Rainy Forest

「ふうん、正体不明の美人か」

 立川くんの手から放たれた小石が、漣の光る川面に二、三度跳ねて消えた。ベンチに腰を下ろして、その低い軌道をぼんやりと眺めている。

 初夏の夕方、川原はオレンジ色に染まり、背の低い雑草が音を立てずに風に揺れた。

「なんか怪しい感じだな」

「初めは、僕もそう思ったよ。でも、彼女はいい人なんだ」

 初めてヒナさんの家を訪れてから、ひと月ほどが経った。雨の季節も残り僅かとなり、夏が迫っていた。

 僕は幾度か彼女の家を訪れ、彼女のことを、これまでよりもずっと細かに知った。ただ、知ったのはあくまで彼女の人間性に限られていて、素性などは未だに謎だ。

 結局のところ、彼女は正体不明の美人であった。

「んで、木立さんがご立腹なわけだ」

 苦笑して、小さく頷いた。ひと月ほど前にも同じような会話をした記憶がある。

 相変わらず、文乃はヒナさんのことを毛嫌いしているようだった。何かが気に食わないらしい。僕の雰囲気から彼女の気配を感じ取り、その度にへそを曲げる。

「ほんと、普段は大人しい奴なのに、お前のことになると人が変わるよな」

「仲良くしてくれるのは嬉しいんだけどね…」

 立川くんは他人事を楽しそうに笑って、空を見上げた。それから後ろへ仰け反って、体をぐっと伸ばす。

「そう言えばさ、あの、レイニーってのは、何なんだ?あだ名だよな?」

「うん。文乃がつけたんだ」

「へえ。由来は?」

「…ちょっと恥ずかしいから、勘弁して」

 立川くんは僕の肩に腕をまわしながら、体を揺すった。

「なんだよ、教えてくれよ」

「また今度ね」

 笑いながら見上げた空は、群青に近づいていた。もうすぐ星が現れ始める頃だ。


 レイニー。雨降りの、とか、そんな意味の英単語である。

 僕は日本人で、別に英語が得意なわけでもなく、また異文化に馴染みがあるわけでもない。あるいは苗字が雨崎だから、まあ分からないではないけれど、それも違う。

 このあだ名は、僕が小学三年生の頃についた。ちょうど、母が死んですぐの頃だった。

 雨が降っている。それが当時の心象風景だった。

 母の死は、間違いなく悲しいものだった。なのに僕は、しばらくの間泣けないままだった。自分でも驚いてしまうくらい、泣けなかった。こんな時に涙の一滴も出ない自分は、相当に薄情なのだろうと思っていた。

 実際には、悲しみを実感できていなかっただけだ。幼い子供にとって死という概念はあまりに曖昧で、縁遠いものだった。それを飲み込み、生との繋がりを意識できるようになるのは、もう少し後になってからだった。

 悲しい時には胸が痛むものだが、僕はひたすらに苦しかった。泣けないから、余計に。その感触は、けれど決して涙を誘わなかった。

 感情が涙として顕れたのは、学校で授業を受けていた時だった。

 隣の席には文乃が居て、黒板に並んだ達筆な文字を書き写していた。何を書いていたのかは、面白いくらい憶えていない。

「あ」

 涙は唐突に零れ落ちた。僕自身の認識が追いつかないままに、生温いものが頬を伝っていた。それは滞りなく連続して、視界を歪ませる。わずかに遅れて、自分が泣いているのだと知った。

 同時に、文乃も気づいたようだった。

「大丈夫?」

 小さな文乃の声に、ひとまず頷いて応えた。両手の甲で力強く拭ってみたけれど、涙は一向に止まってくれなかった。仕方がないので椅子を引く。

「気分が悪いので、保健室へ行ってもいいですか?」

 教師が頷いたのを確認してから歩き出した。視界の端に、眉根を寄せる文乃の顔が見えた。

 そのあと一時間ほど休ませてもらって、授業に復帰した。

 問題なく放課の時間をむかえ、家路についた。いつものように文乃も一緒だった。

 ところが、家も近づいてきた頃、金縛りに遭ったかのように、僕はまったく動けなくなってしまった。息が浅かった。なんとか気分を落ち着かせようと思って空を見上げた。ひどく良い天気だった。

 そしてその格好のままで、またしても涙が溢れ出した。

 声はあげなかった。ちょうど、母が死ぬ直前のように。それはすごく子供らしくない泣き方だった。

「凛くん?」

 立ち止まった僕を訝しんで、文乃も立ち止まった。彼女は涙に気づくと、僕の手を引いて近くにあった公園へ向かった。僕とヒナさんが出会った場所である。

 僕をベンチに座らせると文乃は隣に腰掛けて、何も言わずに、ただ待ち続けていた。僕の泣き方と同じくらいに、子供らしくない気遣いだった。

 しばらく無言で泣き続けてから、大きく息を吸い込んだ。それから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「苦しいんだ」

