約束しよう?

如月月 月

約束しよう?

 ◆笠間秀司かさましゅうじ視点◆


「――シュウちゃん!」


 その声は、物心ついた時から傍にあった。


「――シュウちゃん、またあんな奴らに泣かされて! やり返さなきゃダメだよ!」


 彼女は、いつも僕を守ってくれた。


「――シュウちゃん、大丈夫だよ! ほら、はやくはやく!」


 彼女は、いつも僕を引っ張っていってくれた。


「――シュウちゃん……?」


 ……でも、やっぱり女の子だったから。


 今までずっと守ってもらっていた僕だけれど、男として好きな女の子を守らなければならないと――そう、決意したことがある。


「――っ!」


 ――いじめっ子の同級生に、僕の同い年の幼なじみ……安藤優希姫あんどうゆきひめ、姫ちゃんを守るために、立ち向かった。


 小学校の……いつだったか。忘れてしまったけれど、そんな風に決意した日が、確かにあった。


「――シュウちゃんはすぐ泣くのに! もうあんな危ないことしちゃダメ!」

「ひ、姫ちゃんだって……」

「私はいいの!」


 ……いつもの日々。引っ込み思案で臆病な僕と、そんな僕を引っ張る姫ちゃんとの、変わらない日々が変わったのは。――変えようと思い立ったのは、小学校の卒業式の日。


「ずっと、姫ちゃんのことが好きでした、今も好きです。僕と、恋人になってください……!」

「………ばか、言うの遅い。待ってたのに」


 勇気を振り絞った僕の告白に、感激の涙と共に照れ隠しをして、姫ちゃんは頷いてくれた。


 中学校に進学して、ずっと昔から好きだった女の子が恋人にもなってくれて……そんな幸せな生活は、一年も続かなかった。


 ――あの日のことは、よく覚えている。


 中学一年生の冬休み。新年を迎え、あともう数日で学校だ、と嫌な顔をしていた日のこと。


「――ッ、ぜッ、は……ッ、あ……!」

「!? 姫ちゃん!?」


 突然、姫ちゃんが倒れたのだ。


 荒い呼吸をして、身動きが取れないほど苦しそうに顔を歪め、心臓の辺りを抑えながら。


 ――救急車に乗せられて辿り着いた病院で聞かされたのは、原因不明の拡張型心筋症、という言葉。


 ……それから、姫ちゃんに残された時間のこと。


 余命はあともう数ヶ月。早ければ数日。そして……治療法はない。


 つまり――姫ちゃんは、あと少しで死んでしまうらしい。


「――え……?」


 それを聞いた時の僕は、なんとも間抜けな顔だっただろう。なにせ、つい昨日まで……いいや。つい先ほどまで元気だった恋人が、少ししか生きられないと言われたのだから。


 お医者さんに、恥も外聞も捨てて頼み込んだ。どうにかなる手立てはないのかと、どうにかしてほしいと。


 ――どうにもならないと納得するのに、何日もかかってしまった。


「……姫ちゃん……」

「シュウちゃん?」


 僕が悩む間、姫ちゃんは病室のベッドの上だった。彼女も余命のことは聞かされているらしく、姫ちゃんこそ取り乱すべきなのに。……残り少ない時間を恋人とすごさせてほしい、と、わがままを言う権利があるのに。


 自分のことで手一杯だった僕を責めることもせず、姫ちゃんは病室を訪れた僕を見て、自分を棚に上げて心配そうな顔になったのだ。


「もう、すごい顔してる。また泣き虫シュウちゃんになってるよ」

「…………」

「中学生になったから泣かないんじゃなかったの? やっぱり、シュウちゃんは私がいなきゃ――ぁ」


 いつも通りに明るくできるよう取り繕って、姫ちゃんはそう言ったけれど。途中で言ってはいけないことに触れたとばかりに、「しまった」と顔に出して黙り込んだ。


 ……そう。姫ちゃんは、あと少しの時間しか、僕と一緒にはいられないのだ。


「姫、ちゃん……」

「……シュウちゃん」


 ――なによりも。


 泣き腫らした目をする僕を励まそうと、元気を装う姫ちゃんの目元こそ――痛々しいまでに、腫れていたのだから。


「シュウちゃん……わたし、まだっ、死にたくない……! シュウちゃんと一緒にいたい……! やりたいこと、いっぱいあるのにっ……なんで、なんで私が、こんな……!」

「……姫ちゃん……」


 姫ちゃんの目がみるみる潤んで、いてもたってもいられなくなった僕は彼女に駆け寄って、抱きしめ合って。


 ――そのあとしばらく、二人揃って泣いた。


「……胸、くるしい……」


 姫ちゃんは僕の腕の中に抱かれ、僕の服を涙で濡らしながらポツリと口にした。


 拡張型心筋症はそういった症状が出ると、お医者さんが言っていたのを思い出す。ナースコールを押そうかと迷ったが、姫ちゃんの雰囲気から、なんとなくそれはやめた方がいいと思った。


