崩壊-2

 それが何を意味するか、全く分からないではなかった。だが俺は、目の前のナイフがいつ降ってきて、体のどこに突き刺さるのか、それは一体どれほどの痛みであろうかーーそればかりに頭を支配された。


 死にたくない、と思ったのはなぜだろう。死んだ方がよっぽど楽だ。俺の体は自室のベッドで復活する。あるいは、これはそこまでで完結する悪夢なのかもしれない。


「こ……こ、殺さないで……」


 にもかかわらず、俺は涙を流して懇願こんがんした。かすれた声で、何度も命乞いを繰り返した。


 恐怖のあまり、ここが仮想世界であることを、忘れたのかもしれない。しかしそれ以上に、この瞬間俺は本当の意味で、自分の命を奪われる恐怖におののいたのだ。


「勘のいいガキだなァ。その通り、お前が次に目を覚ます場所は……地獄だ」


 笑みを消し、無表情の端に堪えきれない衝動と快楽をにじませて、男はナイフを振りかぶった。


 血に塗れた鈍色にびいろの刃が、一切の躊躇ちゅうちょなく、真っ直ぐ俺の喉元に落ちてくる。万力まんりきのような圧力で腹を踏み抜かれ、身動きも悲鳴も許されなかった。


 三角屋根の上に、俺の標本が完成するーー寸前。一陣の風が路地裏から吹き上げたかと思うと、石瓦いしがわらを蹴散らしながらすっ飛んできた何かが、俺の上に乗る男の体を目いっぱい蹴り飛ばした。


「ぐぇッ!?」


 潰れた悲鳴を上げて屋根の外に放り出された男は、キリモミ回転しながら落下し、硬い石畳の上を派手に転がってようやく止まった。


 黒いコートが、月夜にはためく。


 咳き込む俺の前に着地した少年は、短く切り揃えた茶髪を逆立て、激昂げきこうしていた。いつも柔和な猫目は敵意剥き出しに血走って、転がった男を睨み付ける。


 息も絶え絶えだ。スタミナゲージが尽きるのにも構わず、足を止めずにここまで走ってきたらしい。


「てめぇェ……人の兄貴に、なにしてんだァッ!!!」


 今にも殴りかかりそうな剣幕で怒号を放つシュンに、呻き声を上げ、男がよろりと立ち上がる。衝撃でフードが外れ、素顔があらわになっていた。禿げ上がったひたいの上に乗っかった、ボサボサの赤毛。病的に落ち窪んだギョロ目。


 あれほど怪しげなよそおいをしておいて、フードを取っても印象が和らがないとは思わなかった。


「兄貴、無事か!?」


「ぁ……あぁ……」


「誰だよあのキモいの? さっきのアルカディアの放送聞いて、フィールドから急いで戻ってきたんだけどさ。何が起きてんだよ」


「俺にも、分からない……」


 シュンは肩をすくめ、目線を男へ戻した。


「兄貴がそうなら、誰も分かんねぇだろうな。……でも、ちょうどあいつが詳しそうじゃねぇか」


 シュンはとんっと跳躍して屋根から飛び降り、男と同じ石畳の上に着地した。


「おい、よせ!」


 俺の制止にも取り合わず、シュンはその鳶色の目に激情の炎を灯して、男をじっと睨みつづける。


「ゲイル……それがあんたの名前か。NPCじゃないんだな」


 プレイヤーの顔に視線を二秒以上合わせると、《ターゲット》状態となり名前とHPバーが表示される。フードが外れたことで、俺にも男の頭上に浮かんだ《Gail》の文字が見える。


「ったく、いいとこだったのに邪魔してくれちゃって……覚悟はできてんだろうなァ!?」


「当たり前だろ。家族に売られた喧嘩ケンカは、オレが買うって決めてんだ」


 次の瞬間、シュンは石畳を蹴り飛ばし、一歩でゲイルの目の前まで肉薄した。「にィッ!?」頓狂な声を上げたゲイルの顔面に、ハンマーのような拳が炸裂。


 間一髪ガードを挟んだものの、ゲイルは石畳の上を滑るように数メートル吹き飛ばされた。


「ひょ、ひょぉぉっ!」


 目を輝かせ、今度はゲイルが突進した。俺のダガーを片手に構え、フェンシングのように突き込む。


 シュンはギラつく刃に欠片もおくすことなく、首を傾けて第一撃をかわすと、ヒュンヒュン高速で振り回されるナイフをことごとく回避していく。


 何度目かの突きをかいくぐって間合いを詰めたシュンは、ナイフを持つ手の肘を掴んで強烈な膝を入れた。一瞬動きが止まったゲイルの腹に、渾身の蹴りが突き刺さる。


「ぐおっ!?」


 盛大に吹き飛んだゲイルが、石畳をごろごろ転がっていく。俺は呆然と口をあける。喧嘩慣れした身のこなしだったゲイルが、まるで子ども扱いだ。我が弟ながら、同じ人間とは思えない。


「……っふ」


 小さく、シュンが咳き込んだ。幼さの残る口元の端から、一筋の血がふきこぼれる。


 目を疑った。なぜかシュンのHPの方が、ガツンと減っている。気丈に立っているが、彼が握り込んだ脇腹からはーー鮮血が栓を抜いたように溢れ、インナーと黒いコートをみるみる赤く染めている。


「……い、イヒヒヒヒッ! お前つえぇなァ。このオレが相討ち狙わされるなんてよォ」


 けろっと立ち上がったゲイルが、見せびらかすように掲げた俺のナイフは、シュンの血でベトベトに濡れていた。ゲイルのHPは、ろくに減っていない。

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