第1章ー7 Welcome to Fantastic World !!

 

 屋敷についてすぐ、少年をわたしの部屋に通した。不審な顔で少年を探るアネットたちを部屋から追い出し、扉を閉めて密室にする。


「ふうぅぅ——……」


 扉を閉めて一段落。いきなりどっと倦怠感が襲ってきて、思わず大きなため息が出た。


 だって今は午前三時半。ここを出たのが二時半くらいだったから、馬車で森まで行って、密猟者たちと対峙して、ドラゴンに殺されかけて、空中散歩をして、これ全てをたった一時間ちょっとの間に経験したことになるのだ。何度、死ぬと思ったことか……今ここにいるのだって信じられない。疲れて当然だ。


「だいぶお疲れみたいだ。休んだら?」


 この一時間ですっかり聞き慣れた声が後ろからかけられた。

 椅子に座って紅茶を飲んでいるのは、わたしを助けてくれた黒髪の少年だ。馬車の中で名乗った名前はハル・エイダンフォード。歳は十五らしい。幼く見えるのは顔つきからだったみたいだ。


 それと今気が付いたことだけど、左腕全体に包帯のようなものを巻いている。だけど血で濡れている様子もないし、テーピングの一種だろうか。


「あれだけのことがあれば流石にね。でも、君を放り出しておくわけにも行かないでしょ?」


「それもそうだ」


 ケタケタと、少年は無邪気に笑う。その表情はどことなく懐かしくて、教会で一緒に暮らしていたちびっ子たちを思い出す。初対面のはずなのに、どことなく親近感が湧く雰囲気をまとっている。


「一応もう一度自己紹介しておくわ。わたしはリーナ・オルブライト。一応お飾りだけど、陸軍の少尉。君のことは、ハル君って呼んでいいの?」


「うん。エイダンフォードは姓だから。それと、〝君〟もいらない」


「分かったわ。じゃあわたしもリーナでお願い。今みたいに敬語も使わないで」


「りょーかい」


 呼び方の確認をしたところで、ハルと向かい合うようにテーブルを挟んで座る。これから話を始めるのだということはハルにも伝わったようで、ハルもティーカップから手を離す。


「まずは、改めてお礼を言わせて。さっきはありがとう。あの場所から逃がしてくれて」


「別にいいよ。これ拾ってくれたお礼みたいなものだし」


 そう言って、ハルがわたしの持っていたペンダントをポケットから出す。さっきとは違い、ペンダントから青い光は出ていなかった。


「あ、気になってたけど。それって結局なにを指していたの?」


「こいつだよ。この鍵」


 ハルが出したのは、一本の鍵だ。銀色のスケルトンキーで、持ち手の部分にわたしが付けていたペンダントと同じ色の石がはまっている。かなり小さい鍵で、手で握ればわたしの手でもすっぽり隠せてしまうほどだ。


「ペンダントはこいつが無くなった時にその方向を指すためのものなんだけど、まさかそっちを無くすとは思わなくて」


 話によれば、光は鍵についている石に向かって指していたらしい。なるほど通りで、同じ石がはまっているはずだ。


「オルダーショットの骨董店にあったみたいよ」


「うぇー、そんなところにあったのか。じゃあスられたんだなぁ……失敗した」


 あははは、失敗失敗と、気まずそうにハルが笑った。

 森の中でのペンダントの扱いと言い、いまの鍵の扱いと言い、ハルは物の扱いが少し雑なようだ。そんなだから色々と無くすんだと思う……口には出さないけど。


「ついでに色々訊かせてもらっても?」


「いいよ。俺も話さなくちゃいけないことがあるから。そっちからどうぞ」


 一瞬だけ、宙を見る。正直、訊きたいことは山ほどある。どれから聞くのが一番いいのか、どれから訊いたらハルは警戒心を抱かないのか。それを考える。何といってもハルは重要参考人だ。あそこで起きたこと全てを知っているキーパーソンだ。いくら年下とはいっても、いやでも慎重になってしまう。


