第20話 リュドミラと午睡

 

 クローヴィスは東の塔を見上げながら大きくあくびをする。

 穏やかな昼下がり。訓練の合間の休憩中。日当たりがよいので、青々とした芝生に寝転がって眠ってしまいたい。

 そうだ、とあることを思いついた彼は、意気揚々と東の塔の階段を駆け上がる。

 リュドミラはベッドのヘッドボードに体を傾ける姿勢で本を読んでいた。なに、と言いたげに琥珀色の瞳が向く。


「そこにいても気が滅入るだろ。外に出よう」

「外で、何をするの」

「散歩だ、散歩」


 リュドミラの返事を聞かないまま、小柄な体を持ち上げる。

 皇女が彼の太い首にしがみつき、「まだ何も返事をしてないのに……!」と不満を漏らした。


「外はとても天気がいいんだ。こういう時、外に出ないでどうする。そのうちカビが生えるか、腐りかけてしまうぞ」

「やることがないもの」

「俺と昼寝でもしていればいいだろ」

「クロと昼寝……不埒だわ」

「はあ? 不埒?」


 どこが不埒なのだ。

 小さな顔に浮かぶ感情の機微を窺おうとすれば、リュドミラは顔を見られまいと彼の胸に自分の顔を押し付ける。


「いけばいいんでしょ。昼寝でも何でも。そんな遠くに行かないのなら許すわ」


 騎士は少女を訓練場の目印代わりになっている裸婦像まで運んできた。

 皇女は不機嫌顔で蝋板に鉄筆でがりがりと書くには、「ますます不埒だわ」とのこと。


「そうか?」

『だいたい、こんなものをどこから運んできたの。以前はなかったのに』

「解体途中の離宮から運んできたぞ。訓練は男しかいないから、あいつらが喜ぶと思わないか?」

『そういうもの?』

「そうだ」


 へえ、と少女の瞳は冷ややかなものだ。このぐらいの年の少女なら過敏になっても仕方がないのかもしれない。

 芝生に座る二人の間で柔らかな風が吹き抜ける。少女は乱れた髪を耳にかけ、小さく、誰にも聞こえないような声で呟く。


「きっとわたしは最後までキャロライン・ザーリーにとっての何者でもなかったの」

「そんなことを考えていたのか」


 キャロラインが死んだ知らせが来たのは今朝のこと。

 別の侍女がリュドミラの身支度をしに来たときに、「ザーリー夫人が亡くなりましたので代わりに参りました」と挨拶をしたからだ。

 もしそうでなかったなら、二人ともまだ知らなかった可能性がある。宮廷から正式な報告があるわけでもなければ、二人とも情報にうといところがあるためだ。

 仮にも一番身近にいた侍女が死んだにしては、リュドミラの日常はほとんど変わらなかった。だが、リュドミラ自身には思うところがあったようだ。


「そう。信用のできない人だった。心の底が見えず、穏やかな顔をしながらも、心をどこかに置いてきてしまったような目をしていた。……あの人は幸せだったのかしら。どうして死んだのかしら」

「毒を飲んだと聞いたぞ」

「そうね、朝、自室で毒を飲んで倒れていたところを発見されて……遺体はすぐさまザーリー卿が引き取ったらしいわ」


 皇女は顎に指を当てて何かを考えている様子だ。


「もしかしたらキャロラインの死にわたしが関わっていると思われるかもしれないわ」

「どうしてそう思う?」

「わたしが『東の塔の化け物姫』だから」


 皇女は芝生の隙間から生える小さな花をいじる。ちぎらないように繊細な手つきで撫でていた。


「誰からも文字を教わっていないのに、勝手に難しい書物を読むことを覚えたリュドミラ皇女。周囲にいると不審な影を見たり、不可解な出来事が起きてしまう。きっと呪われているのだろう、母方から流れるスベリティアの血が、ガー皇国への復讐を駆り立てるのだ、とね」

「なんだそれ」


 すると、リュドミラは驚いたように、顔を上げた。


「知らなかったの? とっくに誰かから吹き込まれたと思っていたわ」

「言葉だけは聞いた気もするが、俺に吹き込むやつなんてたかが知れているだろ。小国からやってきた得体のしれない男だと思われているのに」


 今のところ仲良しなのは、三人の部下に心の友のグスタフ、厨房の者たちぐらいのものだ。妙な噂をまことしやかに囁くような人々ではない。


「……今の話を聞いてどう感じた?」

「別に何もない。あえて言うならあまり楽しそうな話ではなさそうだから早くやめればいいのにとは思う」

「わたしだってそう思うわ。けれど皇宮という場所にクロみたいな人は多くない。ここは人の欲が渦巻くところ。強大な権力が振るわれるのがここだから」

「そうか。大変だな」

「のんきね。今となってはクロもその中にいるのよ。それもとびっきり危険な領域にね」

「おまえが俺を選んだからな」

「それは……ちょっとだけ申し訳ない気持ちもあるわ。わたしではなくお姉さま方に仕えていたら、まったく別の人生になっていたのかも」

「なぜそこで気弱になる?」

「後悔しているようだったから。私に仕えたことを」

「そんなことは思っていない」


 甥っ子にするようにぽんと小さな頭に軽く手を乗せる。


「先が見えないのも案外、楽しいものだ。俺のことは心配しなくてもいい。昔、偉い占い師に、天寿をまっとうできると予言されたぐらいでな、何度も死にかけては生き返ってきた」

「占い師?」


 リュドミラは嫌そうな顔になる。


「わたしを占おうとした占い師はいたけれど、わたしを見るなり卒倒してしまったわ。どうしてまだ生きているのか不思議なくらいで、本当ならば赤ん坊のうちに死んでしまうはずだったらしいわ。ひどい話だわ」


 そうか、と頷いて彼は草原に寝転がった。開けた青い空はどこまでも高い。草の土臭さが眠気を誘う。

 隣のリュドミラがそろそろと横になる気配がする。


「でも、キャロラインが亡くなった方がずっとひどい話だわ」

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