(16)

「お腹空いたね」


 花火が終わった後、すぐに、真琴はそう呟いた。

 彼女の声は、岳には籠って聞こえる。

 どうやら、花火の音で耳をやられてしまったらしい。


「ラーメン食べたいな」


 続けて聞こえてきた言葉も、耳がおかしくなったせいで、そんな風に聞こえてしまったのか。

 答えはノーで、正真正銘、真琴の口から出てきた単語だった。

 岳は、彼女から飛び出したラーメンに驚きつつも、彼女の要望に応えようと、駅周辺の店を思い出す。

 今日の日の為に、散々調べた事が、役に立っている事に感謝しつつ、彼は一つの店に候補を絞った。

 

「じゃあ、行こうか」


 自分の声も変な風に聞こえる事に違和感を覚えながら、彼女を先導して、岳は歩く。

 一番下の階までエスカレーターで降りるのも面倒くさいので、二人はエレベーターで一階まで下りると、駅の東口の方へと向かった。

 その道中で、真琴は岳に、ふと尋ねかける。

 

「花火見てた時、手を握ってきたのは、どうして? 彼女と浴衣と花火の、ロマンチックなシチュエーションに、ツバキくんが興奮したから?」


 全くもってその通りで、言い訳のしようもなく、岳は感情に流されたものだったと、素直に、彼女に謝る。


「ごめん。なんか、真琴さんと花火見てたら、繋ぎたくなっちゃって……嫌だったよね?」

「嫌ではなかったけれど……握り返してあげた方が良かった?」


 「そうだね」と肯定されるかと思いきや、否定された上に、求めていた事まで尋ねかけてくれる。

 彼女の優しい部分に触れられて、岳は感動しながら、彼女の質問について考える。

 あの時、握り返してくれたら、彼は嬉しかったに違いはないが、無理やり彼女にやらせるのも、違う気がする。


「そうされたら、嬉しかったけど……でも、もう一度、そんな場面になったら、真琴さんの意思で応えてよ。僕は、それを受け入れる」

「じゃあ、一生、握り返すことはないかもね」


 冗談のようだが、多分、彼女は本気でそう言っている。

 岳も、その事は十分に承知している。

 だから、彼女に振り向いてもらおうと、花火が打ち上がる前に、その決意を口にした。


 それを聞いた時、彼女は、彼に何かを伝えようとしていた。

 その事を思い出した彼は、ついでに聞いてみる。


「そういえば、真琴さんは、花火の前なんて言おうとしてたの?」

「花火の前……? ああ。あの時の……もう忘れちゃった……」


 真琴はそう答えたが、岳はそれを嘘だと思った。

 聞こえていなかったのなら、それで良いという彼女の意思だろう。

 そういう受け取り方をしてしまったらもう、これ以上知ろうという気にはなれない。

 彼女も沈黙を望んでいるのだから、そうしようと岳は黙った。


 二人は目的のラーメン屋に辿り着いて、中へと入っていった。

 食事中の会話の殆どは、ラーメンに関する事ばかりだった。





「ツバキくん。今日は、付き合ってくれてありがとう」


 ラーメンを食べ終わった二人が店を出ると、真琴はそう言って、自らの頭を下げた。

 お礼を言いたいのは自分の方だと、岳はすぐさま、口を開く。


「僕の方こそ、ありがとう! 本当に楽しかった!」


 それを聞いた彼女は「良かった」と微笑むと、岳に持たせていた鞄を自分の手元に持ってくる。

 岳にとっては、物凄く濃くて、充実した長い、彼女と過ごした一日だったが、これで終わろうとしている。

 名残惜しく、もっと彼女といたいという気持ちもあったが、それを抑えながら、彼女と向き合っていた。


「今度、機会があったらさ。僕の方から真琴さんを誘っても良いかな……?」

「うん。ちゃんとした目的のあるところだったら、ついていってあげても良いよ? それじゃあ」


 彼女がそう答えてくれたので、岳の中のやる気も必然的に上がる。

 今度は自分から色々と計画して、喜ばせてあげようと、胸を躍らせた。

 そんな彼に、限界まで近づいていく彼女は、その耳元で呟く。


「木下さんのこと、もう、ツバキくんは気にする必要ないから……また、月曜日に」

「えっと……ん? どういう……?」


 彼が尋ねる間もなく、彼女は振り返って、彼に背を向け、歩き出した。

 それは、木下が、彼に忠告してきた時と少し、似ている感じがした。





 月曜日。

 真琴との幸せな一日から日曜日を挟んだこの日。

 重い足取りで教室へと入る岳は、どこか気分が落ち込んでいる。

