第11話 小人閑宴/ナロケ②


 宿は驚いたことに個室だった。

 リアトは二人分の部屋を取ったのだ。

 

 確かに自分はもう随分と大きくなったが、これまでの何年間もは、リアトと一緒の寝台で眠ってきたのだ。そうでなくともすぐ近くで、はっきりいって、寝息が聞こえるくらいに近くで寝ていた。それがいきなりの個室。別に寂しいというわけではないが、まぁ寂しくないというわけでもない。寂しかった。


 だが、宛がわれた手前、拒否するというわけにもいかない。

 寂しがっていると思われるのも癪だった。


 ひとしきり寝台で体を休める。


 だが休めていても、隣の部屋のリアトのことが気にかかる。まさか置いて行かれるということはないだろうが、師匠は一人でいるとき何をするのだろう。正直なところ、剣を研いでいるか鍛錬しているかの二択しか空想できない。


 少女はこっそりと寝台から降りると、壁に耳を当てた。

 するとほんのかすかに話し声が聞こえた。

 転言だ。


「……分かっている。夜は出歩かないようにしている。イルファンなら今のところ調子はよさそうだな。誕生日を迎えるまでは大丈夫だろう。うむ。ヴォファンと約束したことだ、あの剣を渡さねばならん。皇都には数日中には着くだろう……」

 

 少女の耳がぴくりと動く。


 これは、あの琥珀色の剣に関する話だ。

 注意深く言葉を聞き取ろうと、少女は靈気を集中させようとした。

 そのとき、部屋の扉がとんとんと叩かれた。


「ひゃっ」


 イルファンは思わず飛び上がる。

 それからゆっくりと近づいて、扉を開いた。


「なに?」


 おもわず眉間に皺が寄る。

 そこには、見たこともない少女がいた。

 とても小さく、自分よりも年下に見える。 


「あ、あの、私、ナロケっていうの」少女が言った。

「誰なの」イルファンが固まったままで問う。


 ナロケ。聞いたことのない名前だ。

 見たところ、剣術士でも傭兵でもない普通の少女だった。

 すくなくとも、リアトを殺しにきた刺客には見えない。


「お代なら払ったわよ」

「違うの。私、あなたの話が聞きたくて」ナロケが言った。


 舌足らずな話し方だった。

 幼い。


「あなたいくつなの?」イルファンが問う。

「なんとなくだけど、同じだと思う。11歳になったところ」少女が笑った。

「そう。私は13歳になるところ。じゃあおやすみなさい」


 イルファンはそう言って素早く扉を閉めた。

 彼女がナロケを冷たくあしらったのには二つの理由があった。


 一つは、この一連の間抜けな会話をリアトに聞かれたくなかったから。もう一つは、ナロケという少女がいかにも農民然としていて、なんというのか、剣術士たる自分が話すような相手ではないと思ったからである。農民に対するある種の偏見と、剣術士である自身への偏見が絡み合って、少女の心は閉じたのであった。


 それに、考えるのも癪な話ではあるが、ナロケは、農民の娘でありながら美しかった。魔獣の血を浴びて育ってきた自分とは、根っこの部分でなにか違う。自分は初対面の人間に対して、これほど綺麗に笑えないだろう、とイルファンは思った。


 だから、なのだろうか。

 なぜだか腹が立ったのだ。


「ねぇ! 名前を教えて?」ナロケの声が扉越しに聞こえる。

「黙って」イルファンが唸る。

「わたしはナロケ、山に咲いてるお花の名前よ」

「静かにして」

「ただのお花じゃなくて、薬草なのよ」笑い声がする。

「馬鹿じゃないの」


 しばらくは無視していたが、戸の向こうの声はやまない。

 これではリアトに聞かれてしまうかもしれない。

 そうなると、何か非常にめんどくさくなる気がする。

 しまいにイルファンは戸を開けた。


「分かったわ。じゃあ下で話しましょう」

「うん。あなたの名前は?」少女が言った。

「イルファン。意味は知らないわ」

「意味がない名前なの? 変なの」また笑った。

「薬草の名前も十分すぎるくらい変だと思うけど」


 ナロケはそれにも笑った。

 

