(3)出発!


 次の日、荷物を纏めたディーナの元に、イルディが迎えに来た。


「お心が決まったと伺いました」


「はい。よろしくお願いします」


 ごくりと唾を飲む。今ディーナが身につけているのは、瞳に合わせた薄い青灰色の軽やかな旅装だ。既に隣に置いている薔薇の飾りをつけた帽子をかぶれば、いつでも出発することができる。


 覚悟を決めて、真っ直ぐに見つめてくるディーナに、イルディは好ましそうに微笑んだ。そして、旅支度を調えたディーナの前に、重そうな箱を差し出す。


「では、こちらを。依頼を受けていただいたことへの、公爵令嬢からの手付金です」


「こんなに!」


 小さなテーブルの上に置かれた黒塗りの箱には、両手で持っても溢れるほどの大量の金貨が詰められている。箱から燦然とこぼれる金色の光が、ディーナの息を飲ませた。


 もちろん、後ろで見つめていたキュードもだ。


「オリスデンの金額にして、三百万リブルございます。それをこのオーリオの貨幣に両替いたしました」


「三百万――!」


 軍事強国のオリスデンの貨幣は、このオーリオのより価値が高い。おそらく倍近くになるだろう金額に、ディーナはほっと息をついた。


(これで、今月と来月の支払いは大丈夫)


 利子をつけられて雪だるま式に膨らんだ借金とはいえ、さすがにこれだけあれば暫くは凌げる。


 だから、後ろにいるキュードを振り返りながら、旅行用の鞄を手に持った。逃亡の間よく使った茶色の革の鞄は、もう持ち手が擦り切れて白くなりかけている。


「じゃあ、行ってくるわね。後は頼んだわよ」


「姉さん――」


 心配そうにキュードが見つめてくるが、もう後戻りはできない。


 だから、ディーナは自分自身の迷いを断ち切るように鞄を持ち上げた。


「お願いします」


 そして、待っているイルディのところへと歩いていく。自ら真っ直ぐ顔をあげて、初夏用の旅装で微笑むディーナをイルディは見つめると、案内した馬車の扉を開いた。


 中は、今までにディーナが乗ったどんな貴族のものよりも豪華だった。座席には、紫のビロードが上品に張られていて、腰をかければ沈んでしまうほど柔らかい。さすがは公爵家の持ち物だ。馬車の内側に細かく菱形に張られた白い絹の内側にも、小さな薔薇が金糸で刺繍されていて、些細なところまでが洗練されている。


(これから、本当に今まで育ったのとは違う世界に行くんだわ……)


 一緒に乗り込んだイルディが向かいに座るのと同時に、馬に鞭が当てられた。


 嘶きながら走り出していく馬車の窓から覗くと、後ろでキュードが必死に手を振っている。


「姉さん! いつでも、帰ってきていいんだからね!」


(帰れる筈がない)


 こんなに大量の手付金までもらって。


 だから、ディーナは無理にでも強気に微笑んで手を振ってみせた。


 そして、馬車の中へと視線を戻す。


(もう、帰ることはできないんだから!)


 馬車が進む方向にまっすぐに視線を向けると、前ではイルディがほとんど表情を変えないまま自分をじっと見つめている。


「いいのですか? 王に気に入られれば、かなり長い間のお別れになりますよ?」


 きっとキュードへの別れのことを言っているのだろう。


 だからディーナは美しく笑ってみせた。


「いいのよ。そのつもりなんだから――」


(この男には、一度素を見せてしまったせいか、どうにもやりにくい)