「私の病気、胸が苦しくなるって……この、苦しさも、病気のせい……なのかな?」


 消え入りそうな姫ちゃんの声。僕は彼女が言いたいことを理解して、自分はなにを言えばいいのかを必死に考える。


 ――出た言葉は、口から出任せで根拠も裏付けもない、すぐに嘘だと見抜けるような、酷いものだった。


「……姫ちゃんの胸が苦しいのは、きっと〝モヤモヤ〟してるからだよ」

「……モヤモヤ……?」


 案の定、姫ちゃんはよくわかっていない顔で僕の目を見上げてきた。少し挫けそうになったけれど、本題はここからなのだ。


 姫ちゃんを元気づけたい――その一心で、僕はその言葉を紡いだ。


「だから、モヤモヤを吹き飛ばそう」

「……どう、やって?」

「とびっきり嬉しいことを考えようよ」

「たとえば……?」


 期待をほんの少しだけ宿した、けれども不安に揺れる瞳が、僕の顔を写していた。僕の顔も同じくらい不安塗れで、頼りないことこの上なかったけれど……それでも、姫ちゃんに言いたいことがあるのだ。


 それは――


「――姫ちゃん、結婚しよう?」

「……へ? 結婚?」

「そう、結婚」


 姫ちゃんの心を占める不安。それを吹き飛ばす、とびきりの嬉しいこと……それは、恋人である僕との、生涯の誓い。


 こうして抱きついて、縋りついてくれるほど、僕のことが好きなのだろうから。姫ちゃんはきっと喜んでくれると思って、こう言ったんだけれど……。


「けっこん……」


 ……反応が悪い。


「……えっと、その」

「結婚、まだできないよ……?」

「そ、そうだけど」


 姫ちゃんが首を傾げながら言ってきた。僕は言い返せない。


 お互い、中学一年生の子供だ。当然のごとく入籍なんてできない。それは僕もわかっている。


 そうではなく、気持ちの問題なのだ。


「……姫ちゃんのこと、僕、ずっとずっと昔から好きだったんだ」

「えっ、うん……」


 こう思った理由を初めから説明しようと思い、僕は語り始める。相槌をうつ姫ちゃんの顔が赤くなったのは、僕の言葉に照れたからか。


「姫ちゃんと出会った頃からだから、もう……十年くらいになるよね」

「そ、そうだね……」

「それだけの時間、ずっと姫ちゃんのことが好きだった。――だから、これからも。僕が大人になっても、ずっと変わらないと思う」

「え……」


 姫ちゃんの赤面具合が酷くなった。


 そういえばこんな風に愚直に愛を囁くなんてことはしたことがなかったと、だから姫ちゃんはこんなにウブなのかと、今更頭の片隅で考える。


 ――ギュッと、姫ちゃんの背中に回した腕に力を込めて。


 僕はそっと、仕上げの言葉を。


「そういうことだから……今、結婚したい。姫ちゃんと結婚できるのは、今しかないから」

「ぁ……」


 姫ちゃんは、赤面していた頬から一気に赤色を失くし、目を見開いて驚きを表した。僕は静かに、彼女が受けた衝撃を消化するのを待つ。


 ――誓うのは、姫ちゃんと僕の結婚。法的なものも、書類もない口約束だけれど、一生涯違えることのない誓いだ。


 今まで、姫ちゃんと出会ってからずっと、姫ちゃんのことが好きだった。今も好きで、それはこれからもきっと変わらない。


 そのことのなによりの証明として、今ここで生涯の伴侶としての誓いをしたいのだ。


「……しゅ、シュウちゃ――」


 ――姫ちゃんが、なにかを言おうとして口を開いた。


 それを遮って、「慌てなくてもいいんだよ」と言うつもりで、僕は優しい口調で言った。


「どう? モヤモヤ、吹き飛んだ?」

「あ……」


 そう、言わばこういうことだ。


 ――君のことが好きだと示すことこそが、姫ちゃんの不安を吹き飛ばすなによりの手段だろうから。


「……吹き飛んだ」

「うん」

「……吹き飛んだ、よ……」

「うん……」

「シュウちゃん……!」


 再び僕にしがみつきながら泣き声をあげる姫ちゃんは、溢れ出る喜びと不安を発散するように、何度も首を縦に振った。


 ◇


 ――激しい運動は厳禁。病院の敷地から出るのもダメ。少しでも辛くなったらすぐに戻ってくること。


 そんな条件を飲み、姫ちゃんは病室の外に出かけられることになった。


「シュウちゃんとこんなに一緒にいられるのって久しぶり! 今すっごい幸せ!」


 姫ちゃんは、病院の敷地から見える海を眺めながら、とびきりの笑顔でそう言った。


 昔も昔、小学校の低学年だったりすれば僕も姫ちゃんも時間が作りやすかったけれど。中学生にもなると、部活に勉強にと忙しい。


 こうして姫ちゃんと、冬休み中とはいえ一日中一緒にいるのは……彼女の言葉通り、確かに久しぶりだ。


「うん、僕も幸せ。大好きなお嫁さんと一緒にいられるんだもん」


 ――だから、僕は嘘をついた。


 「今が幸せ」なんていう、下手な嘘を。


「お嫁さんって……もう」


 照れたように笑う姫ちゃん。そんな彼女の「幸せ」という台詞だって、きっと嘘だ。


 ……僕と一緒にいられることが幸せだと言うのなら、これから先もずっと一緒にいたいと思うはずなのだから。


 来るはずのない、僕らの明日……それを望む心に、二人揃って嘘をついた。


 ――冬休みが終わっても、顧問の先生に無理を言って部活動を欠席し続け、姫ちゃんの下に通う。


 ここ最近の姫ちゃんは、幸せだと笑う顔に明らかな無理が見え始めていて。あんなに病室の外へ出かけることを楽しみにしていたのに、ベッドに横たわっていることが多くなって。


