(6)

 掲示板の周りにたむろっている生徒たちも、岳と同様に驚いていた。

 教師や生徒からの信頼も厚く、模範的な優等生でもある彼女が、停学処分を受けた。その事実に衝撃を受けない者などいなかった。

 そして同時に、彼女の処分の掲示を目にした人々は、ある言葉を、口を揃えて呟いていた。


 「やっぱり、あの噂は本当だったんだ」


 噂というのは昨日、田辺に聞かされた通りの、男と一緒にホテルに入っていく笠嶋真琴の姿を見た、というものだった。

 多くの生徒たちが立ち代わりで掲示板を目にしていく中で、岳は呆然と立ち尽くしながら、噂の光景を頭の中で想像する。

 年の離れた男と共に歩く彼女を想像し終える前に、景色が歪んで闇に飲まれていってしまった。


 ――嘘だよ……笠嶋さんにかぎってそんなことあるはずが……


 信じられないと否定しながら、トボトボと歩き出し、教室へと入っていく。

 クラスの中でもその話でもちきりで、耳を塞ぎたくなるような気持ちで彼は席に着いた。


 一つだけ席が空いた状態の教室で、朝課外の授業が始まった。

 彼女の事は、担任の先生がホームルームで詳しく話してくれるだろう。そう言ったっきり、授業を担当する先生は、その話題について触れる事は無かった。

 クラス大半の人は、授業どころではなかっただろうが、黙って教科書と板書に向き合っていた。


 ホームルームになって、担任の先生から彼女の停学処分についての説明があった。

 処分の理由は、彼女の学外でのある行為が、条例且つ校則に違反するものではないかという声があり、本人に確認したところ、事実を認めたから、ということだった。

 違反した内容を詳細には話さなかったが、話さなかった事によって、噂の真実の度合いが増したようにみえた。


 教師からの報告を一言一句逃さずに聞いていた岳は、頭を抱える。

 とてもじゃないが、彼女が男とホテルに行った事など信じられなかった。

 彼女は男に襲われた過去を持ち、それ故に男性を避けて過ごしてきた。


 ――なにか理由わけがあるんじゃないのか?


