好敵手たち
尚志の通う専門学校は三年制の柔道整復師養成学校である。
柔道家なら当たり前にできる骨折、脱臼、捻挫、打撲、挫傷への治療の方法を学ぶ場所。
当然ながら、柔道の実習授業は必修である。
とはいえ柔道は高校以来やっていない学生も多い。
五十代の学生もクラスに何人かいる。
「いいか、お前ら。早く投げたいかもしれないが今は受け身を徹底的にやれ。受け身が上手くなると投げも上手くなる。飽きるまで受け身だ。身に付くまで受け身だ。後方受け身、横受け身、前受身、前回り受け身、目をつぶってもできるようになれ」
柔道場では担任の先生であり、柔道部の監督でもある大村の声が響く。
夏が近づくと、徐々に投げ技を習うようになる。
ランダムに二人で組んでお互いに技を掛け合う。
その日、尚志が組んだのがクラス一の長身を誇る
身長はゆうに二メートル近くはあるだろうか。
大学ではバスケット部で活躍をしていたと聞いた。
「えっと、こんなに背の高い人とやるのは初めてです。お手柔らかに」
尚志は和木を見上げて言った。
「自分もこんなヘビー級の人とやるのは初めてです。よろしくお願いします」
和木は尚志を傷つけないように慎重に言葉を選んでくれた。
その心遣いがありがたかった。
まずは和木が背負投げをかけ、尚志が受け身を取る手順に。
お互いが組むと間髪を入れずに、
「フンッ!」
と和木は尚志を畳に叩きつけた。
迷いがなく思い切りのいい投げは一秒もかかっていない。
身長差のせいもあってか、”バシィ~ン!”とすごい音が道場中に響いた。
「ウッ、アアッ」
衝撃が体中を駆け巡り、声が出ない。
それでもなんとか立ち上がろうとすると左足の指先に痛みが走った。
その後は気合と根性で頑張ったが耐えられなくなってきたのでとうとう大村に痛みを訴えた。
すでに尚志の左足の人差し指は青く変色して腫れている。
大村は尚志の指の頭を先端から叩いて、
「痛むか?」
と訊いた。
「いえ、特には」
と尚志は答えた。
「そうか。
大村はそう言うと、冷湿布を貼り包帯を巻いてくれた。
その日は松葉杖を借りて帰った。
帰宅してから練習用としてもらった教材のカルテに記入を始めた。
先ずは診断名をどうするか。
『
思ったよりも大袈裟な診断名に尚志は吹き出した。
次は発生機序を記入する。
『日頃の行いの悪さか、雲を突くような大巨人と立ち会う羽目に。勇敢に奮闘するが惜しくも及ばず。不幸にも怪我を負い、
調子に乗ってフザケすぎたので、尚志はカルテをクシャクシャに丸めゴミ箱にシュートした。
以来、怪我のせいで柔道は見学している尚志だが本当は血が騒いでいた。
というのは、いよいよ乱取りが始まったからである。
今まで習った武術の知識は忘れて、ゼロから謙虚に柔道を学ぼうとは思っていた。
しかし、皆の乱取りを見ていると自分の大東流や意拳がどこまで通用するか試して見たくてたまらない。
中でも松崎というクラスメイトが気になる。
彼は華奢な体格でおまけに眉目秀麗。
だがどっこい、向き合うと妙な構えを取りだす。そして妙な動きをするといつの間にか相手を投げているので皆から一目置かれていた。
何かの武術を習っていたのは間違いないが、あえて彼に質問はしなかった。
直接、その技を味わってから当ててみせたかったのだ。
尚志は彼が羨ましかった。
なんとなく、自分と同じ匂いを感じてもいた。
<こちら側の人間がここで頑張っている>
そう思うと好敵手を見つけた喜びが湧き上がった。
一ヶ月後、尚志は柔道の授業に復帰した。
そして今までの鬱憤を晴らすかのように暴れまくった。
意拳の
肩幅ほどに両足を開き、片方の足を内側に半円を描くように一歩進む。反対の足も同様に。退く時も同様に。
角度をつければつけるほどジブザグ度が増す。
日曜ごとに山形と実戦さながらの散手をやっている身からすると、皆は止まっているかのように遅く見える。