 そんな変化を気にも留めず、僕はその日も姫ちゃんの病室にやってきていた。


 ――その日の姫ちゃんは、なんだか雰囲気がおかしかった。


 吹けば消えそうな、触れれば折れそうな……そんな、儚い雰囲気をまとっていた。


「あ、シュウちゃん」

「姫ちゃん。今日も来たよ」

「うん、ありがと」


 ニコリと微笑む姫ちゃんの表情が、酷く危うげなものに見えたから。


 僕は、いてもたってもいられなくなる。


「……姫ちゃん? どうしたの?」

「…………」


 姫ちゃんは黙り込む。どうしようもなく不安になるその態度。僕がベッドに近づくと、姫ちゃんはポツポツと話し始めた。


「……シュウちゃんは、私がいなくても、元気でいられる……のかな」

「――――」


 僕は答えられない。姫ちゃんは初めから返答を求めていないのか、その独白を続ける。


「……前みたいな笑顔で、いられるのかな。泣き虫シュウちゃんに、戻ったりしないかな。私が、いなくても……」


 姫ちゃんが言葉を途切れさせ、言いかけた言葉を飲み込むように歯を食いしばった。……そこでようやく、姫ちゃんの瞳が僕を捉える。


 姫ちゃんの瞳は、涙で濡れていた。


「私も、シュウちゃんが好きだよ……ずっとずっと、私だって、好きだったんだよ……!」

「姫ちゃん……」

「今も、これからもっ……死ぬ、まで……! ずっと好きだもん……!」

「姫ちゃん……!」


 姫ちゃんが両手で顔を覆う。そんな彼女を包み込むように、僕は姫ちゃんを抱きしめた。


「やだ、やだよ……! シュウちゃんの隣に、もっといたい……!」

「……うん、僕も……僕も、もっと傍に、いてほしい……」

「うっ……うあ、ああぁぁ……!」


 ――病室で、初めてすごした日のように。


 またしばらく、二人揃って泣いた。


「……シュウ、ちゃん」

「っ、なに?」


 もうこれ以上、涙は出せない。身体がそう主張するかのように、泣きたい気分だけを残して涙が枯れて。


 二人分の鼻をすする音だけが響く病室で、姫ちゃんが消え入りそうな声で言った。


 彼女が思った、最期の願いを。


「……約束、しよう……?」

「約束……?」

「うん……」


 ――それから先の僕が、生涯抱え続けることになる、命よりも大切な約束を。


「ぜったい……ぜったい、また会いに、来るから……」

「っ……うん」

「……生まれ、変わったら……今度もまた、お嫁さんにしてね……?」


 そんなことは不可能だ、と。


 冷静な自分が、姫ちゃんの言葉を即座に切り捨てたけれど。


 「そんなに悲観しないで」、なんて、言いたいことも浮かんできたけれど。


 ――僕には、そんなことよりもまず、言わなくてはならない言葉があった。


「……うん、もちろん。姫ちゃんは、生まれ変わっても……僕の、お嫁さんだから」

「……あり、がと……」


 姫ちゃんは、泣きそうな顔でお礼を言って……それから、消え入りそうな声で、「……ごめんね」とも言ったのだった。


 ――その日は、面会時間のギリギリまで病室に居座った。