 階段を降りると数人の大人たちが酒を飲んでいるのが見えた。

 どこの村でもそうらしいが、宿屋は夜の溜まり場になるようだ。

 中央の火が揺らめいて、怪しげな様子にさえ見える。


「暴れまわってないだけましね」イルファンが言う。

「うん」少女が答えた。


 ナロケはイルファンの前に出ると、そっと台所へと入る。


「話したいんじゃないの?」

「お母さんに見つかりたくないの」

「ああ、あれがそうなの」


 男らと火を囲う女性のなかに、ひときわ整った顔立ちの女がいた。よくよく見ればどこかナロケに似ている。若い頃はさぞかし美しかっただろうと思えた。彼女はひどく酔っぱらっていたわけでも、しなを作っていたわけでもなかったが、ナロケがそれを避けたのはなんとなく理解できた。母親は、悲しげな笑みを浮かべていた。


 さきほど、イルファンの話を聞いて、泣いていたのはあの女だ。

 ということはつまり。流石に、事情の察しもつく。


「去年の冬に出ていったきりお父さんが帰ってこないの」


 ナロケが言った。


「それで宴会ってわけ?」椅子に腰かけながら問う。

「もうすぐ一年経つの。きっと寂しいんだと思う」


 寂しさ。

 ナロケ自身もそう感じているかのように、彼女はそう言った。


「あなたのお父さん、どこから戻らないんだったかしら」

「エレングルよ。毛皮を売りにローレッドを越えたの」


 では、やはりローレッドを越えられずに死んだのだろうとイルファンは思ったが、それを口には出さなかった。ナロケの父親に限らず、あの山では毎日のように人が死んでいる。その数多くに埋もれてしまった死は、家族の元までは届かない。もちろん、ナロケの父がエレングルで長期の仕事を見つけたという、本当にかすかな可能性は残されている。だが、あえてそれを言う気にはならなかった。


「私には傭兵の知り合いがたくさんいるけれど、その誰もが知らないあいだにいなくなるわ。人なんて、ずっと一緒にいるものじゃないのよ。それが当たり前で、だから寂しいのも当然のことなんだわ。ナロケ、私から言えるのは、ただそれだけよ」


 ナロケが不思議そうに首を傾げた。


「ねぇ」

「なによ。私は明日が早いからすぐにでも寝たいわ」

「一緒に外に出てみない?」


 イルファンはぞっとして顔をしかめた。


「命知らずね。悪いけど遠慮するわ。外は深魔がうようよいるかもしれないし、魔獣だって絶対に来ないとは言えないもの。私ならほんの少しでもここから出ようとは思わない。もしかして、この村の人たちは、夜の怖さをなんにも知らないの?」


 ナロケが微笑む。


「えへへ。でも夜の草原ってすごく綺麗なのよ。それにイルファンは強いんでしょ。伯父さんが言ってたわ、あの子は剣術士で魔獣にだって負けないって。だからきっと大丈夫だと思ったの」ナロケが微笑む。


 その口ぶりに、イルファンは舌打ちしそうになった。ナロケは無謀な冒険に自分を連れ出そうとしている。そればかりか、自分に守らせようとしている。こういった自己中心的な考えは好きではなかった。ずうずうしいったりゃありゃしない。


「私はいかない」

「そう」ナロケが悲しそうに笑った。


 微笑みの感じがすこし母親に似ていた。

 誰かを失ったような、それを堪えるような笑みだった。

 イルファンは仕方なく問うた。


「どうして外に出たいのよ?」

「歌。歌ってあげたくて」


 彼女は台所の小さな椅子に乗ると、窓から外を見た。何が見えているのかは分からないが、その瞳はほんのわずかに濡れているように見えた。なぜ彼女が泣いているのか。その理由は一つしか思い当たらなかった。彼女もまた、自分の父親が死んでいることを今日、聞かされたのだ。イルファンは慎重に言葉を選んで、言った。


「聞いてたのね。お父さんのこと」

「もう帰ってこないって、山を越えられなかったって」


 母親が言ったのだろう。

 それは、本当のことだが、11歳の傭兵ではない少女には酷な話だ。

 きっとナロケは、山越えの恐ろしさも知らないに違いない。


「ローレッドを生きて越えるには護衛がいるわ」

「一人じゃなかったもん!」ナロケが小さく叫んだ。

「傭兵を雇ってたの?」

 

 その問いにナロケは答えなかった。

 いや、答えられなかった。


「分かったわ」しばらくして、イルファンは言った。



 それから数分の後、イルファンは気を引き締めて扉を叩いていた。なるべく控えめに。一度目、出ない。二度目、出ない。三度目に叩いたとき、ようやく中からリアトが出てきた。片手には丁寧に編まれた白羊糸の服を握っている。隙間から、ちらりとみえた室内には衣類が散らばっていた。どうやらお楽しみ中だったらしい。