尚志は相手の死角に入り難なく投げる事ができた。
和木を投げるのはさすがにかなわなかったが、なんとか尻餅をつかせリベンジ成功。
しかし深澤のような大学の柔道部上がりで
尚志は空気投げや巴投げを仕掛けるが後少しのところで踏ん張られてしまうのが常だった。
「おおっと、今のは本気で危なかった」
深澤はそう言って余裕を見せておどける。
それが尚志には多少悔しくもあるが、実力差はどうしようもなかった。
乱取りの時に深澤はなぜかいつも尚志をパートナーに選んだ。
柔道部には百キロオーバーはいないのでいい練習相手だと言っていた。
尚志としてはいつか松岡と乱取りをしたかったのだが果たせないでいた。
ある日の柔道の授業中、
「今日は尚志と松崎の乱取りを見てみたい。皆、見てみたいよな」
と大村が言った。
柔道場にいた全員が賛同した。
――面白そうじゃないか。目方とフットワークの尚志に一票。奴は多少やるぞ。
――なら俺は妙な技を使う松崎を応援する。華奢な体でよく体格差を乗り越えてきた実績を推す。
――松崎だな。松崎の方がイケメンだし。マンガだったら松崎の勝ちって流れだよ。
――顔は関係ないだろう! 頼むぞ、尚志。醜男の意地を見せてやれ。体重は正義だ。
皆が好き勝手なことを言って両者を応援し始めた。
尚志と松崎は皆が見守る中、道場の中央に出てきた。
お互いに向き合い礼をすると松崎は左手を高く挙げ、右手を腰の高さに置いた。
<何の構えだ? だが関係ない。摩擦歩での奇襲はもう警戒されているから無理なのは明らか。ここは
作戦を瞬時に考えると尚志は前に出た。
しかし約一秒後。
「……へっ!?」
気がつくと尚志はいつの間にか畳の上で腹ばいになっていた。うつ伏せの状態になっていた。
顔だけを上げると松崎が微笑んで尚志を見下ろしていた。
ギャラリーたちは拍手喝采。
「くそっ」
不覚を取り、尚志の顔は怒りで真っ赤になった。
急いで立ち上がり強引に松崎の襟とヒジを掴もうとするが、怒りに支配された攻撃は単調ですべて松崎に読まれ防がれてしまう。
「やめいッ!」
大村の声がした。
尚志と松崎は再び道場中央に戻り、お互いに礼をした。
トボトボと中央から去ろうとすると大村が尚志のもとへやって来た。
「なんで尚志が負けたかわかるか? お前は初めに松崎を押していたが、柔道っていうのは引く力だ。松崎は引くことだけに集中していた。押しちゃダメだ。引かないと。まあ、お前の変なフットワークもすり足はできているから、そこだけは褒めてやろう」
大村の助言は尚志の胸に抵抗なくスウッと入っていった。
負けた悔しさはとうになくなっていた。
この日を境に松崎の株は右肩上がり。
対する尚志の評価は見掛け倒し、
だが、尚志は気にしない。
それよりは松崎の流派が気になっていた。
憂鬱な定期試験が終了した。
駅近くの居酒屋での打ち上げの席で、尚志は松崎の隣りに座った。
「やあ、こないだは完敗だった。見事にやられてしまったよ。松崎は素人じゃないでしょ。何をやっていたんだい?」
尚志は松崎に訊いてみた。
「僕は空手を少々。高須先生は知っていると思うけどそこから独立した流派なんだ。だから空手だけじゃなくって古武道の技術もはいっている」
松崎はにこやかに答えてくれた。
話に出てきた高須先生は武術の世界では有名人で、テレビに出たり本を何冊も出版しているので一般人にも名が知られている。
「高須先生の本は僕も持っているよ。そうか、高須先生から独立したのか。じゃあ、そこでは何段なの?」
「いや、何段とかじゃなくって……。実は空手一級なんだ」
「えっ。すると僕は空手一級に負けたのか。ぜひもう一度僕と乱取りを。このままでは悔しい」
尚志は松崎にお願いをすると一気にグラスのビールを空けた。
「なら、はっきり言おう。尚志は空手一級に負けたことを恥と考えているようだ。だが武道の世界では段位と強さは必ずしも一致しない。こないだクラスの全員が初段を金で買った事実を忘れたのか?」