「あ……シュウちゃん、もう帰らないと」

「……姫ちゃん」

「だめ。もう5時だから」


 ワガママを言おうとする僕を、姫ちゃんは窘める。そんな彼女の手だって、言葉とは裏腹に「行かないで」と主張するように僕の服を掴んでいたけれど……その手も、やがて離れていった。


「……じゃあ、また明日、来るから」

「うん。……さよなら、シュウちゃん」


 別れ際に、そんな言葉を交わした。


 ――それが、最期の会話だった。


 翌朝。姫ちゃんが眠っている間に息を引き取ったという報せが、病院からきたのだ。






 ◆安藤優希姫視点◆


 ――そろそろ、限界が近い。


 理屈もなく、そう直感した。それはたぶん、生物としての本能だとかがそうさせるのだろう。ここ最近は妙に身体がだるい気もして、楽しみだったお出かけもご無沙汰だ。


「あ、シュウちゃん」

「姫ちゃん。今日も来たよ」


 ……今日が最後だな、なんて。


「うん、ありがと」


 その日も病室へやってきてくれたシュウちゃんの顔を見て、私はそう思ったのだ。


「……姫ちゃん? どうしたの?」

「…………」


 それを、シュウちゃんも悟ったのだろうか。


 心配そうに彼が私に尋ねてきて、そんな声を聞いたせいで、今まで感情を堰き止めていた心の壁にヒビが入るのがわかった。


 ……観念して、言ってしまおうかと思った。私が、病気になってからずっと抱え続けてきた、この思いを。


 それがシュウちゃんの心をも抉るのだと知りながら、耐えきれなかったから。


「……シュウちゃんは――」


 ……一人で抱えるには、重すぎる感情だったから。


「――私がいなくても、元気でいられる……のかな」


 ポツポツと、私は独白する。


「……前みたいな笑顔で、いられるのかな」


 今のような無理をした笑顔ではない、私が病気になる前の、彼本来の可愛らしい笑顔。


 そんな、私が大好きな彼の笑顔は、枯れたりしないだろうか。


「……泣き虫シュウちゃんに、戻ったりしないかな」


 私がいなくてはなにもできなかった、小さい頃のシュウちゃん。あの頃は私の言うことをなんでも聞いて、私の後ろをついてくる可愛い弟分だと思っていた。


 あれはあれでよかったけど、今のように頼り甲斐のあるシュウちゃんも好きだから。そんな彼のまま、シュウちゃんはこの先生き続けられるのだろうか。


「……私が、いなくても――」


 ――私ではない、もっとずっと素敵な女の子と恋をして、私のことを忘れて幸せになってくれるだろうか。


「――ッ」


 ……歯を食いしばる。頭では、シュウちゃんは私以外の女の子と幸せになってほしいと願っているのに、感情の部分が納得をしてくれない。


 その願いを口にしてしまえば現実になってしまう気もして、私は口を閉ざした。


 代わりに溢れた想いを――シュウちゃんが、初めに言ってくれたあの言葉を。シュウちゃんがそんな風に思っていてくれたと知って、どうにかなってしまいそうなほど嬉しかった言葉を。


