり叩いて二人を萎縮させた。小春は家庭の中で一寸の間違いも許されなかった。小春がまだ小さい頃に、誤って絨毯にジュースを零してしまった。その時には父は小春を母が止める声も聞かず、二時間近く小春を怒鳴り続けた。母は小春をいつも庇っていたが、結局は怒りの矛先が母に変わるだけだった。二人は父の怒りが収まるまでじっと耐えるしか無かった。父の怒りが収まると怯えている小春に母は抱きしめて、大丈夫とごめんを繰り返した。

 小春にとって父親は恐怖の象徴だったが、唯一父親に歯向かったことがあった。小春が高校二年生になり、そろそろ進路を考えないといけない時期に、小春は大学に行きたいと父親に言った。しかし父親は女に学はいらないと怒鳴り、いつものように机をバンバンと叩いた。小春はそれでも折れずに大学に行きたいと言い続けていると、頬に強い衝撃を受けて床に倒れ込んだ。父は小春の頬を平手打ちしたのだ。父は絶対に大学に行かせないからなと言い捨てると自室に帰って行った。小春は母がパートから帰ってくるまで床で呆然としていた。小春が父に殴られたことがきっかけで、母は離婚を決意した。パートを始めたのも元々は離婚を考えてのことだった。母はモラハラの証拠を抑え、慰謝料を取って離婚することを考えていたが、小春の身の安全を考えて早めの離婚をするために慰謝料は諦めた。父は俺がいなければ生きていけないくせにと散々罵ったが、母は意に介さなかった。父親は渋々離婚に応じて養育費を払うことも約束したが、三回ほど養育費を払うとそのまま連絡が途絶えた。母は内心悔しかっただろうが、そんな顔を見せずいつも笑っていた。離婚してから小春と母の暮らしが始まった。母は二人だけの生活を守るために身を粉にして働いて、まさみも受験勉強をしながら家事をこなした。三人で暮らしていた頃よりも生活は苦しかったが、小春は怒鳴られない生活はこんなにも穏やかなものなのかと初めて知った。しかし小春が志望校の大学に合格してから、少しずつ母に異変が起こり始めた。母は些細なことで怒ったり泣いたりして感情が不安定になった。そしてよく寝れないと言うようになった。小春は仕事で疲れてるだけではないかと思っていたがとうとう母はベッドから起き上がれなくなった。そこでようやく小春は疲れが原因ではないことに気づいた。彼女は母を連れて病院に行くと鬱病だと診断された。母はそれから働くことも家事をすることも出来なくなった。

「もしかしてキャバクラで働いてたのって家計を支えるため? 」

 まさみは小春の話を聞いていて全てが繋がった気がした。

「はい。キャバクラの方が給料がいいから……。」

 小春は大学に入ったらサークルに入って、大学生活を楽しもうと思っていた。しかしサークルに入る余裕はなく、大学が終わったらすぐにバイトに行って、バイトが終わると家事をする日々に忙殺された。キャバクラのバイトは給料がよかったが、小春の父と同年代の客を接客すると父のことを思い出して、動悸が抑えられなくなった。小春にとっては辛い時間だったが、母を支える為には耐えるしかなかった。小春はここを我慢すれば明るい未来が待っていると思っていた。しかし入社した会社はセクハラとパワハラが当たり前の環境だった。新入社員の小春はすぐにハラスメントの対象になった。

「ずっと辞めたいと思ってました。でも私が会社を辞めたことを知ったら母親が働こうと無理するかもしれない。そう思うと辞めれなくて」

「そっか……。三谷さんは優しいんだね」

 まさみの言葉に小春は冷ややかな笑みを浮かべた。

「優しくなんかないですよ。ベッドの上から全然動かなくて、働かないし家事もしない母に何度死んでほしいって思ったか」

 小春の言葉に二人は掛ける言葉が見つからなかった。

「私、仕事が終わると毎日母に電話するんです。でも母が電話に出ないと死んじゃったんじゃないかって本当に怖くなって……」

 小春は涙ぐみそうになり唇を噛んだ。養育費を踏み倒すような父に頼れる訳もなく、親戚は介護が必要な家族がいることもあって小春は一人で母をずっと支えてきた。

「ごめん。俺、何も知らなくて」

 晴人の顔から怒りが消えた。彼は初めて聞いたようで驚いた表情をしていた。

「ううん。私が言わなかったから」

「でもどうして話してくれなかったんだよ? 俺、そんなに信用出来なかった? 」

 晴人は小春に頼って貰えなかったことに悔しさと悲しさが混ざった声色だった。

「そんなことないよ。信用してたよ。でも、なんでだろう? 言えなかった……」

 小春は目に涙を浮かべていた。

「分かるよ。その気持ち」

 まさみの言葉に二人は彼女の顔を見た。

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