第二章 意拳

ジャパン意拳クラブの若きリーダー、驚く

 尚志は朝早くに目覚めた。

 期待と興奮が惰眠を許さない。

 携帯が光っていたので確認をすると葛西かさいからのメールが届いていた。

『仕事で遅れるので先に行ってください』

 という内容。

 尚志は遅れないよう早めに家を出た。


 駅から徒歩で十数分。

 葛西から教えられた多目的複合施設に到着。

「すみません。ジャパン意拳クラブの見学に来たんですけど。場所は何階にありますか?」

 受付に尋ねた。

「ああ、見学希望ですか。そうですね、まだクラブの方は誰も来てないですね。クラブのメンバーが来ないと部屋の鍵を開けられないんです。来たら教えますんでそちらの椅子で待っていてください」

 尚志は言われたまま長椅子に腰掛けた。

 無事に目的地にたどり着けた安心感と早起きしたせいで、いつの間にか眠りに落ちていた。


「おい、君。起きてくれ」

 誰かに頬を叩かれ、尚志は目を覚ました。

 目の前には一人の青年が立っていた。

 中肉中背の体をジーンズとフライトジャケットで包んでいる。

 何の変哲もない、特徴もない、強そうなオーラもないごく普通の青年という印象を尚志は抱いた。


「待たせたようですまない。ジャパン意拳クラブに興味のある人が長椅子で座って待っている、と受付に言われたんだが君で間違いないね」

 青年が訊いた。

「ふぁい。僕がそうです」

 目をこすりながら間抜けな声で答えた。


「質問していいかな。君は一人で来たのかな?」

「ええ」

 葛西が遅れたので一人で来る羽目になった尚志はそう答えた。

 だが気のせいか青年の雰囲気が先程とは違う。

 彼はいつの間にか尚志に対してスキのない身構えを取っていた。

 例えるなら、澄み切った殺気を静かに全身から発しているかの如くである。

 見学をお願いする身でありながらうっかりうたた寝をした非礼に腹を立てているのだろうか、と尚志は考えた。


「うん、いい度胸だ。数に物を言わすのは好かない。男と男の決闘は一対一でないと。で、なにか武器は持ってたか?」

「いえ、着の身着のままですが」

 今日は見学だけのつもりだから武器はおろか練習着すら持ってきていない。

 しかし質問ではなく詰問といった体である。


「そうだろうとも。死合しあうのはやっぱ徒手空拳に限る。この時間だと僕しかいないけど失望はさせないつもりだ。ところで礼儀として君の流派を名乗るべきでは?」

「はあ、一応は大東流蒼天会だいとうりゅうそうてんかいですが……」

「いや、そうじゃなくって。中国拳法の門派を訊いているのだが」

「そう言われても……。中国拳法はまったくの初心者ですが」

「待てよ、大東流蒼天会。あっ! 葛西さんが習っている所じゃないか!」

「はい、その葛西さんの紹介で見学に伺いました南郷尚志なみさとひさしと申します。今日はよろしくお願いします」 

 尚志がそう答えると青年は毒気を抜かれたような顔になり、

嗚呼ああ~!」

 と声に出すと額に手をやり天を仰いだ。


 * * * * *

 

「ふう、誤解が解けて安心しました。やはり何事においても話し合いが大事ですね」

 建物の突き当たりにある稽古部屋の床に腰を下ろして、尚志は言った。


「ったくあの親父は。俺に一言連絡を入れるくらいできるだろうに。おかげで君を道場破りと間違えてしまった。本当にスマン」

 青年は両手を合わせて謝った。


 あれから尚志は事の経緯を説明した。

 本来は葛西が尚志を見学に連れてくるはずだったのだが予定が狂ってしまい、自分ひとりでここに来た事を。

 そしてお互いに話しているうちに、尚志は自分が道場破りに間違われていたことにようやく気付く始末だった。


「しかし今どき道場破りなんているんですか?」

 尚志が疑問を持つのも当然だ。

 時代小説やマンガでしか見たことがない。


「いるとも! 特に中国拳法の世界では日常茶飯事なんだ。先々週も粋がっているのがやって来たから返り討ちにしてやった。ウチは小さな団体だけど敵が多いんだ」

「はあ、それで僕は道場破りに間違われた、と」

「それは悪かった。だが君みたいに大きな体をしていれば誰だって警戒する。格闘技をやっていた雰囲気も感じたし。だから間違われたのはしょうがない」

「はあ、どうもスミマセン」

 青年の悪びれない発言にはなぜか不思議な説得力があり、尚志は思わず謝ってしまった。


「そうだ、自己紹介がまだだった。俺は山形やまがた。一応このジャパン意拳クラブの代表を務めている。今日はよろしく」

 山形と名乗った青年の年齢は二十代後半くらいだろうか。

 身長は尚志より五センチほど低く体重は六十五キロくらい。

 山形の印象は地方の純朴な若者といった感じでまったく強そうには見えない。

 ついさっき見せた殺気は本当に彼が発したのであろうかと、誰もが疑うくらい今は静かだった。


「では先程も名乗りましたが改めて。南郷尚志なみさとひさしです。南郷と書いてナミサトと読むのはややこしいので僕のことは尚志ひさしと呼んでください」

 尚志は自己紹介をやり直した。

 