 小さく息を吸う。少し溜めてから吐き出して、「じゃあ、まずはわたしから」と覚悟を決めて切り出す。


「正直訊きたいことだらけだけど、まずはキミについて教えて。さっきのことといい、キミはいったい何者なの? 普通の人なんて冗談は無し」


「魔法使い」


「…………」


「この世界とは別の世界から来た、正真正銘・本物の魔法使い—————ちょっ!? 冗談なんかじゃないって! さっき空飛んでたじゃん!!」


 よっぽどすごい目をしていたんだろうか。ハルが本気で背もたれに体重を掛けて、わたしから遠ざかった。ガタリとターブルが揺れた。紅茶の雫が少しだけ跳ぶ。


「……はぁ、分かってるわ」


 ため息をつきながら押さえた眉間は、自分が思っていた以上に硬かった。それをほぐして、努めて穏やかな表情を心がける。


「あんな経験しちゃったんだもの、そう名乗られても否定できないわよ。未だに信じられないけど」


 だって、否定のしようが無いのだから。

 たった一時間の間に起こった怒涛の展開。霧の中で密猟者に出会って、ドラゴンに殺されかけて、空を飛んで……これ全てが夢じゃないのだ。夢と言えたらどれだけ楽だったか。だけど生憎、わたしはそこまで楽天的でもない。


 これはすべて、紛れもない現実世界で起こったことだ。そうするならば、この騒動の中心にもなるこの少年は魔法使いくらいでないと説明が着かない。わたしの知識の中には、巨大なドラゴンも、空飛ぶ箒なんかもない。自分でも何を言っているのか正直訳が分からないけれど、それ以外の可能性を考えるとおかしくなってしまいそうだ。


 どうせ真実は分からないんだから、そう考えることが精神衛生上いちばん楽だ。丸く収まる。

 だからわたしは、考えることを止めた。


 と、そのとき。


「……先に見せた方がいいか」


 ポツリと呟かれた独り言が耳に入った。反射で訊き返す。


「どういうこと?」


「え? ああ。どうしたらすんなり信じてくれるかなって話。イマイチ信じてないでしょ」


「信じられるわけないじゃない。魔法使いなんて」


「ですよねー」


「先に見せるって……もしかしてあれ以外にまだ何か隠してるの?」


「うん、まあ一応。隠してるっていうか、隠してた場所〝そのもの〟っていうか……」


「?」


 歯切れが悪そうにハルがそう言う。ハルにも上手く説明できないようで、口にした言葉を否定したり訂正したりと中々説明が進まない。出てきた情報を整理すると、鍵で開くものの中にあって、大きくて、四方八方に伸びているらしい。意味不明だ。


 当然だけど、当事者にも上手く説明できないものがわたしに解るはずもない。頭の中では箱から手足が伸びたような生き物がぴょんぴょんと踊っている。

 十秒ほどだろうか。うんうん唸っていたハルがあきらめた様子で立ち上がった。


「まあいいや、とりあえず見てよ。クローゼット借りていい?」


「え、本当に何するつもり? 大丈夫なの?」


「別に危ないことじゃないよ。着いてきて」


 そう前置きして、ハルはクローゼットの前に歩いて行く。わたしの服が入っているクローゼットの前に立ち、鍵穴に右人差し指を押し付けながら何かをしている。


 だけど、このクローゼットの中には何もないはずだ。だってこれは、何の細工もないただの鍵付きクローゼットで、他と違うところと言えばとんでもなく高価だということくらい。中に入っているモノにも不自然なものは見当たらなかったし、一体何をしたいのだろうか……。


「よし、いけるな」


 取り出したのは、さっき見せてくれた鍵だ。銀色のスケルトンキー。それを入るはずがない鍵穴に差し込んで半時計側に——、


 

 カチリ。


 

 刺さるはずのない鍵穴から、シリンダーの回る音が聞こえた。


「え?」


 あるはずのないことが、目の前で平然と起こった。

 シリンダーが回ったということは、鍵が外れたということ。つまり対応しているはずのないキーで扉が開いてしまったということだ。確かにこのクローゼットは年代物だ。だけど、流石にスケルトンキーで開くほどヤワな構造はしていない。


 平然と見せられたあり得ない展開に困惑するわたし。だけどそんなことお構いなく、ハルがクローゼットの取っ手を握って勢いよく開く。


「—————っ!?」


 今度は、完全に言葉を失った。

 だって扉の向こうにあったのは、見慣れた狭い空間じゃなかったからだ。狭くて暗くて、防虫剤と古着の臭いがこもった空間じゃなかった。木に染みついたシミだってないし、ニスがはがれた場所も見当たらない。それどころか、つい一時間前に見たクローゼットですらなかった。


 


 扉の向こうは、知・ら・な・い・部・屋・の・中・だ・っ・た・。


 


 この部屋の一・五倍くらいの木でできたブラウン色の空間。正面では、壁に埋め込まれた大きな本棚が口いっぱいに本を咥え込んでいる。どの壁にも扉がふたつずつあって、それぞれが別のところにつながっているようだ。