 私からも、返していく。


「――私も、シュウちゃんが好きだったよ……ずっとずっと、私だって、好きだったんだよ……!」

「姫ちゃん……」

「今も、これからもっ……死ぬ、まで……! ずっと好きだもん……!」

「姫ちゃん……!」


 自分の弱さが嫌になって、溢れ出る感情に押し潰されそうで、私は顔を覆うのに。


 そんな醜い私を、シュウちゃんは抱きしめてくれた。


「やだ、やだよ……! シュウちゃんの隣に、もっといたい……!」


 命より大事だと言いきれる願いが、これだった。


 ――シュウちゃんの隣にいたい。シュウちゃんともっと一緒にいたい。シュウちゃんが誰かのものになるのは嫌だけど、自分のせいで彼が不幸になるのも堪らない。


 八方塞がりでどうにもならない、叶えられることなんて絶対にない、一生のお願い。


 ……それは、ただの子供のワガママのようにしか、思えなかった。


「……うん、僕も……僕も、もっと傍に、いてほしい……」

「うっ……うあ、ああぁぁ……!」


 シュウちゃんもそう思っているのだと聞かされて、それが嬉しくて……けれど同時に、こうしている今こそがなによりも残酷なことだと思い知らされて、私は泣き声をあげた。


 シュウちゃんにこんなことを言っても、彼だってどうにもできない。どうにもできないのだから、再認識させたって悲しみしか生まない。


 それをわかっていながら、思いの丈をぶつけることを我慢できなかった自分が情けなくて。そんなことをしてしまう声なんて、いっそ枯れてしまえ、なんて。


 ヤケクソ気味に泣き喚いて……そんな状態で、少し時間がすぎた。


 ――ああ。


 シュウちゃんが……笠間秀司という男の子が好きだ。


 シュウちゃんだけじゃない。シュウちゃんのいる世界も、シュウちゃんと共にいる時間も、シュウちゃんがいてくれた過去も――全部が全部大好きだ。


 反対に、憎たらしいものもある。


 シュウちゃんに己の弱さをぶつけてしまった自分。願いを叶えられない身体。こんな運命を私に決定づけた何者か。或いは――シュウちゃんだけが残ってしまう、未来でさえも。


 私は、恨んだ。


 シュウちゃんの全てが好きだった。同時に、シュウちゃんの見る未来が憎らしかった。


 そんな愛の証明と、恨みの報復として。


 ――私は、シュウちゃんに呪いを残す。


「……シュウ、ちゃん」

「っ、なに?」


 とても。


 ……とても、残酷なことをする。


 シュウちゃんが、ともすれば一生引きずるかもしれないくらい、重たい言葉を。


 今から私は、この口から放つ。


「……約束、しよう……?」

「約束……?」

「うん……」


 一つ、深呼吸を挟む。


「ぜったい……」


 意を決して、身を切る思いで。


 血反吐さえ、吐いてしまえるかもしれない。


 それくらい激しく、言いたくない理性と告げてしまいたい感情が、私の胸の内でぶつかり合う。


「……ぜったい、また会いに、来るから……」

「っ……うん」

「……生まれ、変わったら……今度もまた、お嫁さんにしてね……?」


 ――そんなことは不可能だ。


 前世の記憶を持ったまま新しい人生を始めることなんて、できた人間はいないだろう。


 たとえ前例があったとしても、今からこの身に起こる確証なんてない。それなのに「約束」などと、どの口で言うのか。


 死を以て果たせない約束をするのは、それによって誰かの人生を縛るのは……なにより、そのことをわかっていながら、自らが傷つくのも厭わずそれを言うのは。


 ――正しく、呪いだ。


 約束なんかじゃ、絶対にない。


「……うん、もちろん」


 しかし。


「姫ちゃんは、生まれ変わっても……僕のお嫁さんだから」


 シュウちゃんは、そう言ってくれた。


 言って、くれたのだ。


「……あり、がと……」


 ……やってしまった。


 ああ、やってしまった。


 私が、シュウちゃんを傷つけた。


「………ごめんね……」


 シュウちゃんの胸に顔を埋めながら、消え入りそうな声で彼へと謝る。


 君の心を傷つけてごめんなさい。君の人生を縛ってしまってごめんなさい。どうか――


 ――どうか、私を忘れて、君だけは幸せに生きてください。


「……ぐすっ」


 ……でも、そこに私がいないのが、


 嫌で嫌で、堪らない……。


 ――気がついたら、面会時間が終わる頃になっていた。


 その頃になれば、もう思い残すことはなにもないと言わんばかりに。涙と共に気力まで抜けてしまったかのように、私は穏やかな声色になっていた。


「あ……シュウちゃん、もう帰らないと」

「……姫ちゃん」

「だめ。もう5時だから」


