(3)婚礼の夜


 金の装飾を施された白い扉が、ゆっくりと開いていく。


 扉の向こうには、僅かな明かりしかないのだろう。扉が開くに従い、ゆっくりと薄闇に包まれた狭い通路が現れてくる。


 知らない道に通じる扉が開くのを、ディーナは息を飲んで見つめた。


 動いていく扉は音もなく静かに開くと、暗闇の中から、薄紫の長い布を頭からヴェールのように被った人物の姿を現す。被った布のせいで顔は見えないが、身に着けた服は王が執務のない時に好んで着ている柔らかな青の上下だ。


 ごくりと、ディーナの渇いた喉が嫌な音をたてた。


(逃げたい)


 だけど、許されるはずもない。


 だから、礼をすることさえ忘れてしまうほど、絹で覆われたベッドの上から動くことができなかった。


 けれど、ヴェールを被った姿は、部屋の中に一歩入ると、ゆっくりと室内を見回している。


 そして、下半分しか見えていない口を動かした。


「誰もいませんね」


(うん?)


「今の声……、まさか」


 震える指を持ち上げて、ディーナが入って来た人物を指さす。


 その声に周囲を見渡したヴェールを被った男が、頭の布をばさっと取った。


「イルディ!?」


 取り払われた薄紫の布の下から現れた顔に、思わず叫ぶ。


 けれど、突然王の通路から現れたイルディは、布を腕に持つと、いつもと変わらない表情でディーナを見つめている。


「どうして……」


 泣きそうになってしまう。涙が滲んだディーナを見つめるイルディの瞳が、ふと柔らかく微笑んだ。


「陛下から、アグリッナ様との結婚を周囲に認めさせ、アグリッナ様を振り向かせた功績で、陛下の影武者も勤める側近に迎えられました」


「影武者!?」


 意外な言葉に、肩が跳ねるほど驚いてしまう。きっと見上げている目はまん丸になっているだろう。


 それなのに、次第に笑いがこみ上げてきた。


「そう……、そうよね」


(それでこそ、陛下よ)


 十年。どれだけ貴族や弟に口すっぱく言われても、アグリッナへの純潔を貫き続けた。十年の筋金入りの想いが、今更簡単に変わるはずがなかったのだ。


 いくら、非常事態でも。


「じゃあ、この事はアグリッナ様もご存知なの?」


「はい。陛下がアグリッナ様を守るためだと土下座をするようにして説明されていましたから。もちろん、貴女が嫌なら、陛下の顔に泥を塗ってでも、遠慮なくやめるようにと言われましたが」


「嫌なんて……」


(まさか、また会えるなんて思わなかった……)


 だから見つめる姿に、涙が滲んでしまう。


「ディーナ、私が陛下の代わりでは嫌ですか?」


 その瞬間、考えるよりも先に腕が伸びていた。


(嫌なんて、あるはずがない!)


 両腕で、二度と会えないと思っていた人の首を抱きしめる。


「嫌なんて……ない!」


 二度と一緒にいられないと思っていた。想いを告げることさえ、これからは許されないのだと――。


 それなのに、不意に許された想いに、ディーナの唇に嗚咽と共に言葉がこみあげてくる。


「私は、貴方だから……いいの。イルディが、好きなのよ……!」


 なんて無様な告白だろう。綺麗に施されていた化粧は、こぼれてくる涙でぐしゃぐしゃだし、駆け引きのかけらもない。


 これが社交界の悪の華だなんて、誰に言っても信じてもらえないだろう。


 それなのに、抱きついたイルディの首から香る、牢の中で髪を梳いてくれた指と同じ匂いが嬉しくて、涙がとまらない。


 突然の告白と同時に抱きついてきたディーナに、イルディは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに両腕を背中に回すと、優しく抱きしめてくれた。


「私も、ずっと貴女が好きでしたよ、ディーナ」


 耳を打つ優しい声音が信じられない。しかし目の前で、イルディは幸せそうに笑うと、まだ強く抱きしめているではないか。


 体を包む腕の温もりと懐かしい匂いが、嘘ではないとディーナに伝えてくる。


「本当に……?」


「ええ。最初に会った時から、なんて生き生きとした方だろうと思っていました。美しいのに、機知に富んでいて、自由に生きている――。ずっと側にいるうちに、気がつけば、貴女のことばかり見てしまっていました」