 束の間。風。

「息苦しいんだ。雨が、止まないんだ」

 きっと本ばかり読んでいたからだ。小学生が言うにしては、ずいぶんと気障な台詞だった。

 文乃はしばらく黙っていた。

「…そっか」

 やがて口をひらいた彼女は、たった一言、それだけ呟いた。あとには、何も言わなかった。

 翌日、文乃は児童文学のなかから、レイニーという単語を拾ってきた。偶然も起こるもので、そのとき彼女が読んでいた本に書いてあったのだ。

 雨降り。それは不思議な響きだったけれど、案外すんなりと僕の肌に馴染んだ。それ以来、文乃は僕をレイニーと呼ぶ。高校生になった今でも。


 秒針の音。

 時刻は午前零時をまわった。冷房の効いた部屋は快適だが、気力を失わせる。

 シンデレラの魔法が解ける時刻だ。天井を見上げて、ヒナさんのことを考えていた。

 依然、彼女のことはよく分からない。しかし、僕らは着実に関係を深めつつある。いずれ、男女の関係をもつことだって可能かもしれない。

 初めは、そんなことばかり考えていた。

 僕は確かに恋に落ちたのであって、そういう意味で彼女に惹かれているのだとばかり思っていた。今でも、それ自体は変わらない。

 しかし今は、それ以上に、ヒナさんの人間性に興味を持っている。

 彼女という人は本当に不思議な人で、ちっとも深いところが見えてこない。どこまでも透明で、掴みどころがない。まるで、魔法か何かによってぽっかりと虚無のなかに創り出されたような、そんな人だ。

 人間というのは、たいてい混合色だ。割り切れない灰の色。

 にも関わらず、彼女には色が無い。これっぽっちも。

 本当は知りたい。彼女という人を、もっとしっかりと知って、理解してみたい。けれど同時に、踏み入るのが怖いのだ。もう考えるまでもなく、彼女には只ならぬ事情があるはずだ。

 まるで綱渡りみたいな関係だ。

 少しでも間違えたら、そこで壊れてしまいそうで、だから薄氷を踏む気分で、未だにただ、ひたすら愚直に親しくなることばかりを考えている。あくまで表面的に。

 しかしその臆病さに反して、気持ちは一分の躊躇いもなく、彼女へと近づいている。


「こんなふうに、最近の生物学の発展は目覚ましいものです。皆さんご存知の出生前診断も、以前とは比べ物にならないほど…」

 五十手前の男性教師は教卓に両手をついて、どこか遠いところを眺めながら語った。五限目にあたるこの時間は、どうしてこれほどに眠いのだろう。

 ほとんど目を閉じながら、欠伸を噛み殺す。ちらと隣を窺うと、立川くんは既に眠っていた。

 そこでチャイムが鳴って、僕の意識はにわかに鮮明さを取り戻す。

「おっと、では今日はここまで」

 男性教師が教室を去っていくと、立川くんが盛大に欠伸を漏らしながら立ち上がった。

「眠すぎる」

「だね」

「次、教室違うだろ。行こうぜ」

「うん」

 立ち上がり、支度をして立川くんに並ぶ。休み時間の喧騒のなか、だらだらと廊下を歩いていく。

 彼女の居ない景色は、ひどく退屈だ。

 今日も暮れて、いつものように家へと帰る。幾度となく繰り返してきた日常。思わずため息を吐いた。

 桜並木の歩道、交差点で赤信号を睨みつけていた。

「あれ、凛くん?」

 背後からの声に心臓が跳ねる。振り返るまでもなく、そこに彼女が居ることは分かっていた。能う限りの柔和な笑顔をつくって振り返る。

「ヒナさん」

「学校帰り?」

「はい。ヒナさんは?」

「いつもどおりお散歩だよ。最近暑くて、ちょっと辛いけどね」

 彼女は長い黒髪を引っ張りながらぼやいた。

「ねえ、明日はどこへ行こうか?」

「うーん…」

 遊んでいるうちに、僕らは外出するようになった。というのも、彼女の家は落ち着くけれど何も無いし、かと言って僕の家も同じようなものだから。

 先週は食事をして、アテもなく散歩をした。くたびれた時にはそこらのベンチに腰掛けたり、近くの店を覗いてみたり。

 初めて二人で出掛けた時には、もっと綿密に計画を立てて、それこそデートのようなことをしたのだけれど、実のところ、僕は普通のデートよりも、ヒナさんとの気楽な散歩を気に入っていた。

