第3話

 土曜日は朝から快晴だった。

 マナが井上宅前に着くと、すでに夫妻は玄関先に立っていた。普段と変わらない様子の二人だが、彼らの足元には一匹の柴犬がいた。この巡回はただの散歩を装うが、いくら手ぶらとはいえ、大の大人が三人も並んで団地内を歩くのは人の目を引く嫌いがある。犬が一匹でも加わればそんな不自然さが緩和されるだろう、という芳美の案により、秀平が教授仲間からこの柴犬を借りてきた次第なのだ。

 簡単な挨拶を済ませたあと、「お二人を巻き込んでしまって本当に申し訳ありませんでした」とマナは謝罪した。

「八神さん、そういうのやめてほしいな。ぼくたちは仲間だろう」秀平は照れくさそうに頭をかいた。「それにこの近所の安全のためでもあるんだ。一連の不穏な出来事が超常現象としか思えない今の段階では、警察に相談しても相手にされないだろうからね。まずは、得体の知れない何かの正体を突き止めること。それが大事なんだよ」

「はいはい、それはマナさんもわたしも重々承知しているわよ」

 肩をすくめて言った芳美が、その場にしゃがんで柴犬の首を撫でた。秀平にリードを担われている柴犬が、心地よさそうに芳美の顔を見上げる。とはいえ、柴犬はときおり隣の空き地を気にしていた。少なくとも今のマナには焦げ臭さなど感じられないが、犬の嗅覚は人間の百万倍以上とも言われているのだ。この柴犬はすでになんらかの異臭を感じ取っているのかもしれない。

「かわいいわんちゃんですね」芳美の横にしゃがんだマナは、柴犬の顔に自分の顔を近づけた。「名前はなんていうんですか?」

 マナの言葉の意味など知る由もないないだろうが、柴犬は鼻先をマナの顔に向けた。

「ロンというんだ」秀平が答えた。「四歳の雄だよ」

「よく貸してもらえましたね」

 マナが見上げると、秀平ははにかんだ。

「犬を飼うかどうか検討中なんだけど、どんな感じなのか知りたいから二日だけ貸してくれないか……って頼んだんだ。でもね、検討中なのは事実だよ。ぼくも芳美も、以前から犬がほしかったし」

「でもお金がかかるわよねえ」芳美は立ち上がった。「酒代を少し節約すれば、なんとかなるかもしれないけど」

「おいおい、それは勘弁してくれよ」

 苦笑した秀平が、そっと肩をすくめた。


 土曜日の早朝、午前六時を過ぎたばかりの新王子団地は、この三人以外に人通りがなかった。とはいえ、家の中から見られている可能性はある。犬の散歩を偽装したのは賢明だろう。三人の大人がのんびり歩くための口実にしたいのだから、ウォーキングやランニングでは意味がないのだ。

 歩き出した時点では、柴犬のロンを先頭に、リードを持つ秀平がその後ろにつき、さらにその右後ろにマナ、マナの左に芳美がついた。もっとも、先行しようとするロンのペースを抑えるため、秀平がリードを短めに持ったことにより、ロンは秀平の横に並ぶ、という隊列へと変わってしまう。

「先頭につきたがるロンにとって、わたしたちは下位の存在なのね」

 ロンの尾を見下ろしながら芳美は苦笑した。

「そりゃあ、ぼくたちの飼い犬じゃないからね。もっとも、ロンが自分の本当の主人と散歩に行く様子はどうなのか、それはわからないけど」

 秀平は背中で返した。

 一方のロンは、歩き出す前はしきりに隣の空き地を気にしていたにもかかわらず、井上宅を離れてからは徐々に落ち着きを取り戻した。

 そんなロンと並んで歩く秀平は、周囲の様子をつぶさに窺っていた。マナと芳美も前後左右に目を走らせる。

 一行はペースを抑えつつ、南北に走る市道を渡って東地区へと移り、新王子団地の外周ルートに乗った。時計回りである。西地区と東地区を合わせて百戸余りを擁するこの団地は、外周を一回りするのに三十分ほどかかるという。団地内を東西南北に走る何本もの道をつぶさに調べるには、三時間は必要となるだろう。

