黒田の空気投げ

 蒼天会の一般稽古が終わると尚志は才川のフリーを受ける。

 フリーが終わると黒田のグループの自主稽古に途中参加するのが流れとなっていた。


 黒田のグループは人気があって人数が多い。常に十数人はいて、黒帯から茶帯、白帯まで万遍なく存在していた。

 土建屋の社長で親分肌の黒田は面倒見もよく、いつも豪快に笑っているので人望もある。

 教え方も柔道経験者だけあって、理論的でわかりやすい。

 技も重厚で力強く、体重百十一キロの尚志は何度も畳に叩きつけられていた。

 

 何もかも才川とは対照的である。

 しかしそんな黒田と才川がお互いを認め合っているのは誰が見ても明らかであった。

 タイプの違う二人だが、ガチンコでやり合えばどちらが強いのかは尚志にもわからない。


「よし、これから空気投げを教えるぞ」

 尚志が黒田のグループに合流すると、黒田が言った。

 グループ内で”ワッ!”と歓声が上がった。


「あの三船十段みふねじゅうだんの得意技じゃないか。スゲエ」

 と興奮する者がいれば、

「大丈夫なのか? 蒼天会では、というか大岩先生が教えていない技なのに」

 と不安になる者もいた。

 大岩鉄之進宗師はまだ道場の奥で事務仕事をしているので、こちらの自主稽古の様子は丸わかりの状態だから不安がるのも無理はない。


「大丈夫だ。俺の空気投げは合気が入っているから問題ない。出来る人はどんどん自分の得意技に合気を入れていくのが蒼天会の昔からのやり方なんだ。大岩先生の技をコピーするしか能のない奴らに文句を言う勇気なんかないから安心しろ。ワッハッハ」

 豪快に笑い飛ばす黒田を見てグループの皆はホッとした。 

 確かに才川のフリーなんかを考えると黒田の言ったとおりである。

 技の出来る人は工夫して応用していくので自主稽古で教える際もバリエーションと活気があるしオープンである。来る者は拒まない。

 対して、実力が伴わず口だけの人が教えるグループの自主稽古はメンバーが固定していて閉ざされている。稽古内容も稚拙極まりなく、一言で”武術ごっこ”としか表現できないものだった。


 それにしても空気投げである。

 名前だけは尚志も耳にしたことがあった。

 ”柔道の神様”こと三船久蔵みふねきゅうぞうの必殺技。

 又の名を隅落すみおとし。

 尚志が昔読んだ武張った小説やマンガにもよく登場している。

 そんな伝説的な有名な技なら是が非でも習得したい、と尚志は思った。


「まずは相手に組む。組み方は柔道のやり方でも、両手で襟を掴んでも構わない。組んだら組んだ両手を同時に左回りに回転させる。車のハンドルを左に切る感じだぞ。当然相手は嫌がって倒されまいと元の体勢に戻ろうとする。その力をとらえたら今度はハンドルを右に切る。と同時に自分の右ひざを地面に着け腰を落とす。この一連の動作をよどみなく流れるように行うとアラ不思議! 空気投げがいとも簡単に出来てしまう」

 黒田は佐嶋を相手にして実際に投げながら教えた。

 これを見た限りではとても簡単そうであった。


 初めに列の先頭に佐嶋が立ち、弟子たちを空気投げで次々と投げていった。

 次は伊勢が同じように投げていく。

 この佐嶋と伊勢は実に鮮やかに絵に描いたように空気投げを決めた。 

 続く他の弟子たちも何とか格好だけはサマになっていた。

「最ッ高ゥ~」

「気分は三船十段だな」

 あちこちからそんな声が聞こえてきた。

 これまでのところは順調のようだ。


 最後に尚志の番になった。

 初めの相手は黒田である。

「どりゃあッ!」

 尚志は力任せに黒田の体を左右に揺すって投げ飛ばした。

 黒田はきれいに受け身を取ると、

「うん、なかなかいいぞ。合気は全然入っていないけどやわらとしてはアリだ。だがな、もっと肩の力を抜けばもっと楽に投げられるはずだぞ。次の佐嶋さんで試してみな。それだけの体格差がありゃ力なんていらねぇいらねぇ」

 と助言をした。


 次の佐嶋がものすごいスピードで尚志に向かってきた。

 助言通りに肩の力を抜くとスムーズに技がかかった。

 佐嶋の向かってきたスピードに尚志の体重が上手く乗っかって、佐嶋はギャグマンガのようにはるか遠くに投げ飛ばされた。


「ウオッ! マジか!? 次は俺の番だってのに」

 佐嶋の投げられっぷりを見て伊勢が言った。

「ワッハッハ! やはり体重があると威力が違うな。これから尚志に投げられる人に同情するよ。ワッハッハ!」

 黒田は当たり前のように豪快に笑っているが、この結果を一番信じられないのが尚志本人だった。

 <自分にはこんな力があったのか>

 ただ戸惑うばかりである。


 尚志は気を取り直すと続く伊勢や諸々の弟子たちを投げに投げた。

 鮮やかに力強く。

 投げられた者は例外なく悲鳴を上げていた。

 無我夢中で集中していたらいつの間にか全員を投げていた。


「どうだ、意外と簡単だろ。空気投げなんて」

 尚志の肩に手を置いて黒田がニコニコして言った。

「はい! というか黒田さんの教え方が素晴らしかったからです。感動しました。ありがとうございました」

 お世辞抜きで尚志は礼を述べた。

「ワッハッハ! そうかそうか。だがな、この空気投げの秘訣は誰にも言っちゃいけないよ。もちろん俺が教えたこともしゃべるな。たとえ親兄弟でもだ」

「もちろんです。親兄弟にも言いません。約束します」

 尚志は言った。


 ふと黒田は道場内の時計を見た。

 皆もつられて時計を見た。

 まだあと十五分ほどは練習する時間がある。


「よし、今日は勢いに乗ってこのまま巴投ともえなげも教えよう。いいか、まずは合気で相手の背骨を弓なりに反らせる。その際に相手のどこでもいいから掴んでおけ。そうしたら自分の右足底部を相手の右脚の股の付け根に当て一気に尻餅をつけばアラ不思議! 巴投げが出来てしまう。だがな、この合気風巴投げを俺がここで教えたことは誰にも言っちゃいけないよ。たとえ親兄弟でもだ」

 黒田はそう言ったが、本気なのか冗談なのかは尚志にはわからなかった。

 

 その後は巴投げの練習を皆で行い、充実した実のある自主稽古となった。

 尚志はこの夜のことを決して忘れまい、と誓った。


 後年、わけあって尚志は柔道を習うことになる。

 乱取りの相手は現役バリバリの柔道部員。

 黒田直伝の巴投げを柔道部のエースに仕掛けてみた。

 あとちょっとで投げ飛ばせそうなところまでいったが惜しくもかわされてしまった。

 周りは驚いていたが、相手の柔道部の人が一番驚いていた。

「危ねえ危ねえ。柔道は素人だと思ってたのに。一体どこで習ったんだ?」

 そう訊かれたので、

「悪いけど親兄弟にも言えないことになっているんだ」

 と、尚志は笑って答えた。

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