第7話~9話

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 ジュリアは、掌より二回り大きいパンデイロを左手に持った。中央や端を繊細な動きで、リズミカルに叩き始める。

 やがて澄み切った表情で、女の子らしくも朗々とした声で歌い始めた。


  ズンズンズンズン、カポエイラ遣いが村を練り歩く


  誰一人として彼を止められないんだぜ


 音移動の少ない無骨な歌は、カポエィラを生んだとされる民族のものとされていた。

 今では民族の詳細は失われており、カポエィラを盛り上げる歌と意味だけが代々伝えられていた。

 シルバとトウゴは、ジュリアの目の前で向かい合ってしゃがんだ。

 歌に合わせて数回、手拍子をしてから、伸ばした両手をそっと触れ合わせる。二人は鏡写しの遅いアウー(側転)で、ジュリアから離れた。

 一瞬のジンガの後に、トウゴは膝を曲げて右半身を引いた。右足後ろにスライドさせて捻りを開放。内から外に左足を回し、ケイシャーダ(半円の軌道の顎攻撃)を放つ。

 左前姿勢のシルバは、左上腕を額の前に遣った。背中を丸めて時計回りに一回転する。

 ケイシャーダをやり過ごして、シルバはもう半回転した。左手を地面に着けて、右、左。緩やかに足を振り上げる。倒立しながら回転する魅せ技、アウー・ジラトーリオである。


  ズンズンズンズン、カポエイラ遣いがビリンバウを弾く


  陽気な愛の調べに皆も釣られて踊り出す


 揺らぎも迷いも感じさせない調子で、ジュリアは高らかに歌う。二人はリズムに乗りながら、滑らかにカポエィラを続けた。

 奴隷たちは、格闘技を踊りに見せかけるためにカポエィラを生み出した。ゆえにカポエィラは、明確なジャンル分けができない。

 舞踊、格闘技、演劇。どれでもあって、どれでもない、被征服民族の哲学そのものである。

 二分近くが経過した。トウゴから遠ざかったシルバは、左に側転。開いた両足を頂点で百八十度旋回し、エリコーピテロを披露した。

 トウゴがジンガで、ぬるぬると接近してくる。互いに蹴りと回避を交わしてから、姿勢を戻した。右手同士をぱんっとぶつけて、ジュリアに歩いて近づいていく。

 演奏を止めたジュリアは、面映ゆい、輝くような顔を正面に向けていた。

(ああ、やっぱり良いよな)

 体中にじんわりと汗を掻くシルバは、謎の赤服との交戦では望めない、大きな充足感を得ていた。


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 トウゴとのジョーゴを終えたシルバは、胡座のトウゴが見守る中でジュリアを指導した。良いカポエィラを見たからかジュリアの集中力は高く、所作には切れがあった。

(そう来なくちゃあ教え甲斐がねえよな)高揚したシルバは教えにも熱が入る

 二時間弱の練習を済ませて、三人は格闘場を辞した。盛んに話しながら横並びで歩いていく。

 静かな夜の道をしばらく行くと、赤煉瓦の住宅が見えてきた。三角の屋根は灰色で、家は小振りながらも堅実な印象である。

 周囲には土の地面が広がっており、胸ほどの高さの赤煉瓦の塀に囲まれていた。

 ジュリアは軽やかに二人の先を走っていった。「たっだいまー」と歌うように挨拶をして、敷地内に入る。

「今日は見事なまでに、星が綺麗だよなぁ。シルバ君って客人もいるし、思い切って外での夕飯と洒落込もうか」

 愉快げなトウゴの提案に、ジュリアはくるりと振り向いた。大きく開かれた瞳はきらきらとしている。

「大賛成! こーんな絶好の外ご飯日和に、家ん中でもそもそしてらんないよね! よーし! あたし、ソッコーで準備してくる!」

 向き直ったジュリアは、たたたと走り始めた。

(あんだけしごいたのにどっからそんな元気が出るんだ? 子供のエネルギーは侮れん。……いや、ジュリアが異常なだけか)

 シルバが舌を巻く一方で、ジュリアは家の建物前で急停止した。すぐに勢い良く扉を開く。


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 シルバとトウゴは、ジュリアを追って中に入った。

 調理器具を確保した三人は、家の裏の草地に移り、ゆっくりと腰を下ろした。

 水を張った三脚付きの鉄鍋の下に、トウゴはたくさん炭を置いた。火打石と鉄片を何度かぶつけて火花を熾し、炭の近くの杉の葉に点火をする。

 炭に火が移ってしばらくすると、鍋の水が沸き立ってきた。

 トウゴは、木の大皿上に載せておいたベーコンとキャベツを、手で豪快に鍋に入れていった。傍ら、真剣な顔でしゃがむジュリアは、木の棒で炭を動かした。火の強さの調整だった。

(親子の絆ってやつか。俺が、永久に手に入れられないもの。ガキどもを教え導き、ジュリアには己の情熱を注ぎこむ。今の生活に不満があるわけじゃあないが、やっぱり正直、羨ましい、よな)

 親子二人の息の合いように、シルバの胸に感慨が訪れた。だがすぐに思い直して、二つの大皿を脇に避けた。

 五分ほど経つと、液体がうっすら色づいてきた。膝立ちのトウゴは小皿の塩を一抓み入れて、レードル(おたま)でスープを掬った。

 ジュリアはすばやく前屈みになった。顔をレードルに近づけ、ふーっとスープを吹いて冷ます。

「ありがと、ジュリア」

 トウゴはレードルに口を付け、味見をした。

「素晴らしい夜に相応しい、完璧な味わいだな。二人とももう食えるぞ。母さん直伝、俺が芸術の域にまで高めたスペシャル・スープを、心行くまで堪能せよ」

 レードルから顔を上げたトウゴは、芝居がかった口調で勧めてきた。

「ありがとうございます。では、遠慮なく」と、シルバは、真顔のトウゴを直視して丁重に返した。

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