「八神さんは、その何か……アスファルトの隆起をなんだと思う?」

 正面を向いたまま秀平が問うた。

 不意打ちだったが、マナは自分の考え――というより、自分が思う現実的な見解を口にする。

「幻覚か錯覚だと思います」

 秀平にも自分の見た多田の幻覚は伝えてあるが、幻覚を体験したマナだからこそ、迷わずに出せた答えだった。

「でも、八神さんはあれを二度も目にしたんでしょう?」腑に落ちない表情を、芳美はマナに向けた。「夜に隣の空き地で動いていたかもしれない、っていうのも含めると三回かもしれないけど」

「はい。夜のも含めて、誰かが意図的に見せた幻覚なのかな、と」

「幻覚を……意図的に?」

 正面に向き直った芳美は、首を傾げた。

「実はぼくも同じ考えだったんだ」秀平がわずかに顔を振り向けた。「幻覚を見せるような薬物を散布したとか、なんらかの仕掛けを用いて目の錯覚を起こさせたとか」

 ならば、多田の姿を幻視したことも関連づけられるかもしれない。だがそれは、井上夫婦にこと細かく伝えてあるものの、改めて自分の深層心理を俎上に載せることにも繫がるため、気が引けた。

「軽トラックがそれに乗り上げて横転したのよ」

 言って芳美は、横目でマナを見た。

「確かに、あの事故の直前にアスファルトの隆起を見ました」

 マナが答えると、秀平は頷いた。

「それも何者かの仕業、という可能性はあるさ」

「なんのためにそんなことをするの?」

 突っ込みとも受け取れる質問を投げたのは芳美だった。

「自分の犯罪を隠蔽するため……いや、その犯罪から世間の目を逸らすため、だろうな」

 そう答え、秀平は正面を向いた。

「犯罪……って?」

 芳美は声のボリュームを絞った。尋ねるまでもなかったかのような表情だ。

「多田さんの奥さんと娘さん、それから富永七海ちゃん、三人とも未だに行方知れずだ」

 その答えはマナも予測していた。だからこそ、あえて口にする。

「三人を連れ去った何者かが、アスファルトのお化けを見せて、それがあたかも猫やカラスを食べたかのように見せて、そのお化けがもしかすると三人をも食べてしまったかもしれない、と人々に思わせるように細工した」

「そういうことだよ」秀平は言った。「でもね、三人は連れ去られたんじゃないかもしれないよ。連れ去られただけなら、まだいいほうだ。無事でいるところが見つかれば、連れ戻すことだってできる」

 最悪の事態も想定できるということだ。マナでさえ、それは念頭にあった。

「まさか……それじゃ、食べられちゃったのと変わらないじゃない」

 芳美が首を横に振った。

「まあそれは、今のぼくたちが考えることじゃないね。問題は、その隆起がなんであるか、だよ。アスファルトや土だけじゃなく、建物の外壁にも現れたようだけど、人為的に作られた幻覚とか錯覚なら警察にも通報しやすい、ということになるからね」

 秀平のその見識に芳美は「人為的なものじゃなかったら?」と意見した。

「超常現象みたいなものだったら、ということかい?」

「そうよ。本物のお化けだったとしたら」芳美はマナを一顧し、続ける。「多田さんの幽霊とか」

 停留所の向かいに立っていた多田の姿が、マナの脳裏に浮かんだ。それを振り払い、マナは秀平の言葉に耳を傾ける。

「ぼく自身、それを信じることは難しいし、ぼくたち以外の人たちにそれを信じてもらうのもほぼ不可能だ。言うまでもないけど、警察だってそうさ。そのうえで、仮にだけど、本物のお化けとか、多田さんの幽霊だったとしたら、ぼくたちだけでどうにかするしかないだろう」

「超常現象を信じていないあなただから、そう言えるんだわ」

「芳美は超常現象肯定派だったっけ?」

 意外である、といった口調で、秀平は背中で問うた。

「そうじゃないけど……」

 言いさした芳美は、マナに顔を向けた。意見を求めている表情だ。

「わたしも芳美さんと同じ懸念があります」マナは躊躇することなく口を開いた。「本物のお化けだとしたら、って芳美さんが口にしましたけど、お化けだったら、というか、警察に任せられない事態だったら、わたしたちだけでどうにかできるのかな……って」