 真ん中に大きなテーブルとソファーがあって、右の壁では暖炉が赤々と燃えている。燃えている炎の色は普通とは違い緑色で、投げ込まれている燃料は薪ではなくて黒い大きな何かの塊だ。緑色の炎と赤色の炎が混ざった不思議な燃え方をしている。


 その前に陣取るようにして丸まっているのは、真っ黒な猫。よっぽど心地がいいんだろうか、しっぽをゆっくりと振っている。揺れるしっぽはカギ尻尾だ。猫がわたしたちに気が付いた。エメラルドのような深い緑色の瞳を細め、なーう、と鳴いて部屋の奥へと消えていった。


「…………」


 訳が分からなかった。


 空を飛んだのはまだわかる。何かトリックがあって空中を滑空していたのだと言われれば、なんとか納得することもできた。霧だってそうだ。わたしが知らない自然現象があると言われればそうかと思うし、ドラゴンだって新種の生物なんだと言われれば納得できないこともない。


 だけど、これは無理だ。別の場所を繋ぐ技術なんか〝この世界〟に存在しないということをいやほど理解しているから。そんな技術があれば、イギリス軍の中で実用化されていないはずがない。

 こんなことが許されるのは、作り話の中だけだ。魔法があって、不思議なことが起こる世界の中だけだ。


 ここまで来たら、嫌でも受け入れざるを得ない。

 ハルは魔法使いで、別の世界から来た人なんだということを。


「これって……」


「言ったろ? 別の世界から来た魔法使いだって」


 ニカッと、いたずらが成功した子供のようにハルは笑った。


「この鍵は、が使ってるここと扉を繋げるんだ。失くしたらヤバいからって追跡用のペンダント作ったんだけど、そっち失くすとは思ってなかった」


 そう言って、何のためらいもなく部屋の中へと足を踏み入れた。トンという靴音が立つ。それは、この部屋がわたしの幻覚ではなく実際そこにあるものなんだと言いうことの証明。流れ出てくる暖かな空気も、そこが現実の空間なんだと主張している。

 先に入ったハルが、クローゼットの外にいるわたしの方へ振り返る。


「とりあえず中に——、」


 ガチャリ、

 ハルの言葉を遮るように、奥の扉が開いた。


「あ、おかえりなさい」


 少し弾んだ錫の鳴るような声の主が、開いた扉の向こうから顔を出した。

 明るいオレンジ色の髪をした、十歳くらいの女の子だ。着ているものは男物で、切って合わせてあるのかサイズはだぼだぼ。だけど、肌も髪も離れたここから分かるくらいつやつやで、健康状態が悪いというわけではなさそうだ。たぶん、動きやすさ重視でハルの古着か何かを使っているんだと思う。


 何より、ハルに向けている表情は満面の笑みだ。それだけで、彼女の置かれている状況がひどいものじゃないと確信できた。それよりも気になったのは、彼女の頭についているものだ。


 耳だ。動物の耳 (多分キツネ)が彼女の頭の上でぴこぴこと動いていた。


 ——わぁ、ファンタジー……。


 驚きはしなかった。わたしの神経が思いのほか図太かったのか、いまのいままでで感覚が完全に狂ってしまったのか……多分後者だと思う。浮かんだのは何の取り留めもない呑気な感想だった。

 とここで、少女がハルの後ろに誰かいるということに気が付いたみたいだ。


「おそうじ終わりま、し……」


 途端に言葉は勢いを失くして尻すぼみに。とうとう最後まで言うことなく少女は口を閉じた。


 わたしと目が合う。

 笑顔が固まる。

 秒で目を逸らされた。


「あ、そうだった」と呟いて、ハルがわたしに手を向け口を開く。


「こちらはリーナ・オルブライトさん。ちょっと訳あって招待した。そんで、あの子がソフィ。ここに住んでて掃除なんかをやってくれてる」


 そしてわたしにも、彼女の名前を紹介してくれた。

 依然としてソフィと紹介された少女は動かない。さっきまでの笑顔は完全に消えてしまって、しどろもどろになりながら床に視線を落としている。何とか顔を上げようとはしているみたいだけど、わたしの姿を見るとすぐに床に戻してしまう。


 何というか、完全にわたしが邪魔をしてしまったような感じだ。罪悪感がすごい。


 ——とりあえず、笑顔、笑顔。


 距離があるけれど、しゃがんで彼女の身長に合わせてみる。


「こんにちは」


「!!」


 ビクンっと、肩が跳ねる。


「ソフィちゃんって呼んでいい? わたしのことはリーナって呼んでくれたら嬉しいな」


「え、あ、あの…………」


 みるみるうちに、顔が真っ赤になっていった。

 ぱくぱくと口を開けたり閉じたり、両手の指を絡めて手のひらを合わせたり開いたり。定まらない視線の先。床とわたしたちの方を交互に移動する。キツネが警戒するように、頭の耳はピンと立っている。


