アスナニカ

koh-1

月曜日

 雨が降るな、と栗木あすなが空を見上げたと同時に大粒の雨が降ってきた。ファミリーレストランのウェイトレスのアルバイトは部活の影響もあり三時間勤務の苦渋を強いられる待遇の中、強きの雨があすなの全身をずぶ濡れに包む。自転車のペダルをいつもより早く漕ぎ、通いなれた高校の校舎が見えた。夜は昼とは景色が違う。校庭に威厳深くそびえる柳の木が闇の中、雨風にさらされ、ふゅーふゅーと不気味な音を立てる。


 あすなは不気味な光景を横目で視認し、すぐさま前方を確認。視界は暗く、雨の影響もあり、すこぶる見通しが悪い。


 チッ。


 女の子が舌打ちなんかしてはいけませんよ、は今は亡き母の教え。いや、だって、舌打ちをしたくなるぐらい負の影響があすなを覆っている。軽音部のコンテンストでは大事なところでミスをし、永久戦犯扱い、さらには付き合っていた一個上の彼氏に、「お前、飽きた」と永久追放を強いられ、あすなの心は大粒の雨以上の涙を流したい気分だ。

「なんなのよ、もお」

 あすなが視界の悪い前方に向い、声を突き通す。が、もちろん返答はない。返答はないが地面からガタという何かを押し上げる音が響く。サドルからは青春を謳歌する男が惚れ込むと云われる、あすなの引き締まったお尻に衝撃が伝わり、慌ててブレーキを握った。

「なに?」

 あすなが疑問をもつのも無理はない。突然の出来事に突然対処できる人間がどれだけいるであろうか?ほぼ、いないのではないか。いやいや、僕、私、は対処できますよ、と声を高らかに宣言する輩に限って、尻込みして逃げ出すか、突然、という事象に遭遇した事がないのだ。何事も実際に経験しないとわからない。


 そうじゃない?


 あすなは自転車を止め、お尻に衝撃を与えたものは何かを確認するために、ゆっくりと目的の場所に移動する。たしかに何かある。より一層、雨が強くなった気がする。これも不運なのだろうか、前日、髪の毛に念入りに施したトリートメントは弱アルカリ性から酸性に化学変化した事だろう、という悲しい現実が頭を過り、舌打ちを放とうと思った。

 が、止めた。正確には止めざるを得なかった。表現が正しければ、あすなは物体に近づき過ぎた。なにせ、二本の足が見えたからだ。人間?獣?二本だから人間だよね、いや猿も二本だっけ、じゃあ、麒麟は?


 あすなは半ばパニックに陥っていた。二本の足、胴体、首、頭。答えは簡単。

 人間。

 そう、人間であることはわかった。しかし、なぜここで倒れているのだろう。第二の疑問。第三の疑問としては生死の判断だ。あすなは呆然と立ち尽くし、なにをしていいのかわからなかった。軽音部の初めてのコンテストでも出だしのドラムのカウントを間違え、演奏にブレが生じた。私、ドラム向いてない、という疑念は今も変わらない。だからといって、他の楽器に転向するという意思表明はしたくはない、元来、負けず嫌いなのだ。その負けず嫌いが、良い方向に向かっていないのも事実。はあ、とため息をつきたくなるが、雨が吐息を流し、思考を否が応でも現実に戻し、あすなはその場にしゃがみ込み、うつ伏せに倒れている男に向い声を掛けようとした時、動いた。男の左手がぴく、ぴく、と。男のは左手中指に指輪をしている。よく見ると、地面にアイスピックが転がっていた。なにかが付着している。その付着物が何かはわからない。直感的に、それには触れてはならない、とあすなは思った。

「大丈夫ですか?」

 あすなが発した言葉が的を得ているかはわからない。誰しもこの状況下で冷静な判断はできないのだ。雨が強くなり、ゼブラ柄のロングTシャツはお粗末な状態だ。ブラジャーも透けているかもしれない。さらに男が倒れているともなれば、及第点といえるだろう。

「俺は・・・・・・・」と男は痰が絡まったようなしゃがれ声を放つ。それでも声は若い。あすなと歳はさほど変わらないのかもしれない。よく見ると男の頬からは血が流れていた。

「ちょっと、血が流れているけど、手当しないと。救急車は呼んだ方がいいわよね。でも、わたし、今月携帯代二万越えてるのよ。携帯に二万費やすなんて馬鹿だなお前、だなんて思わないでね、現代は必須なの。携帯代は光への投資よ。だって通信網って見えない、光の到達点も、なかなか速いしね。で、緊急だから救急車は呼んだ方がいいわよね?」

 あすなは捲し立てた。何度も思っていることだが、冷静な判断が下せない場合、人は論理がめちゃくちゃになる。それでいいのだ、彼女は納得した。

「ん、俺は、成功したのか?それとも失敗したのか?」

 男は立ち上がろうと両手の平を地面に付け、腕立て伏せの体勢を取った。そして、あすなの話しを一切聞いていない事実に彼女が愕然したのも事実だ。ねえ、言葉を放つ、て結構な労力なんだけど、不満や愚痴が蠢いたが、あすなは胸にしまった。

「人生で失敗はつきものよ、どう対処するかじゃない?とりあえず、救急車を呼ぶね」

 男の肩がぴくっと上がる。そして、あすなの方を見る。形容しがたい表情を見せる。黒髪。雨のせいでナイロンみたいに髪が額にへばりついている。整った顔立ち。襟付きのシャツが妙に担っている。目は科学者が物質を計量するかのように力強かった。

「君は、もしかして、あすな?」

 時間が止まる。そう錯覚を起こさせる程、あすなの胸は無重力状態に陥った感覚に陥る。軽いのだ。そう、何も考えられないとはこのことだろう。かろうじて放った言葉はこうだ。

「どうして、私の名前を?」

 疑問を放って数秒経った。だが、男から言葉は返ってこなかった。男は粘着シートのようにぴったりと額に貼つけられた髪を掻き分け、落ちてたアイスピックを拾い、勢いよく立ち上がった。頬から流れる血を、手の甲で拭い、「ついてないな」と一言、漏らし、あすなの前から立ち去ろうとした。

「ちょっと、どこ行くの?大丈夫なの?なんで私の名前を知っているの?答えなさいよ!」


 背を向けていた男があすなの声に反応した。振り向く。その顔は笑っていた。闇の中でも白い歯が際立つ。ピアノ鍵盤のように整列された歯並びだ。だからといって華麗な旋律が奏でられるとは限らないが。

「会えてよかった」

 男はそういった。小洒落たセリフなんか求めてない、とあすなは男の背中を見つめながら思った。気づけば強く降っていた雨は止んでいた。

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