 私の名を呼ぶだけのシュウちゃんの言葉から、彼の思惑がわかってしまった。素直すぎる彼に苦笑して、私はシュウちゃんを窘める。


 ……言うことを聞かない自らの手を、全神経を懸けてシュウちゃんの服から引き剥がす。


 言うべきことは、もう全て言った。これ以上引き留めてしまえば、きっと駄々をこねるだけになってしまう。


 ここが、引き際なのだ。……間違えては、いけないのだ。


「……じゃあ、また明日、来るから」


 シュウちゃんが、立ち上がる。


 ――追いかけようと、縋りつこうとする衝動を、渾身の理性で押さえつける。


「うん」


 ……これが、最後だ。


 私が見られる、最後のシュウちゃんだ。


 ――君がいる世界で笑えたことが、私はとっても幸せだった。


 君だけが残って、私がいない未来が、とっても憎らしいよ。


 シュウちゃんも、シュウちゃんのいる世界も、シュウちゃんと共にいる時間も、シュウちゃんがいてくれた過去も――全部が、愛おしいよ。


 ――なにがいいのか、ずっと考えてきた。私の、シュウちゃんに向けた、今生最期の言葉。


 遺言なんて残さなかったけれど、一番最後に彼に対して遺す言葉にだけは、こだわりたかった。


 ……うん。そうだな。


 ――君の全部、君のいる世界、君と在れた時間、君と在れた過去に……


「……さよなら、シュウちゃん」


 ……お別れを告げよう。


 ――その日眠りにつく時は、不思議と怖くはなかった。


 シュウちゃんへの心残りと、彼への想いと、申し訳なさが積もっていたから。たぶん、死への恐怖なんてものが入り込む余地がなかったのだろう。


 寝たら死ぬ。次に目が覚めることはない。


 本能的にそれを理解していたけれど、私はそのまま眠りについた。


 次に、目を開けた時は――






 ◆笠間秀司視点◆


 ――高校卒業と共に、地元から電車で何時間と離れた場所の大学に進学して。


 そのままその近辺の企業に務めたのは……まあ、〝あの子〟のことを思い出したくないからだろう。


 地元にいると、思い出すのだ。


 〝あの子〟が元気だった頃。まだ付き合っていなかった時代や、告白した時の泣き笑いの表情。付き合ってから見られるようになった照れ顔や、スキンシップをねだってくるいたずらっぽい顔……。


 ……そして、〝あの子〟が病気になり、そして死ぬまでの数週間の、無理をして取り繕った笑顔やクシャクシャに歪んだ泣き顔。


 ――大学卒業後に就職し、それからの四年間で一度も地元へ帰省しなかったのも、同じ理由だ。


 しかし、いい加減顔が見たいからとしつこく言いまくる親に根負けし、覚悟を決めて……年末年始の長期休暇を使って、俺は実家に帰ってきていた。


「……懐かしいな」


 ポツリと呟く。実家はまだ、〝あの子〟が亡くなってからすごした日々の印象が強く、〝あの子〟についてなにかを思い出すこともない。


 ならばと思って帰省したのだが、それは正解だったようだ。


「……インターホン、か……?」


 と、俺は玄関先で変なことに思い悩む。実家の合鍵は大学進学の際に向こうへ持って行っていたのだが、生憎使わない生活が長すぎたせいで見事に紛失した。


 故に実家の鍵は、中から開けてもらうか、今現在鍵が開いていることを期待するかの二択。その前者としてインターホンを選択しようとしたが、自分の実家でインターホンを鳴らすというのも間抜けな話である。


 さてどうするか……、なんてどうでもいいことに思考をめぐらせていたのは、俺に降りかかった小さな奇跡だったのだろう。


「……シュウ、ちゃん?」

「――ッ!?」


 背後から。実家の玄関扉の前に立つ俺から見て、塀の向こう側から声が聞こえた。


 忘れもしない。


 その呼び方は、そしてその声は、紛れもなく〝あの子〟のものだ。


「――姫ちゃんっ?」


 俺は振り返る。


 そこにいたのは、在りし日の〝あの子〟――安藤優希姫という少女に、瓜二つの少女だった。


「っ! そうっ、そうだよ! わたし! やっぱりシュウちゃんだっ!!」


 一気に声量とテンションを上げ、喜色満点の態度で喜びを露わにする少女。


 「そうだよ、わたし」……。


 「やっぱりシュウちゃんだ」……?


 ……ということは、この少女は……本当の本当に、姫ちゃんなのか……?


 ――ガチャッ!


 俺の思考を遮ったのは、眼前の少女が家の門を開けて敷地の中に入ってきた音であり。


「――シュウちゃんっ! 会いたかったよ!!」


 少女が俺に、飛びかかるようにして勢いよく抱きついてきたことであった。

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