 あいさつは逆効果だったみたいだ……。


 ——あー、焦らせちゃった。


 すぐに分かった。

 そう確信した数秒後。


「や、薬品の余りをみてきます!」


 くるりと踵を返し、壁に立てかけていた箒そのままドアの向こうに引っ込んでいった。奥で何か音が聞こえる。と思った矢先にもう一度ドアが開き、腕だけが伸びて箒を回収していった。

 それでもしっかりとわたしにもお辞儀をしていた。絶対にいい子だ。


「ごめん。あいつ人見知りなんだよ、許してやって」


「ううん、全然気にしてないわよ」


 ハルが安堵のため息をもらす。気持ちを入れ替えるためなのか、大きく深呼吸をした。


「……入ってよ。中の方が話しやすいし」


 そして、すっかり忘れていたさっき言いかけた言葉を続けた。


 

 ◇◆


 

 ソファーに座ると、ハルはこの部屋について話てくれた。

 鍵は貰いもので、誰が作ったのか、この部屋がどこにあるのかはハルにも解っていないらしい。解っているのは、ものすごくたくさん部屋数があること、普通に建てたら絶対に無理な方向にも廊下があるということだ (四方八方に廊下は伸びているらしい)。


 紙に地図を描き出すと、まるでそれは土の中に掘られたアリの巣みたいな形をしていた。ハルもそう思っていたらしく、この部屋を蟻塚と呼んでいる。


 そしてそれ以外にも、ハルは自分のことを教えてくれた。

 ぺルネスという国から、ハルはやってきたらしい。ハルのいる世界では、科学の他にもう一つ別の技術体系があって、それが〝魔法〟なのだという。イメージはわたしが思っているものと大差はないようで、物を浮かせたり、鍵を開けたり、冷や水を出したりすることができる。


 そして何より驚いたのが、この世界とハルの世界はということだ。


 どこかは秘密らしいが、ハルの世界とこっちとをつなぐ扉みたいなものがあるらしい。何百年も前からその扉は開いていて、そこを通れば、こっちから向こうへも行くことができるのだとか。わたしが生まれるずっと前、十世紀には今のように裏で活躍する体制が出来上がっていた。らしい。今も、ハルの他に何人もの魔法使いがこの世界に散らばっている。

 そこまで話して、ハルは先回りしてわたしの疑問に答える。


「勘違いする前に言っておくけど、別に侵略とかそんな目的で来てるわけじゃないよ。目的は神秘の秘匿だ」


「つまり……さっきのドラゴンみたいなものを隠すのが目的ってこと?」


「うん。だからあそこから逃げてきたんだけど」


「そう言えば、『あいつらに引き渡すと色々厄介なんだ』とかなんとか……」


「そうそれ。さっきも言っただろ? 俺たちの目的は神秘の秘匿。だとすれば、見られて困るものを見られて「はい、さよなら」って返すわけにはいかない。だから普通は記憶の処理をしてから家に帰すんだけど、この方法がかなり厄介」


 そう言って、話す前にテーブルに持ってきていたガラス瓶をわたしの方に押し出す。中には緑色の溶液が入っている。厳重に密閉されていて、貼られたラベルには言葉が読めないわたしにも解るくらい毒々しい模様が描かれていた。


「ムポロポムアっていう植物の葉から抽出した薬。これを使うと、記憶がきれいさっぱり飛ぶ」


「記憶が飛ぶ……」


「そう、きれいさっぱり」


 途端に、目の前の小瓶が恐ろしいものに見えた。


「だけどこれ、『魔法に関しての記憶だけ消す』なんて器用なことできないんだよ。時間単位でしか消せないし、使っても強烈な記憶は残ったりする。しかもすさまじい副作用があって、使いすぎると廃人になる」


「じゃあ、もしわたしにこれを使われたら……」


「十中八九、廃人コース行。さっきの密猟者たちならそれでもよしって投げ捨てられるんだけど、リーナは軍人で、しかも少尉だろ? そんな立場の人間がいきなり廃人になって見つかったら……〝厄介〟ってのはそういう意味。あとは純粋に恩返しのつもり。大事なもの拾ってくれた恩人が廃人になるなんてことがあったら申し訳ないしさ」