 それはディーナの艶麗と讃えられる笑みにも反応しない鉄面皮のせいなのか、ひどく真っ直ぐに見つめてくる瞳のせいなのかはわからないけれど。


 しかし、誤魔化せないならかえって本音でやりやすいかも――とディーナは口を開いた。


「さっきの金貨なんだけど……手付金にしては多くないかしら?」


 なにしろ、自分はまだ公爵令嬢にさえ会っていないのだ。それなのに、あれだけの金を渡されたということは、既に正式に採用ということなのだろう。


 すると、イルディは「ああ」と微かに口元を緩めた。


「今回の人選に関しては、私に一任されております。もちろん、本決定は公爵令嬢にご面会をしていただいてからですが――お金に困っておられたようでしたので」


「なぜそれを?」


 ぎくりとディーナの背中が強張った。


(借金の話はしていない筈だ)


 もちろん、社交界でも父が負った借財は、既に遠い親戚が全て返してくれたことになっている。


(だから、昔苦労したせいで、お金に汚い女としか思われていないはずだけど……)


 どこから伝え聞いたのだろうと、背中に汗が滲んだ。


 しかし焦っているディーナに対して、イルディは涼しい顔だ。そして馬車の窓から流れてくる風に、乱れた横髪を手でそっと後ろに流した。


「絵画の中に、いくつかよく似た贋作が混ざっておりましたので。かなり精巧な出来でしたから、本物を模写させた後に売り払われたのかと思ったのです」


(こいつ!)


 今まで誰にも気づかれなかった贋作を見破られたことに、ディーナは両手を膝の上で握り締めた。


「それで事前に調査させていただいていた貴方の情報と合わせて、男性を手玉に取っておられるのは金の為だと判断しました。それなら、同じくこの任務にも、金の為に真摯に取り組んでいただけるだろうと推察したのです」


「調査って――!」


(出会ったのは昨日で、ボレア伯爵から話を聞いてからだって、オリスデンとの往復が精一杯な日にちしか経っていないはずなのに……!)


 けれど、イルディの表情は動かない。


「王の側にあげる女性です。最初に幾人かの候補者を挙げた時点で身辺を調査し、似姿を手配させました。それで貴方を指名したのです」


 淡々と綴られる言葉に、握り締めた手が震えてくる。


「そう。じゃあ、私は、少なくともお眼鏡に適ったということなのね?」


「はい。私は昔王家の学校で学んでいたので、王の性格や好みもよく存じております。だから、貴方がもっとも適任だろうと選ばせていただきました」


 イルディの瞳を揺らしもしない言葉に、ディーナは一度大きく息を吸い込んだ。


(こいつ!)


 そして、馬車の中で大きく足を組み直す。


「いいわ! そっちがその気なら私も本気で取り組ませてもらおうじゃない! どうせ金を返すあてはないんだし!」


(それなら、死力を尽くして寵姫の座を射止めるしかない!)


「それでオリスデン王を誑かして、公爵令嬢との婚約を破棄させればいいのね?」


「はい。我がオリスデンには公式寵姫という位がございます。これをぜひ射止めていただきたいのです」


「公式寵姫?」


(聞いたことのない身分だわ)


 確かオリスデンは、オーリオと同じキルリアン教だったはず。


(それなら、教義で同じ一夫一妻制のはずだけれど……)


「詳しいことは、オリスデンについてから説明いたします。簡単に言えば、王にとって最愛の人に贈られる地位だと思っていただければ結構です」


「なるほど――つまり歴代の王妃にとっては完全な悪役というわけね」


(ふん! 宮廷の悪役の女性!)


「それこそ、社交界の悪の華といわれた私にふさわしいわね!」


(やってやろうじゃないの!)


