16、傷痕に触れる手

 先に屋敷に戻ったメリルローザとヴァンは、グレンが戻ってくるのを待つ間にやることを済ませておくことにした。


 やること。すなわち、吸血だ。


 メリルローザの部屋に入ったヴァンは、ほんの少し考える時間をあけて「どうすればいいんだ?」と訊ねた。


「どう、って何よ?」

「……首か? 指か? ……それとも別の場所か?」


 どこから吸えばいいのかと、ため息でもつきそうなテンションでメリルローザの指示を待っている。前回、たっぷり時間をかけて指を舐められたことを思いだしてしまい、顔を赤らめた。


「っ……もう首からでいいわよ……!」


 指以外の考えも思いつかない。少しの間我慢するだけ、と自分に言い聞かせた。

 ヴァンの手がメリルローザの肩にかかり、ぎゅっと目を瞑って衝撃に備える。


「おい。……もっと力抜けって」


 やりにくい、とヴァンの呟く声。


「仕方ないでしょ! だ、大体、噛まれるってわかってるのに、リラックスして首を差し出せるわけないじゃな――っ!」


 途中で悲鳴を噛み殺す。

 ヴァンの歯が立てられ、ゾクッとした震えがメリルローザの背中を駆け抜けた。


 すぐそばにあるヴァンの胸元に寄りかかり、彼の着ている服をぎゅっと掴む。ヴァンの唇が触れて濡れた肌が、空気に触れてひやりとする。それだけで鼻に抜けるような吐息を漏らしてしまった。


「ね……ぇ、まだ……っ?」

「ん、もう少し……」

「っ……」


 はあっ、と大きな息を吐くと、顔をあげたヴァンと目が合った。

 名残惜しそうに熱を含んだ瞳は、メリルローザを求められているのだと錯覚しそうになる。




『あまりのめり込みすぎないようにね』




 叔父の忠告が頭をよぎる。


 まるで、ヴァンのことを好きになってしまうとでも言いたげな言葉に、メリルローザはそんなわけないじゃないと心の中で否定する。


(――のめり込む? わたしが?)


 抱きしめ合うような体勢も、熱っぽいヴァンの視線も、まるで愛し合っているかのような錯覚を与えるから。だから。


 だから好きになってしまうんじゃないかって?


 寄りかかっているヴァンの胸板をぐいっと押す。

 彼が求めているのはメリルローザの血だけなのだから、もし好きになったとしても馬鹿を見るだけだ。

 精霊と人間。はじめから結ばれないとわかっている悲恋に身を投じるほど、メリルローザはロマンチストではない。


 メリルローザが離れようとしているのとは反対に、ヴァンの手がメリルローザの背中に回る。


 どこ触ってんの、と抗議の声をあげようとしたメリルローザだが、あたたかな温度が触れるその場所は過去に負った火傷の傷痕がある部分だった。

 広く痕になっているところを撫でられる。ユリアの火傷を治した時のように、触れる手は優しい。


「……わたし……、治して、って頼んでないわよ」

「そうだな」


 俺が勝手に治した。そう言われて、今ヴァンが触れたことによって火傷の痕が消えたのだと知る。

 メリルローザには確認する術はない。それでも、ヴァンが嘘をついているとは思わなかった。


「……どうして?」


 問うと、ヴァンの手が離れる。


「お前が、あの女の傷を治せって言ったから……」


 ユリアのことだ。顔や腕に火傷の痕が残ったらきっと彼女は悲しむだろうと思った。

 背中側に傷があるメリルローザとは違い、毎日鏡を見るたび、傷つくことになるだろう。そうなる前に、「なかったこと」にしてもらった。


「……勲章は、心の中にしまっておけ」


 余計なことをしたなら悪かったな、とヴァンは部屋を出ていった。


『わたしは、後悔していないから。この傷も勲章みたいなものだわ』


 薔薇園でヴァンに言った言葉は嘘じゃない。ヴァンだけじゃなく、父にもそう言って、自分にもずっと言い聞かせてきた。もし、同じ場面に巻き戻ったとしても、きっと同じ事をする。

 それでもやっぱり、ついてしまった傷痕はメリルローザの心に影を落とし続けていた。


 部屋を出たメリルローザは、廊下を歩くヴァンの背中を呼び止めた。


「ヴァン!」


 振り返ったヴァンは文句を言われるとでも思ったのか、憮然とした顔をしていた。メリルローザは部屋の前に立ち尽くしたまま、


「……ありがと……」


 小さな声は、ヴァンの耳に届いたらしい。

 お礼を言われたことに驚いた顔をして――ほんの少し口元を緩めて笑った。それは、メリルローザがはじめて見るヴァンの笑顔だった。


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