 頭の中で、イースト・エンドに住んでいたころのある記憶がよみがえる。


 橋の下で座り込んでいる大人たち。

 無表情に口を開けてよだれをたらしている。

 殴られても蹴られても反応せず、うわ言のように何かをつぶやく。

 例外なく彼らの足元に転がっているのは、何かが入っていた空のガラス瓶……。


 その姿が、わたしに置き換わる。

 一気に鳥肌が立った。


「……ありがと」


「どういたしまして」


 お礼を言ったのは、ほとんど反射だった。


「でも大丈夫なの? わたしは魔法の記憶が完全に残ってるけど」


 だけどそうなると、わたしはどうなるんだろう。


 彼らから逃げきったということは (正確に言うと気づかれていない)、その忘却処理を行えないということになる。だけどハルたち魔法使いの目的が世界征服なんかじゃないと分かったし、命だって救ってもらったのだから、軍の上層部にも報告する気はないのだけれど……どうしたら信じてもらえるのだろう。


 もしかしたら監視が付くんだろうか。いや、でもハルが逃げたということはあの逃走は表向き認められていないことのはず。だとすると、監視するよりもわたしがひとりになった時に記憶を消すことの方が楽なはず。確かに、わたしが廃人になれば軍は不自然に思うだろうが、まさか魔法使いに魔法をかけられて廃人になりましたとは誰も思うはずがない。


 と、わたしが悶々と考えを巡らせる。


「そう、そのことを話したかったんだ」


 いつの間にか、ハルは席を立っていたようだ。部屋の壁ひとつを占領する本棚の中から、赤色のファイルを引き出す。中身を確認した後、こっちへと戻ってくる。


「一応、その方法以外にも裏口が無いわけじゃないんだ。それがこれ」


 戻ってきたハルが取り出したのは、一枚の羊皮紙だった。

 かなり広めの羊皮紙で、真ん中に一本線が入っている。線から見て左側には、読めない文字(たぶんハルの国の文字)が書かれてる。右側は白紙だ。だけど、一番上に書いてある単語は英語だった。


《Agreement》


「……契約書?」


「詳しい理屈は秘密だけど、それに名前を書くと「契約内容を順守する」っていう結構強力な暗示がかかるんだ。しかもその判断は契約者自身がするから誤魔化しは効かない。本当はこっちの世界の魔術師と契約するときに使うんだけど、一般人の忘却が間に合わないって状況になったらこうやって裏技にも使える」


「つまりわたしは、魔法のことを口外しないって書いてサインをすればいいのね?」


「そういうこと。それから、俺も確認したいことがあるんだ」


「なに?」


「魔法使いの取引って、基本的にギブ・アンド・テイクなんだよ。お互いの条件が対等だって納得できればこの魔法の効果が強くなる。だから、リーナも何か俺に条件を付けてほしい。リーナが対等だって思えるような条件を」


「条、件……」


 正直言って、無条件でサインするつもりだった。だってハルはわたしの恩人で、魔法で夜間飛行までさせてくれたんだから。

 だけど、それでももうひとつ望めと言うのなら。望んでもいいのなら。


 簡単だ。思い浮かぶものは一つしかない。


「じゃあ、」


 わたしが出したのは、今調べている行方不明の子供たちの捜索協力。ハルは少しだけ目を丸くしたが、「リーナらしいや」と言って笑った。


 お互いにお互いの言語で契約書を半分ずつ埋める。わたしのスペースに書いたのは、今後死ぬまで魔法の世界を秘匿すること、魔法使いに対して悪意ある行動を行わないこと。ハルが書いたのは、行方不明の子供たちの捜索に全力で協力すること。


 先にハルが名前を刻む。すると、ハルが書いた文字がいきなり焦げ始めた。まるで文字を油で書いたみたいに文字の部分だけが燃えていく。十秒ほどで、ハルが書いた文章は消え、代わりに焦げ付いた跡が残った。

 羽根ペンが差し出される。


「さあ、今度はリーナの番」


 渡された羽根ペンを受け取り、目をつむって一度深呼吸。


 目を開いて、一気に名前を書き上げた。


 

 ◇◆


 

 いま思えば、あの時の気持ちは完全に不謹慎だと思う。


 子供が行方不明になっていて、生きている可能性も限りなく低くて、そんなときに何を思っているんだと言われるかもしれない。


 わたしだって分かっていた。いけないことなんだと当然理解していた。

 だけど、止めようと思っても無理な話だった。


 突如おとずれた非日常に、小さいころからあこがれていた魔法の世界に、


 胸の高鳴りが治まらなかった。

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