「なんだお前か」女が言った。

「なんだじゃないです。ちょっとお願いごとがあって」

「面倒は勘弁しろ。これは、村人に頼まれたことが手に負えないから、私に頼みに来たとかそういう類のことだ。悲しいが時間がない。貸せる手はないと伝えろ」


 リアトは眉間にかすかな皺を寄せて、少女を睨んだ。


「聞こえてたんですか」イルファンが顔をしかめた。

「いや。だが予想はつく。一体なんだ」

「子どもが、ローレッドに向かって歌いたいそうなんです」

 

 それを聞いたリアトはやれやれとばかりにため息を吐く。


 正直、イルファンだって同じ気分だった。どんな断り文句を握らされるのかは分からないが、そうなると、ナロケがまた泣くことは確かで、それはとても困ったことになる。そんなことを思っていると、リアトは、なぜか思案げに頬を膨らませた。


「わざわざ夜に歌うのは鎮魂の儀を兼ねているからだな」

「彼女はそのつもりです」


 女はそれを聞くと、なにかを決意するような顔で片眉をあげる。


「うむ。まぁそうだな……。正直、村から出なければ大した危険はないだろう」

「いや、その、でも深魔が出ますよ」イルファンが更に顔をしかめる。

「この時間帯ならまだお前で十分だ。危ない奴だと思ったら全力で戻ってこい。魔獣に遅れはとらんだろうし、これも修行になるかもしれん。お前が剣術士である以上は、夜を恐れてばかりもいられないからな」リアトが獣のように微笑んだ。


「えぇ……?」


 まさか、これも修行だというのか。

 深魔の恐怖は、獣のそれとは根底から異なるというのに。

 なにか言い返そうとしたが、言葉がうまく思いつかなかった。

 

「私も視ておく。絶対に村からは出るんじゃないぞ。森には行くな」


 リアトはそう言うと扉を閉めた。


 不満だった。そりゃ、探気はするのだろうが、意識を割くかは怪しい。あの服の量では、晴れ着が決まるのにもう少しかかりそうだった。そればかりか、そもそもリアトが助けにくるかどうかも怪しいところだった。洞窟内でのことをまた思い出す。リアトは、修行をさせたいのだ。だとすれば、深魔など格好の敵なのだろう。


 イルファンはげんなりと階段を降りると、台所のナロケに声をかけた。


「ナロケ、いる?」


 奇妙なことに、返事がなかった。

 何度呼んでも返事がない。


 嫌な予感がしたとき、ナロケの覗いていた小さな窓が半分だけ開いているのが目に入った。彼女はおそらくこれを開けた。しかしこの窓から外に出るのは無理だ。そもそもどうして窓を開けたのだろう。イルファンには理由が分からなかった。


 なんにせよ、彼女の姿はどこにもない。

 それが問題だった。


「ナロケ! どこよ!」イルファンが呼ぶ。

 

 しかし、やはり返答はない。広間を見れば村人たちはすでに眠りこけていた。ナロケの母親もだ。そして宿の扉がかすかに開いている。先ほどは閉じられていたはずのそれが。誰かが外に出たのか。イルファンが扉をあけると、外の暗闇に、わずかについた足跡が見えた。小さい子どもの足跡だ。ナロケはここから出たのだ。


 その足跡は、村の木柵のむこうへと続いていた。


 おかしなことが二つあった。

 一つはナロケが一人で外へ出ていったこと。

 もう一つは、大人たちがこの短時間で眠ってしまったということ。


 イルファンはその二つの疑問に、一瞬で答えを出していた。

 これはおそらく、深魔か人攫いの仕業だ。


 ナロケは窓の外になんらかの惹かれるものを見て、そして外へと出た。敵はそれを邪魔立てさせないために大人たちを眠らせたのだ。リアトは気付いているだろうか。分からない。だが、気付いていないとしても自分の行動はしっかりと感知しているはずだった。ならば、知らせる必要はない。その時間もない。


 イルファンが判断を急いだのは、ナロケの足跡が村の外へと続いていたからだった。彼女を、もしも仮に助けるとするならば、一刻の猶予もない。そればかりか、手遅れかもしれない。イルファンは外に出ると、わずかな靈力をこぼして合図を送った。そして、競争馬に匹敵するほどの速度で夜を駆けた。ナロケが連れていかれてからまだ時間は経っていない。どんな相手でもまだ痕跡を残しているはずだった。


「ナロケ!!」少女は叫んだ。


 この大陸の夜に、朝の明かりはまったく存在しない。

 ほんのわずかなハオンの光も大地を照らすことはない。


 イルファンは走り始めてすぐに、カンテラを持ち出さなかったことを後悔していた。ケインの夜の光によってナロケの足跡を見失うことはないが、深魔は光を嫌う。ある種の簡易結界として光源は有用なのである。


