第06話 迷宮蟻街/ドピエル③ 



 深淵が訪れ、迷宮都市の隅々までが深い濃紺の闇にゆっくりと隠されていく。元々地下に位置するドピエルといえども、地上からの灯が完全になくなればそれはやはり暗いものだった。音も、色すらも静寂だった。そんな曇りなき闇のなかで、女はその目を開いた。二つの寝台の片側には少女が一人。もう一つには誰も横になっていない。リアトは部屋の隅で、じっと、時が来るのを待っていたのだ。


 地上にはほとんど気配がない。わずかに動く者たちは大半がただの人間だ。リアトはそのことを広大な範囲を持つ《探気》によって知っていた。だがしかし、その者たちのなかに、決して見逃せぬ者がいることもまた、知っていた。


 立ち上がったリアトは剣を背負うと、夜の匂いと敵の気配を感じながら、恐ろしく静かに扉を開いた。扉の向こうにも色濃い闇が広がっている。これはただの暗闇ではない、いつか味わった迷宮の暗闇だ。ゆえに見通すこともできない。油魔虫の薄暗い松明さえ、いまや消えてしまっていた。この場所を秘匿する為にラフィーが消して回ったのだろう。複雑に入り組んだ小道の連なりは、日のある間でも人々を迷わせる。ましてやこんな夜では、望んだ場所へなど到底辿り着くことはない。


 だというのに、女は迷いなく夜の中へと足を踏み入れた。

 しかしその瞳には、迷いの色があった。

 

 暗がりを歩くうちに、いつの間にやら彼女は地上のよどんだ空気を吸っていた。饐えたドピエルの空気は人臭さを滲ませながら、皇国の大気を汚染している。獣により近い人々の街だというのに、ここにあるのはどこまでも人間の生みだすものなのだ。リアトは気配を消して貧民街を進むと、フィロレムの巨大な門の前でその歩みを止めた。大門は夜には開かない。重苦しい沈黙が、辺りに立ち込めていた。


 女は立ち止まったまま剣に手を掛けると、静かにそれを抜いた。その動作はいつもイルファンが見ているものとは異なる、隠密の動きである。濃紺の神鋼が夜に溶け込んで剣が少しずつ、すこしずつ、見えなくなっていく。


 剣身が完全に消えた瞬間、物音とともに鼠たちが勢いよく走った。

 

「第七繋者たる私の前で呪を放ったな」


 数瞬後、開かぬはずのフィロレムの門が開く。備え付けられた門扉がずれ動き、その陰からひとりの男が現れた。右手には長形のバルニュス、深い闇で顔の造作や髪色などは分からないが、男が備えている気配の異質さは伺いしれる。半身に構えた男は、その身からわずかな靈気を溢しながら、リアトをじっと睨んでいた。


「ラツィオ=メイン。その内なる感情と相反する冷徹さも、間合いの取り方もすべて、お前の祖父にそっくりだ。もしやここで私を待っていたつもりなのか?」

「『捨剣』のリアト……やはり戻ってきていたな」男が口を開いた。


 漏れ出る声は若くはないが、老いてもいない。

 

 リアトは十数年前の諍いのことを思い出し、男の記憶を浮かび上がらせる。まだあのときのままだというなら、斬り合わずにはいられない。事実、ラツィオが放つ靈気は鋭く磨き上げられている。剣持つ指も今にもかとばかりに震えている。


 仮にこの男と闘えばどうなるか。

 リアトはその結果を正確に予想することが出来た。

 どちらかが――死ぬのだ。


「何の為に戻った」ラツィオが問う。

「それをお前に話す理由はない」

「ならば如何にして聞こうか」


 ラツィオが凛とした気を放った。この男には、戦闘を行うだけの気持ちがある。となると、下手をすれば互いに命を落とすだろう。それがリアトの下した結論だった。眼前の男は上級剣術士だ。彼が強くなったというのではない。自分が弱くなったのだ。相対的にラツィオ=メインの剣は、特級剣術士たる自分に届きうる。


 だとすれば、戦いは避けなければならない。

 戦錬士として、勝敗の怪しい勝負などを受ける意味はない。

 しかしそれができるものか。


「剣を下ろすなよ」釘を刺すようにラツィオが言う。

「逃げはしない」リアトはそう答えた。


 逃げることも戦わぬことも、私にはできない。頭では闘うべきでないと分かっていても、その剣を下ろすことはできなかった。ラツィオの主君であり、リアトの仇敵でもあるローレン=ノーランを許せぬ内は、剣は震えたままでなければならない。


 そうでなければ、そうでなければ、

 過去のあらゆる闘いが無駄になってしまうような気がしたのだ。

 だが、女の中には闘うことへの恐怖じみた感情も、またあった。

 この意味のない戦いを終わらせたいと、彼女は願っていた。


 ラツィオ=メインが、しかし、その剣をリアトに向けた。


「動くなよ、もう一度聞くぞ。今更なぜ戻ったんだ」

「私が為すべきことを為すためだ」リアトが言った。

「ほう。内容によっては、俺はお前を殺さなきゃならないんだが」

「そう言うと思っていたから、ここへ来たのだ」


 リアトが冷たく言った。


「俺もだ」


 その瞬間にラツィオと呼ばれる男とリアトの動きが一瞬止まる。

 これが開戦の合図だった。


 しぃっと鋭く息を吐いて、剣術士の男が伸ばすように剣を突き出した。

 その刃から延びるのは魔剣流の技である。

 特殊な魔法によって無数に別たれた槍のような剣先がリアトに向かって奔る。

 女はそれを造作もなく、ひと呼吸で弾いた。


 だがその隙にラツィオは空を舞っている。

 遥か高みから打ち下ろされる一撃は魔剣十剣が一つ。


 大量の魔力弾が剣身から幾つも発射され、

 その陰に隠した靈気の刃が空を切って落ちてくる。

 