「そう、それよ。お化けとか幽霊なんて、わたしたちにどうにかできる相手じゃないでしょう」

「お化け、ってねえ」表情は窺えないが、秀平は苦笑しているに違いない。「これが人為的なものでなかったとすれば、物理的、科学的に証明できる現象であるはずだよ。お化けの正体なんてそんなものさ。そうだとすれば、ぼくたちだけで解明できる可能性はある」

「七海ちゃんの件は? カラスがアスファルトに食べられちゃったとかは?」

 すかさず芳美が切り返した。

「不可解な現象が犯罪がらみでなかったとすれば、七海ちゃんの失踪も犯罪がらみでない可能性が出てくる。なんらかの事故だった、とかさ。カラスの件は、まあ見間違いかでっち上げだな」

 秀平は淡々とした調子だが、マナには解せないことがあった。

「多田さん一家の件も無関係なんでしょうか?」

 マナが問うと、秀平はぴたりと足を止めた。先行しようとしたロンが、リードを突っ張らせてやはり立ち止まる。マナと芳美も立ち止まった。

「そうだな」秀平は振り向いた。「多田さんの家の火事以来……というか、奥さんと娘さんが姿を見せなくなってから、なんだか不穏なことが起きている気もする。だからこそ、八神さんと芳美は、いろんな不可解な出来事を関連づけてしまうのかもしれないね」

「状況に惑わされている、ということですか?」

 さらに問われて、秀平は頷く。

「うん。今回の調査もそうだけど、一つ一つの事象を切り分けて考える必要はあるんじゃないかな。まあ、関連づけるべき事柄もあるだろうけど」

「ちょっと待って」不意に声を上げたのは芳美だった。「不穏なことの起き始めは、神津山大学付属図書館から『死霊秘法断章』が盗まれた事件じゃないの?」

 その疑問の持つ意味がよほど重かったのか、秀平は言葉を失ったようだ。じっと芳美を見つめている。

 一方の芳美は、答えを待っているらしく、たたみかけることはなかった。

 張り詰めた空気に気圧され、マナも口を挟むことができない。

 柴犬のロンに至っては、早く歩けと言わんばかりに、尾を振りつつ三人を見上げている。

「あら、こんな朝早くから、みんなでお散歩?」

 突然の声にマナが振り向くと、岸本夫人が立っていた。

「え、ええ。こんにちは」

 どうにか笑みを浮かべた芳美が、ロンを見下ろした。犬の散歩であることを訴えようとしているのだろう。動揺して言葉を紡げない、という様子が窺える。

「まあ、かわいいわんちゃんね」

 ようやくロンに気づいたらしく、岸本夫人が満面に笑みを浮かべた。

「知り合いから二日だけ預かったんです」

 秀平が取り繕った。

 井上夫婦のぎこちなさが、マナの不安を増長させた。


 岸本夫人と別れた一行は、再び歩き始めたにもかかわらず寡黙だった。

 新王子団地の外周を四分の三ほどは回っただろうか――西地区へと戻り、家並みと西の雑木林とに挟まれた道を北に向かっていると、突如としてロンが歩みを止め、同時に吠え立てた。