「ナロケ!!」イルファンはまた呼んだ。


 返答があることを期待したのではない。

 どこかに現れているであろう深魔に己の居場所を晒したのだ。


 それは非常に危険な賭けであったが、それで自分の身がどうなろうとどうでもよかった。なぜそんな気持ちになったのか。あの少女はそれほど大事ではなかったはずだ。頭の片隅ではそう思いつつも、体と喉は勝手に動いてしまっていた。


 足跡はいつのまにか森のなかへと続いていた。

 リアトに「入るな」と言われた場所だ。

 

 引き返して、師匠を待つべきだろうか? いや、やはりその時間はない。もしも敵がノゾキミのような奴なら、きっともうナロケは死にかけている。嫌な想像がよぎって、イルファンは引き返すことができなくなった。減速することなく森のなかへと滑り込む。森は夜深魔がよく現れると言われていて、リアトからも避けろと言われ続けていた。木の隙間を縫うように踏み込み、消えそうな足跡を追いつづける。


 自分は一体どうしてここまで彼女を探しているのか。やはりそれさえも分からないまま、イルファンは唐突に足を止めた。少女。ナロケが目の端に映ったのだ。


 彼女は何もない森のなかで立ち尽くしていた。

 その傍には一人の男がいる。

 イルファンにはそれが誰だかすぐに分かった。


 そっと剣に手をかける。


「ナロケ、それはあなたの父さんじゃないわ」


 少女はイルファンの声に反応して、すこしだけ身じろぎした。


「帰ってきたの」ナロケが言った。

「残念だけどそうは見えない」


 イルファンはうつろに呟く少女に素早く駆け寄ると、怪しげに立つ男から引き離した。意外なことに何の抵抗もなかった。ふらふらと尻もちをついたナロケは、そのままゆっくりと地面に横たわる。まるで、眠り込んでしまっているようだ。


 イルファンは油断なく、男へと視線を送った。


「何者」

「父親だ。ずっとそうだった」


 やけに透き通った声だった。


「いいえ。まともな奴なら子どもを森に連れていかない。父親なら尚更ね。あんたはたぶん人魔だわ。でも人魔ならきっと私をここまで近づけたりしないわね……」

「返せ」


 まるで頭のなかに直接響いているような。


「だったら、あんたはきっと深魔よ。霊体かあるいはもっと良くないものね」


 イルファンの言葉を聞いた男の輪郭が少しずつぼやけていく。

 ケインの薄光に照らされるその姿が崩れていく。


「死んでなど、いるものか」

「姿がぼやけていく……まさか本当に幽霊なの?」

「ナロケに会いたくてここまで来たのだ」

「嘘つけ。でも、カバネビトなら喋らないはずだし……」


 イルファンは幽霊という深魔の存在をリアトから聞いたことはなかった。それにもっとも近しいのは伝説が形をなしたもの、すなわち怪魔であるが、ナロケの父親がそのような伝説級の存在位格を有していたとは思えない。そんな伝説があるような人物ならナロケもそのように話したはずだ。平凡な男が、その姿のままに現れるなど今までに聞いたこともない。そんな平穏きわまりない深魔がいるのだろうか。


「あんたは一体何なのよ」

「そういう君こそ、誰、だ」男は言った。

「なに?」イルファンは思わず問う。

「お前は、誰だ?」


 男は尋ねていた。

 自分の名前を尋ねていた。

 イルファンの疑念が寒気へと変わった。

 

 違う。

 これは幽霊ではない。

 ナロケの父親ではない。


「誰だ」

「名前を知って、どうするつもりなのよ!?」イルファンが問う。

「誰だ?」


 その声にもはや心はない。

 妙な圧力から逃れたいとイルファンは思った。

 それゆえ、


「いいわよ、教えてあげる私の名前は、」


 なにか適当な偽名を言おうとしたそのとき。


「誰だ。ナロケ、その子の名を教えてくれ」男がそう言った。


 イルファンの脳みそがぐるりと回った。

 無駄な二回転、三回転。

 その間に放心していたナロケが口を開く。

 四回転。これは危険な状況だ。


 しかし、危機を理解したときにはもう遅かった。


「その子はイルファン。友達なの!」

「あぁ――!! ありがとう、イルファン。イルファン。イルファン」


 背筋が泡立つのを感じた。

 これはあの時と同じ、ノゾキミの時と同じ感触だ。

 たぶん自分はいま、深魔の標的となったのだ。


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