 無論、特級剣術士であるリアトには通じない。

 女は軽々と遠撃を掻いくぐると、そのうち幾つかを彼自身へとはじき返す。

 されどそれもまた空を切り、ラツィオ=メインは易々と地に降りたった。


 これにて両者の動きが再び止まり、

 それ故に勝負を決めるのはここからの近接戦闘となる。


 ラツィオが一息で極大の魔力刃を形成すると、リアトも破砕剣を発動した。

 女の剣から放たれた獣の唸るような音が夜闇を震わせる。

 男が剣を振った。

 それは実界に現れる剣の間合いよりも三剣長は広い範囲を薙ぎ払う。


 しかしその瞬間には、リアトの姿はラツィオの真後ろにあった。

 驚くべき速度で背後に回り込んだのだ。

 男の全身を死の予感が走る。


 だが女は、愚かしくも剣を下した。

 そして、静かにラツィオの肩に触れた。


「ラツィオ=メイン……」


 必死の間合い。

 されど、勝負はつかず。


「臆したかリアト!!」


 ラツィオは叫びながら腰を低く落とし、

 地面を擦るように後方に蹴りを放ち、その体勢を変更した。

 体を回転させた力をそのままに、男は剣を打つ。

 リアトはその剣を躱せない。あるいは、躱さない。

 ラツィオが異常を感じて振りを止めようとした瞬間、


「臆してなどおらん」


 女の片手がさっと動いて男を投げた。


 くるり、とラツィオが浮き上がり、即座に地面に叩き付けられる。

 驚いた様子で男はリアトを見た。

 あまりに素早かったので、ラツィオには知覚できなかったのだ。


「馬鹿が!」男が仰向けのままで叫んだ。


 とはいえ、それでもラツィオは流石に上級剣術士である。

 男に指先を向けているリアトの左腕から鮮血がこぼれていた。

 投げられるその刹那に、彼の剣が閃いたのだ。


「《捨剣》、衰えてなおもこだわるか!」男が嬉しそうに呟いた。

「為すべきことはお前を殺すことではない」リアトが言った。

「それを信じると思うのか?」ラツィオが顔をゆがめる。

「それは誰にも、ローレンにも、関係のないことだ」

「なにを、戯言を!!」


 その言葉が終わらぬうちに長形のバルニュスが伸びた。

 ラツィオは苛立ちに震えながら剣を握っているように見えた。

 軽い突き込みであったためにリアトは下がって剣を捌く。

 返しの打ち込みは、ない。


「私を量るんじゃない」

「チッ。本気か? 本気で俺を殺さないつもりか?」


 ラツィオは立ち上がると、不思議そうな顔で言った。

 その声にはわずかに嫌悪が込められていた。


「逃げはしないが殺しもしない」

「俺がお前の邪魔をすると言ってもか」


 リアトは顔をしかめた。


「私が貴様を殺そうとすれば、貴様も私を殺そうとするだろう。それはいつまでも続く。私は殺し合いから降りたのだ。私にはまだまだ死ねない理由がある」

「十年前なら、殺さずに終わる因縁がこの世にあるとは言わなかっただろう。お前はどうやら傭兵の世界で、生きることに慣れすぎたらしいな」ラツィオがぼやいた。


「頼む」リアトが言う。


 女と男の視線がぴたりと止まる。

 二人は互いを見つめながら、いつしか剣を下していた。


 リアトが耐えられなくなったように視線を逸らした。

 するとラツィオはつまらなそうに鼻を鳴らして、それから一歩退いた。


「馬鹿にするなよ。戦う気のない相手を殺す趣味はない。それに、こんなに弱くて脆いものは、斬る価値もなければ話相手にもならん。俺も生きることに慣れつつある。単なる剣ではない皇太子の傍付が、私情でお前と殺し合いをする酔狂は、ない」


「助かる」

「殺すときは殺すがな」


 その言葉にリアトが目を細めた。


「それは、ローレンが望めば、ということか」

「あぁそうだ――が、しかし戦争はもう終わった。ローレンだってあんな些事には関わらないだろう。まったく何のことはない。俺もローレンもお前と同じ。もはや血に狂った戦士ではないということだ。認めよう。認めてやるさ。お前との闘いはこれで終わりだ。つまらない剣に付き合わせてしまったようで、悪かったなぁ」


 男は寂しげにそう言うと、剣を帯に差しなおし、リアトに背を向けた。

 この瞬間、憎きローレンの右腕、その命を絶つこともできた。

 だが、リアトの剣腕はもはや震えることを止めていた。


 男が立ち止まって、不思議そうに振り返った。


「この隙だらけの俺を、本当に殺らないのか」

「あぁ」

「は、なんとも悲しい気分だな」


 ラツィオはそう言い残して去った。


 腕から流れる血が剣を伝って土を赤く染める。この暗闇の中では血の色もただの黒と変わりはしなかった。女が左腕に靈気を集めると、見る見るうちに流血が止まっていく。血だけではない。傷も、痛みも、すべて消えていく。


 どうしてか、リアトはそのことに苛立ちを感じていた。

 仇敵との戦いがほんの数合で有耶無耶になり、誰も死ななかったということ、

 それに、窒息するかのような奇妙な苦しさを覚えたのである。

  

「あれが些事か」女は呟いた。

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