松崎は真顔になってズバリと言った。
尚志は
尚志は何も言えなくなってしまった。
「次に、僕は尚志との乱取りには応じるけどもう空手や古武道の技は封印する。僕の習った技が尚志のようなヘビー級に通用したんだ。自分の技の有効性を証明できたから満足している。これからは己を無にして柔道部と一緒に稽古をするつもりだ。しっかりと柔道の技術を学ぼうと思っている。だから今までに身に付けた空手技を柔道では試さない」
「はあ」
松崎の意志の強さに尚志は気圧されていた。
「しかし武道というものは素晴らしいよ。僕みたいな華奢な体格でも尚志のような立派な体を地に這わせることができたんだから。僕は自分より大きい相手を這わせるために武道をやってきたんだ。悔しい思いをたくさんしたからね。ところで尚志は何のために武道を始めたんだい?」
「……え~、なんとなく?」
不意の質問にうまく答えられなかったのは酒に酔っていたせいだけではない。
<なぜ自分は武の世界に入ったんだっけ?>
自らに問うてみても答えが出てこない。
そうこうしている内に、松崎は他の席にお呼ばれして尚志のもとからいなくなった。
前回だけでなく今回も松崎に完敗した尚志だった。
このように柔道の授業では多少のムチャをした尚志だが基本的に人間関係は悪くなかった。
ただ一人、有馬というクラスメイトを除いては。
有馬という男は新学期の初日から目立っていた。
背は尚志より少し低いが、体重は百キロを超えている。
やけに学校の事情に詳しいので不思議に思っていたら留年生だとか。
普段着もホストみたいなチャラチャラした浮ついた格好をしていた。
なぜホストのような格好をしているのか?
その疑問はすぐに解けた。
「学校が終わってからホストとして働いているんだ。よかったら一度遊びに来てくれ」
などと話していたのを聞いた。
また高校時代は東北での柔道大会で準優勝した、と自慢していた。
この専門学校も柔道推薦で難なく合格した、と自慢していた。
だけど入学さえすればこっちのモンとばかりに柔道部に入らなかったことを自慢していた。
すぐに自慢をする有馬だが、嫉妬深い性格でもあった。
一時期、尚志は減量に励み、その成果は目に見えて出てきた。
その痩せっぷりは元が元だけに大いに目立った。
「よう、最近ずいぶんと痩せてきたんじゃないの。尚志だけ痩せるなんてズルいんじゃないか」
有馬が尚志にからんできた。
「いや、僕はこのまま痩せて普通の人生を歩むよ。そうなるとこのクラスで百キロオーバーは有馬だけになる。お得意の自慢ができてよかったね」
尚志は面倒くさそうに答えた。
すぐに妬むこの男が嫌いだったのだ。
「この野郎! 百キロオーバーなんか自慢になるか! まるで俺がつまんないことでもすぐに自慢する嫌な奴みたいな物言いじゃないか!」
まさに彼の言う通りなのだが、尚志としてはこれほど有馬の逆鱗に触れるとは予想外で面食らってしまった。
「待て待て。そんな大声を出すと草野先生が飛んでくるぞ。尚志は言い過ぎだし、有馬は落ち着け。太っていたっていいじゃないか。いつかデブの時代が来るって」
深澤がケンカを止めにやって来たが、
「どういう意味だ、ゴラァ!」
とさらに有馬は怒り出す始末。
深澤がカバンの中から麦チョコを出して有馬に渡すとやっと怒りが静まった。
それ以来、有馬はスキあらば尚志にからんできた。
「よお、ダイエットご苦労さん。ところでこのシュークリーム、美味しそうでしょ。やっぱり疲れた時は甘いものだよ。尚志にあげるから俺の目の前でパクリとやってくれないかな。俺はからあげ棒をコーラで流し込むから遠慮することはないぞ」
というパターンでくるかと思えば
「あ、先生。その問題なら尚志くんが答えられるはずですよ。さあ、どうぞ答えてください」
などと尚志を