 この当たり前の流れにたどり着くまでに危うく一戦交えるところだったが、なんとか危機は回避したようだ。

 

 さて、これからどんな稽古が始まるのかと尚志は期待に胸を膨らませていた。

 だがその期待は裏切られた。

 なんと山形はリュックの中から菓子パンを出して食べ出したのだ。


「いつもウチはこんな感じなんだ。一応、練習時間は九時からだけど皆はピッタリとはやって来ない。だから稽古の始めと終わりの号令もない。道着も決まってないからもし君が望むなら見学だけじゃなくてその格好で練習もできる。自由なんだ、基本的に。君も朝飯を持ってきたなら食べて構わない」

「じゃあ、今度からお言葉に甘えてそうします。僕のいた大東流蒼天会も割りと自由でしたけど、ここはもっと自由ですね」

「まあ、発祥が中国だから。向こうの人は練習中に平気で上半身裸になる。初めて見た時は日本と中国の違い、というか考え方の違いに驚いた。だって日本の武道では考えられない。君、大東流では稽古中に暑くなったら道着を脱ぐか?」

「まさか、あり得ません。でも昨日は自主稽古の時間に葛西さんと相撲を取るために上半身裸になりました」

「本当か!? 驚いたなぁ。かなり自由なんだな、蒼天会って」

 そう言うと山形はパンを口に入れコーヒー牛乳で流し込んだ。

 

「驚いたと言えば、山形さんが若くしてすでに団体の代表であることにも驚きました。相当お強いとお見受けしました」

 尚志は本心から言った。

 あの澄み切った殺気は素人が出せるものではない。

 それに、蒼天会の大岩宗師おおいわそうしが七十過ぎだから武術団体の代表は壮年以上がやるものと思い込んでいたのだ。


「これには色々と事情があってな。別に俺が強いからじゃない。しかし驚いたというなら尚志にも驚かされたぞ。これまで色んな人がジャパン意拳クラブにやって来たけど、しょぱなから寝ていたのは君が初めてだ。葛西さんはなんて大物を連れてきたんだろうか。いやはや、実に驚いた!」

「あ、すみません。ついウトウトと。でも初っ端から寝ているようなのを道場破りと勘違いした山形さんにも驚きました」

「ほら、そういうところが大物だ。それに寝ていても油断はできん。トレロカモミロのような道場破りだっていないとは限らない。世界は広いんだ。大体、男は済んだことをグチグチと言うべきでなない」

 山形の口調はやや熱を帯びていた。

 少しご機嫌斜めのようだった。


 そのせいかもしれないが、なぜか会話のラリーは止まってしまった。 

 ふと、時計を見ると時刻は九時十五分。

 二人が部屋に入ってすでに十五分も経っていたが、他に誰も来る気配がない。


「皆、遅いんですね」

 たまらずに尚志が話しかけた。

「焦ってはダメだ。十時になれば誰かやって来るはず。いつものことだ。今日は珍しく葛西さんも練習に参加するし一丁揉んでやるかな」

 山形は笑って言った。

 すでに機嫌は直ったらしい。


「昨日、僕は葛西さんと相撲を取って嫌んなるくらいに負けました。葛西さんはここでは結構強い方なんですか?」 

 気になっていたので軽い気持ちで尚志は訊いた。

「葛西さんが強い方かだと? いやあの親父はそれほどでもないぞ。せいぜい中の下ってとこだな」

「ウソ!? 相撲では体重のある僕がまったく歯が立たなかったんですが。本当ですか?」

「相撲は知らないけど、意拳に限っていえば弱いよ、あの親父は。練習もあんまり来ないし」

 山形は素っ気なく答えた。

 その答えは尚志にとって意外すぎる答えだった。

 葛西の化け物じみた強さは骨身に染みている。


「さあ、お喋りはもういいだろう。そろそろ稽古をしよう。だが俺は朝飯を食べたばかりでまだ運動はしたくない。そこで、だ。丁度いいから尚志の入門テストをしてみたい。じゃあ始めようか」

 悪魔のような笑みを浮かべ山形が言った。


 殺気を再び向けられた尚志は思わず身震いをした。

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