 理由は簡単だ。彼女を近くに感じられるから。向かい合って眺めているよりも、隣を歩いてくれる方が僕にとっては幸せだった。デートだなんて意気込んで、気負っていたくなかったし、彼女にもリラックスしていてほしかった。

 欠伸が出るような何でもない時間が、どうしようもなく幸福だった。

「あ、もちろんお散歩だけでもいいよ。でもほら、場所を変えないと飽きちゃうでしょう」

「そうですね。じゃあ、ちょっと遠くへ行きましょう」

「うん。ま、細かいことは、その時の気分で決めればいいか」

 細かいことは大切じゃない。それがヒナさんの思想らしかった。

 その日の気分で、彼女がどこかへ行きたいと言うことはあっても、それを目的にしたことは、今のところ一度もない。僕らは目的もなく会った。それ自体が目的だったから、細かいことはどうでも良かった。

 なんて、僕が偉そうに言えるのは、ヒナさん自身がそう言ってくれたからである。一度目の外出の帰り道で、次の予定を決めようとした時だった。

『別に、なんでもいいんだよ。わたしは君に会いたいんだから』

 西陽が射す電車のなかで、彼女は僕の目をまっすぐに見つめて微笑んでいた。その夜、僕がろくに眠れなかったことは言うまでもない。

「ヒナさん、これから話せませんか?」

「いいよー」

 ゆっくりと歩き出す。このひと月で、ヒナさんの歩幅にもすっかり慣れてしまった。

「そう言えばさ、凛くんって背高いよね」

「そうですか?」

「うん。並ぶとわたしがちっちゃいみたいで、ちょっと複雑」

 たしかに、彼女は小柄だ。ちっちゃいと言う程でもないと思うけれど。

「ちっちゃくはないですよ」

「ほんと?」

「ええ。あ、綺麗な蝶々」

「えー、どこどこ」

 木陰にとまっていたアオスジアゲハを指さす。僕らの会話はいつもこんな調子だ。

 何らの深刻さも伴わず、僕らを含めて誰も傷つかない。きわめてどうでもよいことばかりを話す。示し合わせずとも、会話は自ずとそういった内容になる。

 時々は、なんだか哲学的な話もする。たとえば幸せについて、またあるいは、人間について。

「いい天気だねえ」

 ヒナさんは蝶々から目を逸らし、遠くの雲を眺めた。日が長くなって、辺りは未だ明るい。薄めた絵の具みたいな青空。

「そうだ。今日は、おすすめの店を紹介しますよ」

「店?」

「はい、喫茶店です。近所にあるので、友達と行くんですよ」

「へえ、友達と」

「ええ。幼なじみの女の子と、よく行きますね」

「おー、凛くんも男の子なんだねえ」

 笑って首を振る。

「そんなのじゃないですよ」

 彼女も楽しげに笑っていた。

 まもなく、いつもの喫茶店に着いた。もう慣れきってしまって普段は意識しないけれど、『Rainy Forest』というのが店名だ。

「こんにちはー」

 ドアを引き開けて入店すると、早乙女さんは用意していたかのような完璧な笑顔をみせた。が、僕に続いて入ってきたヒナさんを見て、一瞬、ほんの一瞬だが顔が引きつった。

「いらっしゃい、凛くん。そちらは、恋人かな?」

 それでも数秒のうちに完璧な笑顔を取り戻し、柔らかな声色で言った。ひとまず今は気にしないことにして、かぶりを振る。

「違いますよ。友達です」

「初めまして。ヒナといいます」

 彼女はお辞儀して、彼に笑いかける。

「初めまして。早乙女です」

 彼は表情を変えないままで応えた。

「早乙女…」

 ごく小さな声で、彼女は復唱した。

「どうかしました?」

「んーん。なんでもないよ。知り合いに同じ苗字の人がいるだけ」

「あ、そうなんですね」

「こちらへどうぞ」

 早乙女さんに促され、僕らはいつもの席に着いた。

「凛くんはミルクティーでいいかな?」

「はい」

「ヒナさんは?」

「わたしは、アイスコーヒーで」

 彼は笑顔のままで一礼して去っていく。ヒナさんはその後ろ姿を見つめていた。彼の姿が見えなくなると、彼女はこちらを向いて微笑んだ。

「すごいイケメン。びっくりしちゃった」

 なんだか複雑な気分になってしまって、僕は曖昧に頷いた。

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