 前進を阻まれた秀平が、ロンを見下ろす。

「おいロン、どうした?」

 かりそめの主人のそんな言葉を無視して、ロンは西の雑木林に向かって吠え続けている。

「野良猫でもいるのかしら」

 芳美が不安げなまなざしを雑木林に向けた。

「そんなところだろう」秀平は言った。「そういや、この林の中に小さな神社があるんだったな」

「あ、思い出したわ。ずっと前に岸本さんの奥さんが言っていたわね」

 得心した様子の芳美だが、雑木林に向ける不安げなまなざしはそのままだ。

 マナは首を傾げてしまう。

「東には八幡神社がありますけど、そっちとは関係ないんですか?」

「うん、八幡神社とは関係ないね」秀平が答えた。「ぼくは見たわけじゃないけど、稲荷神社らしい」

「社も鳥居も小さい、って聞いたわ。そのうえ、半ば朽ちているんだとか」

 添えられた芳美の言葉を耳にして、マナは思わず眉を寄せた。

「なんというか、あまり人が訪れなさそうなイメージですね。でもまさか、行方をくらした三人がそこに……」

 思いついたままにマナが口にすると、秀平は首を横に振り、そして雑木林に目を向けた。

「間違いなく、警察はその稲荷神社も捜索したはずだよ」

「でも、ロンは何かを感じているみたいよ」

 そう反駁した芳美は、しゃがんでロンの首を撫で回した。それで落ち着いたのか、ロンは吠えるのをやめてしまう。

「とりあえず覗いてみるか」

 秀平は渋々と提案した。

 無論、芳美は賛同の色を呈している。

 気乗りはしないが、マナも受け入れるしかなかった。

 雑木林の中を西へと向かう小道は、ロンが吠え立てた場所からやや北に進んだ辺りに接していた。秀平とロンを先頭に、一行は元の隊列でその道に歩を進めた。

 やはり人が足を踏み入れることは希なのか、雑草が伸び放題であり、道筋はどうにか判別できる程度だ。歩行は困難を強いられたが、それでも一分ほど歩くと、雑木林の中のわずかに空が開けた場所へと一行はたどり着いた。

 鼻をつくのは、カビのにおいだ。周囲を木立に囲まれているが、道らしき奥行きが西と北にあった。北の暗がりの中で目立つ朱色の人工物は、紛れもなく木製の鳥居である。

「あの鳥居の先か」と秀平がつぶやいた次の瞬間、ロンが三メートルほどの高さの鳥居に向かって低く身構え、歯を剝いてうなり始めた。

「やっぱり何かあるのよ」

 余裕などないのだろう。この状況にふさわしいくらいに芳美の声は怯えきっていた。

 何かある、ではなく、何かいる、ではないのか――訂正したかったが、マナにもそんな余裕はない。

 秀平は芳美を見て言う。

「ロンのリード、持っていてくれ。ぼくが一人で見てくる」

「だめよ。わたしも行くわ」芳美は拒み、マナに顔を向けた。「八神さん、ロンと一緒にここで待っていて」

 だが、マナだけが遠巻きに見ているわけにはいかない。

「わたしも行きます。みんなで行きましょうよ」

 井上夫婦は反論せず、結局、元の隊列で再び歩き出した。

 鳥居をくぐると同時に頭上の空が見えなくなった。

 カビのにおいが増す。見れば、鳥居の至るところに白い綿状のものがはびこっていた。

 雑草を踏み締めながら十メートルほど進むと、小さな建造物が立ち塞がっていた。道はここで終わりらしい。

 高さは二メートル、幅と奥行きはともに一メートルほどの木製の祠だった。屋根は瓦葺きであり、石の土台に載っている。格子状の観音開きの扉は左右ともに開いた状態だが、外れかかっているのか、向かって右のみが斜めに傾いていた。鳥居と同様、この祠もカビだらけだ。

「岸本さんは稲荷神社って言っていたけど、本当なのかな?」祠の中を覗いた秀平が、首を捻った。「ご神体なんて見当たらないけど」

「そんなことは問題じゃないでしょう。ロンが何に反応しているのか、事件の手がかりがあるのかどうか、問題はそれでしょうよ」

 芳美が言い募ると、その気持ちを察したかのごとく、おとなしくしていたロンが再びうなり始めた。しかし、ロンが鼻面を向けているのは祠ではなく、その手前の地面だった。

 腰ほどの高さの雑草が揺れた。雑草自体が揺れているのではない。雑草が根を下ろしている地面が、二メートル四方ほどの範囲で前後左右にゆっくりとうねっているのだ。少なくともマナにはそう見えた。

「あなた、見てよ」

 それを見下ろしながら、芳美が秀平の腕をつかんで揺さぶった。

「見ているよ。ぼくにも……見えている」

 秀平がそれを認めた瞬間だった。

 これで、なんらかの自然現象であれ何者かが仕組んだトリックであれ、誰の目にも見える事象であると判明したことになる。

 うねりは直径一メートル、高さ十センチ程度の隆起となり、ゆっくりと祠に向かっていた。隆起が移動するのだから、その上に生えている雑草の揺れもマスゲームの波のように移動していく。そしてついには、隆起が祠の下に達し、祠そのものが右に傾いた。

 マナも秀平も芳美も、息を凝らしていた。唯一、ロンだけがうなっている。

 祠の傾きがなくなった。

 雑草も揺れていない。

 しばらくうなっていたロンが、静かになった。

「ねえ八神さん、今のって、軽トラを横転させた盛り上がりと同じだった?」

 祠から目を逸らさずに、芳美が問うた。

「大きさはあのときより小さくて……というか、バス停でわたしをつまずかせたものと同じくらいの大きさです」

 答えになっていないと気づくが、訂正の言葉が見つけられないほど動揺していた。


 ロンは当分の間、井上夫婦が借りることになった。もともと一泊していく予定だったため、夫婦は飼い主から犬小屋も同時に借りている。庭の東側の片隅に置かれた犬小屋にロンを繫ぎ、三人は玄関に入った。