 国王だかなんだか知らないが、一皮剥けば同じ男。籠絡できないということはないだろう。


 だから、ディーナは、薄く笑っているイルディをきっと見つめた。


「じゃあ、早速攻略相手の情報をちょうだい! 一体、オリスデン王とはどんな人物なの!?」


「はい。大変に勇猛で、政治的センスにも優れた名君です。戦場では常に前線に赴かれ、自ら兵士を鼓舞して獅子奮迅の戦いをなさるので、オリスデンの金の獅子と呼ばれております」


「へえー」


(なんだか意外だわ)


 先にロリコンだのストーカーだの余計な話を聞いたせいだろうか。なんだかひどく立派な気がする。


「すごく勇猛な方なのね」


 目を瞬かせたディーナに、イルディは大きく頷いた。


「はい。ですから、戦場からお帰りになった時には、身につけられている鎧の血がまだ拭いきれていないことも多々ございます。そのまま幼い公爵令嬢の元へ行き、血だらけで抱き上げられようとして皆の前で頬を叩かれたのは、王の武勇とは切っても切り離せない伝説となっております」


「えーと……」


(なに、その反応に困るエピソード)


「それは、また……熱愛と言っていいのか――」


(うん。とりあえず綺麗な言葉で纏めておこう)


 だから目を伏せて言ったのに、更にイルディは深く頷いている。


「はい。ですから王もさすがにまずかったと思われたのでしょう。公爵令嬢に急いで、敵から奪った戦利品という見事なダイヤモンドの首飾りをプレゼントされました」


「ちなみに反応は?」


「両頬に往復ビンタを喰らいました。敵から略奪するとは何事かと! すぐに王は泣きながら、本当は賠償金代わりに贈られたものを、勇ましく思われたかったから嘘をついたと白状なさいました」


「なに、その残念エピソード」


 けれど、イルディは両手を馬車の中で組んだままゆっくりと微笑んでいる。


「ですから、さすがに王も懲りたのでしょう。次の戦いでは、全軍に占領地での一切の略奪や暴行を公式に禁じられました」


「やっと、王様らしい話になったわね」


(よかった。これ以上微妙な話が続いたら、さすがにどう反応したらいいのかわからないところだった)


 それなのに、イルディは薄く笑っている。


「はい。お蔭で征服した街での王の人気はうなぎのぼり。街の女性への暴行を禁じてくれたと、町長が王に感謝して滞在中伽をする女性を進呈しようと申し出られました」


「あら――じゃあ、王はその女性と?」


 さすがにこれは少し訊きにくい質問だった。だけど、王の性癖を知るためには必要なことなのかもしれないと、手で口元を覆いながら尋ねる。


 しかしイルディはゆっくりと首を振っている。


「いえ、王はきっぱりとお断りになりました。婚約者がいるから不義はできないと」


「まあ」


(意外と真面目な方なのかしら)


 確かに、公爵令嬢の年齢は人よりは幼いけれど、それでも――と、ディーナは微笑ましく目を細めた。


「だったら、その婚約者殿に何か贈り物を致しましょうと町長が申し出たそうです。その瞬間、王は『じゃあ子供服の専門家を呼んでくれ! このドーリアには素晴らしいデザイナーがいると聞いたから、彼女が喜んで私に口づけしたくなるようなのを作ってくれ!』と叫ばれました」


「え!?」


「その話があっという間に広がり、王がロリコンという噂が占領地で一気に広まったそうです」


 思わずディーナの方がこけてしまう。


「だからなんなのよ! さっきからのその残念エピソードの連発は!?」


 しかし、イルディは涼しい顔だ。


「おや。我が王の国内ではいずれも有名なエピソード揃いですのに。これだけ並びなき逸話をお持ちなのは、世界広しと言えども二人とはおられますまい?」


「そりゃあいないわよ! ここまで頭を抱える武勇伝!」


「そうでございましょう。それだけに我がオリスデンでは、王の武勇を讃えるのと同時に溜息をつくことが最早習慣になっているのです」


「普通後者はないから!」


 けれど、よく考えたらこれが今回のターゲットなのだ。


(え? 私、この相手を攻略しないといけないの?)


 だけど、どう考えても攻略の糸口が見つからない。


(ちょっと待って! こんな常識が通じない相手どうすればいいの!?)


 オリスデンへと走る車輪の音が響く馬車の中で、ディーナは叫んだ口をおさえながら自分が青くなっていくのを感じていた。 


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