「じゃあ、あの夜の口づけは……」


「あれは不意打ちでしたね。自分で仕掛けておいてなんですが、まさか貴女が媚薬を飲んでしまうとは思わなかったので。赤くなっている貴女があまりに可愛くて――気がつけば、口づけてしまっていた」


 苦笑しながらの告白に、驚いてしまう。


 だから、じっとイルディの笑っている黒い瞳を見つめた。


「じゃあ、弟妹が薬を飲む時にしてあげるからと言っていたのは……」


「いくら私でも、弟妹に飲ませるのに口を使ったりはしませんよ。女の子はおませなんです。確実に嫌われるじゃありませんか」


「あ……、そうよね」


(言われてみれば、私も弟のキュードに口移しで食べさせたことなんてなかったわ……)


 けれど、頭が動転してイルディの言い訳を信じてしまっていた。どれだけ突然の口づけに余裕をなくしていたのか、今ならわかる。


「貴女につい口づけしてしまった後、しまったと思いました。あの時に、それまではっきりとしなかった自分の気持ちを自覚して――。それからは、毎日が理性と感情の戦いでしたね」


「イルディでも、そんなことがあるのね」


 くすっと笑ってしまう。


「当たり前でしょう? 私ぐらい感情が豊かな男はいませんよ。なぜか外面はいつも逆に見られるのですが」


 真面目な顔で言われた言葉に、つい噴出してしまう。


「だって、無理よ。そんなに動かない表情で、陛下の寵姫になる話を進められているのに。私も少しもイルディの気持ちに気がつかなかったわ」


「心外な。私は、陛下にからかわれるぐらい貴女を見つめていましたのに」


 続いた言葉に、更に噴出した。


「そりゃあ、陛下からの仕返しよ。いつもアグリッナ様への行動をからかっているから」


(ああ。だけど、だから陛下は私達の気持ちに気がついて、こうしてくれたのだ)


 あの時、イルディを解任するようにアグリッナに勧めたことも。アグリッナがじっと陛下を見つめて、頷いた事も。ずっとイルディを側近にしたがっていた陛下の考えを察したのだろう。


 だから――もう一度会えるようにしてくれた。


 じっと見つめていると、泣きそうになる。でもそれは、さっきまでの辛い気持ちではなく、好きな人の側にいられるという幸せな暖かいものだ。


 ぽろぽろとこぼれる涙を笑いながら拭っているディーナの前で、イルディは服の中から一枚の紙を取り出した。


「けれど、貴女が私を想ってくれているとわかって、言い出しやすくなりました。実は、これにサインをしてほしいんです」


 丸められた白い紙を広げて、書かれていた内容にディーナは青灰色の瞳を開いた。


「イルディ、これは……!」


「見ての通り、オリスデンの婚姻届です。私は、どこかの馬鹿な男と違って、貴女を弄んで捨てるつもりはない。たとえ、影武者として命じられた任務だったとしてもです。私は――これからも、ずっと貴女の側にいたい」


「イルディ……」


 ぎゅっと法務省に届ける正式な婚姻届を胸に抱きしめる。


「貴女が好きです、ディーナ。だから、これからも私と共に生きてください」


 告げられた言葉に、胸が一杯になってくる。


「私の名前は既に書いてあります。後は、ディーナ貴女の名前と、貴女が公式寵姫を罷免された後に、日付を書き込めば出せるようにしてあります。私が裏切らない証しとして、その証書は貴女が持っていてください。もっとも、貴女が私とこれからも一緒に生きていってくださるのならですが……」


「生きていくわ!」


 思わず、全身で叫んでいた。


 あまりに力一杯叫んだものだから、また涙がぽろぽろとあふれて来る。


 けれど、これはなんて幸せな涙だろう。


「そうですか。とても嬉しいです」


 いつもと同じ口調なのに、今日はなぜかひどく優しい。


「じゃあ、今日が私達の秘密の結婚記念日ですね」


 そして、そっと優しく口づけてくれた。二度目なはずなのに、初めての時よりもドキドキとして、息が苦しい。


 それなのに、なんて幸せなのだろう。


(きっと、二年後には誰にも名乗れる妻になる)


 だけどそれまでは、二人の間だけで秘密の結婚を通そうと幸せそうに笑いながら、ディーナは今日から夫になる同僚を見つめた。


 イルディも少し照れたようにディーナを見つめている。


 けれど、次の瞬間初めて見る満面の笑顔に、これ以上ない幸福を味わいながら、決して破棄されることのない婚約を結んだ秘密の夫に微笑み返した。



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