不思議なことに、尚志がリバウンドして体重が元通りになったら嫌がらせはピタリと止んだ。
さらに不思議なことには、有馬とケンカ友達になっていた。
何でも遠慮会釈なく言える関係。
しかし、そんな関係も卒業を控えて終わろうとしていた。
尚志は心残りがあったので有馬に告げた。
「なあ、有馬。とうとう僕とは乱取りをしなかったね」
「ああ、柔道の授業は無理なく怪我なく流すように、だ。誰が尚志みたいな重いのと」
「明日は柔道実習の最後の日。どうか思い出づくりのために僕と乱取りをしてくれないか」
「やなこった。国試を前に怪我をしたくない」
「明日の柔道には草野先生はもちろん、大村先生も特別に出席される。その情報を得ていた僕は大村先生に根回しをしといたよ。僕と有馬のわだかまりを解くためにも一肌脱いでくれるそうだ」
「この野郎め!」
「まあ、明日が楽しみだ」
尚志はそれだけ言うと鼻歌を歌いながら教室を出た。
――そして迎えた柔道最後の日。
道場の中央に立っているのは尚志と有馬の二人だけ。
他の生徒は道場の隅に座って、期待の目を向けている。
草野と大村も座っている。
これは試合ではないから審判はいらない。
あくまでも乱取り、だが特別な乱取りであった。
お互いに礼をしてから有馬が組んできた。
だが尚志は組まずに両腕をクロスさせ左右の襟を掴み、立ちながらの十字絞めを敢行。
「落ちろォーーッ!」
両腕に力を入れ絞め殺さんばかりの気迫は有馬もたじろいでいる。
しかし有馬は落ちず、二人とも膠着状態に。
「両者中央へ」
大村の声がしたので道着を整え再び
有馬は尚志の襟を掴もうと腕を伸ばしてきたが狙いは襟ではなかった。
「ガァぁーーッ! どこを掴んでいやがる」
「カカカ、これぞ必殺乳首責めだ」
「そんな技、あるわけないだろ」
「この技を彼女に試したら逃げられたよ」
有馬のこの攻撃は予想外で対処が遅れてしまった。
「両者中央へ」
再び大村の声。
強烈に掴まれた乳首にまだ痛みが残っている。
尚志の怒りは頂点に。
今度は組むと同時にローキックに近い出足払いをお見舞いするつもりだったが尚志の右足は空を切り、代わりに有馬のローキックを思いっきり食らった。
「狙いは悪くないけど俺は幼稚園から空手をやっていたんだ」
有馬は憎々しげに笑って言った。
大東流にも意拳にも蹴り技は存在していないので、蹴りでは分が悪かった。
「両者中央へ」
三度、大村の声。
<よし、次で決めよう。乳首も足も痛いから短期決戦だ>
尚志は組むと見せかけ、推手の要領で有馬の左胸を右手掌で強打。
右手で有馬の後ろ襟を掴みながらジャンプ。
すかさず空中で彼の胴を両足で締めながら後ろに倒れ込む。
体を入れ替え馬乗りになった尚志。
マウントを取った状態で寝ている有馬に右拳を振り上げた。
勝負はついたので静かに拳を下ろし、有馬から下りて離れた。
見学していた学生たちからは歓声と拍手と口笛が飛んだ。
<ああ、気持ちいいな。意拳を習っていて良かった>
尚志は立ち上がった有馬と握手、そして抱擁。
<これで思い残すことはない>
拍手と歓声の中、尚志は思った。
数分後、畳の上で生徒たちが正座をしていた。
黙想が終わり目を開けると、大村が口を開いた。
「三年間、よくやった。この柔道の実習を嫌がる気持ちもわかるが、苦労して汗を流した経験はきっと皆の力になるでしょう。では尚志と有馬を残して全員解散!!」
生徒たちはそれを聞いて更衣室に歩いていった。
「あの、僕たちはなんで残されたのでしょうか?」
恐る恐る尚志が大村に訊いた。
「乱取り中の私語や反則が目に余る。着替えたら二人とも説教部屋に来るように」
大村の表情は冷たかった。
こうして、初め仲の悪かった二人が最後には仲良く説教されてまた少しだけ仲が悪くなってしまった。
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