 考えてもキリは無く、授業を受ける内に段々と冷静になってきた彼は、一連の事件について考え込むのをやめた。

 彼女とは、四か月も前に告白して、フラれただけの繋がりに過ぎない。

 そして、考えたところで、彼女に振り向いてもらえるわけでもないのだ。


 ――でも、彼女と付き合えないからって考えないのは……


 そんな打算的な考え方におかしさを覚えた。


『姉が困っていたら、椿本先輩が助けてあげてください』


 彼女の妹に言われた言葉を思い出す。

 思い出して、自分の中のおかしさと一緒に消し去った。


 ――もう僕は、笠嶋さんには関わらない。


 岳はそう心に決めて、ポツンと空いた彼女の席を視界の端からその外側へと移した。





 それから一週間、岳含むクラスメイト達は、笠嶋真琴のいない時間を過ごす事になった。

 特段、それによる変化や影響はなく、度々話題に挙がる事はあったが、通常通りの学校生活だった。

 岳も彼女と関わらないと決めてから、気持ちがスッキリして、変わらない毎日を送る事ができた。


 そんなクラスの雰囲気が如実に変化したのは、一週間後の月曜日。停学処分を終えた彼女が、クラスに戻ってきてからだった。

 元々、男子とは関わらないようにしていた彼女は、この一件をきっかけに女子にも関わらなくなってしまった。

 数人の女子が声を掛ける事があったが、それを無視して以来、誰も彼女に寄り付かなくなり、完全に孤立していた。

 そんな彼女の姿を見て、岳も心配したが、もう関わるのをやめると決めた為、声を掛ける事は無かった。


 彼女は、毎日の放課後、教室で反省文を書いている。

 自然と教室には彼女以外の誰もいなくなって、一人で黙々と机に向かっていた。

 停学処分の明けた日から、その光景は見る事ができた。

 初日にその光景を横目に教室を出た岳は、ズキンと頭の奥に痛みを感じていた。

 それは二日目の放課後にも同様に起きて、三日目を迎える。



「帰ろーぜー」


 田辺にそう声を掛けられる岳だったが、その反応は鈍く、ぼうっとしていた。

 空気が重く圧し掛かってくるような気だるさと、激しい頭痛がして、田辺の言葉を理解するのも遅れていた。


「大丈夫か? あんまり続くようだったら病院行った方がいんじゃね?」

「……大丈夫。学校出たらすぐ治まるからさ」


 「行こう」と言って岳は教室を出ていくが、すぐに立ち止まって、自らの頭を右手で抑える。

 この三日間で最も強い頭の痛みに襲われるのと同時に、岳の頭の中ではある光景が浮かんでいた。


 パイプ椅子に座った男女二人が、一室で何かを話している光景。


 それが思い浮かんだ途端に、田辺と共に学校の門へと向かおうとしていた岳の足が、自然と違う方へと向かっていった。


「え? ちょ、おい! どこ行くんだよ!?」


 田辺の質問に答える事無く、一心不乱に歩き続けた彼は、ある部屋の前に辿り着く。

 「数学科準備室」と書かれた表札を見て、足を止めた。

 一度も訪れた事のないはずの部屋なのに、彼の中では全くそんな気がしない、不思議な感覚だった。

 岳は、考える間もなくドアノブへと手を伸ばして、扉を開けようとしたが、鍵が掛かっていて開かなかった。


 ――なんだ今の……?


 開かなかった扉が、開いた気がして、その瞬間から頭痛も治まっていく。


 ――ぼやけてる……


 同時に、頭の中に浮かんできたそれはまだ不鮮明でなにがなんだかわからなかった。



「どうしたんだよ、ガク? なにかに憑りつかれでもしたか?」


 田辺の心配する声で現実に引き戻された岳は、自分でも意味不明な行動だったと思い返す。

 しかし、その行動に至った根拠が、自分の中に存在している事だけは、確信していた。


「ごめん。ちょっと用事できたから、先帰ってて」

「お、おう。夜、ゲームはやるんだろ?」


 岳が頷くのを確認すると、田辺は心配そうに彼の事を眺めながらも、最終的には離れていった。

 数学科準備室の前で一人、取り残された岳は、頭の中を整理しながら、ゆっくりとした足取りで教室へと戻っていく。


 彼が教室に戻ると、既に人は疎らの状態だった。

 その人数も瞬く間に減っていって、数分後には真琴と岳だけが、教室に取り残されていた。

 関わらないと決めたはずの彼女と、今、関わろうとしている。

 それでも、彼の心の内は、何故か清々しかった。


 一人、黙々と反省文を書いている彼女を、岳も黙って眺めていた。

 教壇の上に立ったり、自分の席に座ったり、彼女の気が散ってしまうくらい忙しなく動きながら、彼女の様子を見ていた。

 同時に、彼は教室の様子と自らの頭の中の光景を照らし合わせていたようにも見えた。


 彼の五月蠅い行動に、一切の反応を見せる事無く、彼女は淡々と手を動かし続ける。

 とうとう彼は、彼女の目の前の席に座って、じっと彼女の作業を見つめだした。

 それに対して、呆れるようにため息を吐いた彼女は、やっとその口を開いてみせた。


「なにか私に用が?」

「用ってほどでもないんだけど、妹さんに頼まれたからさ。笠嶋さんが困ってたら助けてあげてって」

「だったら、私の前から今すぐ消えてくれないかな? それで私は救われるから」


 彼女は、冷たい眼差しを彼に向けながら、重い声色でそう言った。

 彼女のお願いを聞いた岳は、尚も彼女の事をじっと見つめたまま動こうとはしない。

 その行動は、嫌がらせにしか捉えられず、流石の彼女も不快そうに眉をひそめる。


「消えてって言ってるのが聞こえなかった? もしこのまま、私の前に居座り続けるなら、悲鳴上げて人を呼ぶわよ」

「それは困るから、一つだけ僕のお願い聞いてくれない? そしたら、消えるからさ」

「嫌よ。早く消えて」


 彼に対して一切の譲歩する姿勢を見せない彼女は、今にも悲鳴を上げて人を呼びそうな、敵意丸出しの表情で彼を睨める。

 それでも、引き下がろうとしない彼は、一つのお願いを口にしてみせた。


「笠嶋さんの手で、僕を殺してくれない?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る