 リビングで、マナと井上夫婦はテーブルを挟んでソファに腰を下ろした。

「あ、コーヒーを入れよう」

 そう言って芳美が立とうとするのを、秀平が制した。

「今はそれどころじゃない」

「そうだけど」

 気をそがれた様子で、芳美は小さなため息をついた。

「秀平さんは、あれをなんだと思います?」

 剣吞な雰囲気を払拭すべく、マナはとっさに言葉を紡いだ。

「最初は、大きなモグラ、と思ったんだけど」そして秀平は、首を傾げた。「モグラだったら、地中を移動したときにできる地面の盛り上がりはそのまま残るし……つまりあれは、少なくともモグラではないということだな」

 冷静な判断である、と感じ、マナは頷く。

「はい」

「かといって、ほかの動物という可能性も考えにくい」

 秀平はそう付け加えてテーブルに視線を落とした。

「わたしは、地中を移動するモグラ以外の動物なんて思い浮かべられないけど、いずれにしても、動物だったら地面の盛り上がりは残るということね」

 芳美の補足を受けても、秀平は視線を上げなかった。

「うん。まして、土ならともかく、アスファルトを隆起させるような動物はいないだろうな。ならば、動物以外の可能性を考えるべきだろう」

「仕掛けというか、なんらかの装置を使ったトリック、でしょうか?」

 真っ先に頭に浮かんだ可能性だった。とはいえ、否定されるのは承知のうえである。

「それもなさそうだね」やはり秀平はマナの言葉を却下した。「物理的な仕掛けは見つからなかったし」

 確かに、祠の周辺にそれらしき仕掛けはなかったのだ。三人でくまなく調べたのだから、間違いないだろう。

「トリックはトリックでも、薬物の作用を利用して幻覚を見せていた、とかは?」

 今度は芳美が可能性を挙げた。秀平も考慮していた仮説だ。

「それが一番ありそうだね」と頷いたものの、それでも秀平は視線を上げない。「ただ、三人が同時に同じ幻覚を見るなんてありえるのかな」

「三人とも地面の盛り上がりを意識していたから、薬物に反応して同じ幻覚を見てしまったのかもしれないわ」

 芳美が仮説を立てると、秀平がわずかに視線を上げた。

「ロンはその薬物を感じて吠えまくっていた、とか?」

「その可能性もあるわよね」

「芳美の言うとおりかもしれない。ならば、八神さんがつかまずいた件や、軽トラが横転した事故は、物理的なトリックを併用したと考えたほうがよさそうだ」

 そして秀平は、意見を求めるかのごとくマナに視線を投じた。

「犯人がいる、ということですよね。もう少し調べたら、事件に繫がる何かがわかるかもしれません。警察に通報できるところまで持っていければ……」

 とはいえ、幻覚説も無理があるような気がした。現に秀平も芳美も、得心のいかない表情を忍ばせている。

「とりあえず」秀平は言った。「ロンはあと一週間は借りられる。犬の散歩を装っての調査を、もうしばらく続けてみよう」

「そうね」と頷いた芳美がマナを見た。

 当然、マナも頷いた。


 翌日の日曜日も、昨日と同じ隊列で、朝から新王子団地一帯を調査した。しかし、手がかりになるものは何も得られなかった。雑木林の祠の前にも赴いたが、移動する隆起は現れず、ロンが何かに反応することは一度もなかった。

 進展があったのは、火曜日の夜だった。定時で帰る途中でマナのスマートフォンに芳美からの電話があったのだ。関山コーポには寄らず、マナはその足で井上宅へと向かった。


 マナと井上夫婦はテーブルを挟んでソファに腰を下ろした。人数分のコーヒーが用意されている。

 秀平は自分のコーヒーカップを横にずらし、そこに一冊の分厚い書物を置いた。黒々とした装丁の本だ。擦れや汚れが目立つ。かなり古いものらしい。上の面――表紙とおぼしき面の左寄りに縦に長い長方形の白紙が貼られてあり、そこに「死霊秘法断章」と筆による縦書きで記されている。