 月曜日なのだから、そうであってもおかしくはないが、原因は、週の始まりだから、という単純なものではなかった。

 彼の頭を悩ませているのは、勿論、真琴に関する事だ。

 そこまで気にする必要もない些細な事で、彼は落ち込んでいる最中だった。


「はぁー……」


 岳は、自分の席に着いて、早々に深いため息を漏らす。

 鞄を机の横に掛けながら、気を紛らわす為に、小テストの勉強でもしようとしていた時だった。

 彼の前に、一人の同じクラスの女子が現れて、声を掛ける。


「椿本くんは、ため息ばっかりついてるねー。そんなんじゃ、幸せが逃げていっちゃうよ?」


 そんな言葉だけを伝えに来たとは到底、思えない人物。木下亜美がそこにいた。

 岳の過去を知っていると言いながら、土曜日のオープンキャンパスには行かない方が良いと、忠告までしてきた。

 あれはもはや、脅しと言っても過言ではなく、岳もそう捉えていた。

 自然と身構える彼に、彼女は言う。


「そう身構えなくても、もう二人の邪魔をしたりはしないよー。わたしはもう、土曜日で懲りちゃったからね」


 本当の事を言っているのか分からない彼女は、岳の前の席の椅子に、本来の仕様とは逆向きに座って、彼と向き合う。

 完全に彼女の事を警戒している彼は、彼女の言葉を聞いても尚、警戒を解く事はない。


「大丈夫だって……! まあ、いっか。椿本くんとはもう、前みたいに仲良くしていく気もないしねー。ところでさ、わたしね。言ってなかったと思うんだけど、まーちゃんのことが、好きなんだよ?」


 彼女の言う「好き」は、多分、友達としての「好き」ではなく、恋愛としての「好き」なのだろう。

 そう岳も察して、自らの目を見開かせる。

 同性愛というのは、この世界には確かに存在していたが、それを目の前にするのは彼も初めてだった。


 驚きはしたが、それ以上の感情はない。

 彼は、ただ、妙に納得していた。

 真琴が好きならば、あんなに優しかった彼女が、急に脅してきた事にも説明がつくからだ。


「だから、二人の仲を引き裂こうと思って、安久さんを利用したんだけど……ぜんぶ、まーちゃんの手のひらの上だったみたい。わたしは、空回りしてただけ」


 安久の登場で、動揺させようと思っていたが、それすらも真琴が把握し、利用していた。

 そういう事だろうか、と岳は予想する。

 

「まーちゃんに釘も刺されちゃったし、わたしは、前と同じように、美しいまーちゃんだけを見守ることにしたよ。だから、ね? ――――まーちゃんを汚したら、わたし、許さないから」


 いつの間にか、真琴が話をつけていたらしかった。

 そして、どうやら、土曜日の帰り際に彼女が言っていた事は正しいらしい。

 それに気が付いた岳は、彼女の懸念している事に触れる。


「僕は、真琴さんを汚すつもりなんてない」


 「ただ、助けたい」という言葉を心の中だけで、彼は呟いた。


「わたし、ちゃんと監視してるからね?」


 捨て台詞を吐いた彼女は、一瞬岳の事を睨みつけてから、その場を離れ、自分の席へと戻っていった。





 放課後になると、真琴が岳の席の方へと近づいてくる。

 いつもと変わりない様子に見えた彼女だったが、その目は鋭く冷たいもので、岳は思わず、彼女に声を掛ける。


「真琴……さん……?」


 明らかにおかしい、異常な彼女の雰囲気に、岳は悪寒すら覚える。

 そんな真琴は、彼の呼びかけに応じる事無く、淡々と言葉を発した。


「じゃあ、いつものところで待ってるから」


 彼女は踵を返して、教室から出て行った。


 今の彼女の様子と直接、関係しているかどうかは分からないが、彼は土曜日に、彼女と別れた後に送った、メッセージを思い出す。

 感謝の気持ちを伝えただけのメッセージ。

 既読は付いたが、彼女からの返信は無く、今朝の彼の重い足取りの原因にもなったメッセージ。


 土曜日に彼女と別れてから、今日この日までの間に、何かがあった。

 そう思わせるような彼女の雰囲気に、彼は久しぶりの感情を抱く。


 今から行く場所で、彼女と何をするのか。


 そう思うと、無性に怖くなったのだ。


 ――数学科準備室へ。


 蘇った恐怖に怯えていても、それでも行くしかないと、岳は重い腰を上げて、立ち上がる。













 ――放課後、僕は彼女に誘われる。

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