「読んで字のごとし」秀平の声音も表情も、ともに重々しかった。「この本が『死霊秘法断章』だよ」

 価値があるという一方で、忌まわしくもあり、また疑わしくもある、そんな書物だ。少なくとも今のマナにとっては、忌避すべき一冊に違いない。

「この本を秀平さんが自宅に持ってきた、と芳美さんから電話で聞いたときは驚くばかりで……でも、どうして持ち出せたんですか?」

「館長に頼んで、内緒で持ち出したんだ」

 禁断の一冊――『死霊秘法断章』を見下ろしながら、秀平はそう説いた。

「いくらなんだって、しちゃいけないことなのよ」芳美は渋面を呈した。「准教授という立場なんだから、こんなこと、これ限りにしてよね」

「わかっているさ。でも、今回の事件に関係していそうなことがこの本の中に見つかったんだから、せめて、ここにいる二人には大目に見てほしいな」

「さっきからそればっかり。八神さんが来たことだし、早く説明して」

 芳美にせかされた秀平は、その本、『死霊秘法断章』を手に取り、ページをめくり始めた。そしてその手を止め、開いたページを表にして分厚い本をテーブルに置く。マナから見れば、上下は逆の状態だ。

「ここに書いてある」

 秀平は紙面の一部を指差した。

 黄ばんだ紙面を見れば、表紙と同様に本文も縦書きだった。やはり筆で書かれたようである。もっとも、達筆すぎるうえに変体仮名が多く、マナにはまったく読めない。古典など一生涯にたった一度も役立つことはないだろう、と侮っていたが、この肝心な場面で必要になるとは思いもよらなかった。

 気を利かせてくれたのか、秀平が『死霊秘法断章』の向きを逆にした。マナから見て上下が正しくなったが、それでも読めないものは読めない。

 マナが右往左往していると、芳美の肩が秀平の肩を突いた。

「意地悪しないで、早く読んでよ」

「意地悪したわけじゃないよ。でも、できれば二人にも確認してほしかったんだ。ぼくがでまかせを口にしているわけじゃない、っていうことを」

「信じるわよ」

「信じます」

 二人に宣言され秀平が、安堵の色を浮かべる。

「じゃあ、読むよ」

 秀平は解説を交えながら、自分からすれば紙面が上下逆のまま、重要と思われる箇所を朗読した。

 それはまさしく絵空事だった。少なくともマナには信じられないことばかりだ。

 天空の彼方のいずこかに、ヌアクアズイという魔物が存在しているという。このヌアクアズイ以外にも無数の邪悪なものがこの世の至るところ、もしくは人間の世界にさえも潜んでいるらしい。ヌアクアズイはこれら邪悪なもののうちで最下級に属するの化け物であるという。最下級のものではあるが、人間に多大なる害を与えることができるのだ。

 そこにはさらに、ヌアクアズイを地上に召喚し、術者に従属させる方法が記されていた。

「こいつを召喚するには、星々がそれなりの位置にあることと、ここに記載されている呪文を唱えることが大事なんだけど、ぼくたちにとって重要な情報は、ここからだ」秀平は続けた。「ヌアクアズイの形態だよ。こいつは何かに憑依して初めてその姿があらわになるんだ。たとえば大地に憑依すれば、大地の一部がヌアクアズイの体として盛り上がって見える。それが建物の外壁に移動すれば、その外壁の一部が盛り上がって見えるわけだ」

「あなた、それって」

 芳美が声を上ずらせた。

 続けて、マナは秀平に問う。

「わたしたちが見たあれは、そのヌアクアズイなんですか?」

「信じられない、というか、信じたくはないけど、この相当古い書物に記されている化け物は、ぼくたちが見たあれを思わせるじゃないか」

 鵜呑みにするわけにはいかない。しかしマナは、手の震えを止めることができなかった。

「まさか」芳美が眉を寄せた。「多田さんが『死霊秘法断章』を読んでヌアクアズイを召喚した、っていうこと?」

 曖昧に頷きつつ、秀平は答える。

「そう考えれば、すべては繫がるんじゃないかな」

「これは多田さんに対する偏見かもしれないけど、あなたは、あの多田さんがこれを読めたと思うの?」

 芳美は秀平に問うた。

「確かにこんな本を読むような人には見えなかった。でも、時間をかけて部分的に解読するんなら、可能かもしれない。誰かに手伝ってもらったかもしれないし」

「誰かって?」

 さらに芳美に詰め寄られ、秀平はため息をついた。それでもすぐに答える。

「多田さんが話しかけていた学芸員は『死霊秘法断章』が所蔵されていることは明かしたけど、この本に関してそれ以上のことを話したことはないらしい。むしろ、多田さんの家族が関与したんじゃないかな。娘さんは真面目で勉強もできたようだし」

「あの子がこの本の……ヌアクアズイについての項を読んであげた、っていうわけ?」

「本当に儀式を執りおこなうとは、娘さんは思ってもみなかったんじゃないかな。おおかた、フィクションとして自分の父親に読み聞かせていた、とかさ」

「じゃあ、もしかしたら、颯來ちゃんは自分が読み聞かせたことによって、あのヌアクアズイの犠牲に……」

 言い淀んだ芳美に変わって、マナが口を開く。

「そもそも、ヌアクアズイはどうやって人間に多大なる害を与えるんですか?」

「ぼくたちが懸念したとおりさ。食うんだよ」秀平は答えた。「カラスがアスファルトに飲み込まれる、という話を女子高生がしていたらしいけど、おそらくそんな感じだろう。地面の盛り上がりや壁の盛り上がりが、人間を飲み込むわけだ」

「人を食べる、って書いてあるの?」

 芳美が尋ねると、秀平は頷いた。

「ああ、そう書いてあるよ」

 秀平によって開かれたままにされているページに、マナは視線を落とした。「ぬあくあずい」という文字がかろうじて確認できる。その部分のみが目に焼きついてしまった。

「でも多田さんは死んでしまった」芳美が言った。「なのにヌアクアズイはまだ人を襲っている、ということになるわよ」

「術者が退散の呪文を唱えないで死んでしまったからこそ、止まらないんだよ。従属の呪文は有効のままなんだろう。もしくは、ヌアクアズイは本能で人を襲っているのかもしれない」

「どっちにしても、どうにもならない、っていうことでしょう」

 眉を寄せたまま、芳美は肩を落とした。

 しかし、諦めるにはまだ早い。

「退散の呪文を唱えて追い返すことは、呼び寄せた人以外の人でもできるんですか?」

 マナが尋ねると、秀平はわずかに首を傾げた。

「できる、という記述は、まだ確認できていないけど」

「やってみましょうよ」即座に賛同した芳美だが、懐疑の目を秀平に向けている。「でもあなた、魔道書に書いてある内容なんて信じてはいないんでしょう?」

「半信半疑、といったところかな。唯物論者として譲歩したにすぎないんだけどね」

 ばつが悪そうに右人差し指で頬をかく秀平が、事態を解決へと導くための主力であることに違いはない。そして彼は、『死霊秘法断章』に記された「ヌアクアズイ退散の術」を解読するため、五日ほど時間がほしい、との意を表した。決行は日曜日だという。

 マナは光明が見えたと思いたかったが、同時に、自分の心に澱のようなものが積もっていくのを感じていた。


 翌日。

 心の澱をぬぐいきれずに漫然と仕事を進めていたマナは、昼食後、午後の始業まで三十分はあるのを確認し、職場の二年先輩である篠塚しのづか裕美恵ゆみえに声をかけ、彼女を従業員駐車場の隅に呼び出した。

「すみません、せっかくの休憩時間にこんなところに呼び出してしまって」

 晴れ渡った空の下、五十台前後の車が並ぶ中に人の気配がないことを確認したうえでマナが謝辞を口にすると、裕美恵は首を横に振った。

「いいのよ。それより、深刻そうだけど何かあったの?」

 裕美恵の反応はマナの予測していたとおりだった。人柄のよい日頃の様子からすれば、この程度で気分を害するはずがない。

「篠塚さんは神津山大学のOGでしたよね?」

「ええ」

「訊きたいことがあるんですけど……」

 口にしておきながらマナが逡巡すると、裕美恵は神妙な趣を呈し、小さく頷いた。

「何か事情があるのね。いいわ、とりあえず言ってみて」

 そんな返事をもらったが、新王子団地で起こっている怪異を悟られてはならない。尋ねるにしても言々句々に配慮は必要だ。

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