……教ぇてやろうか。

 え? 誰だい……なんだってんだ。何か言いやがったが……そこに誰かいるのかい?

 俺だよ。……俺が首の縊り方をを教ぇてやろうってんだ。

 木の陰からすうっと現れましたのは、年の頃はもう八十以上にはなろうかという、頭の先にぽやっと白い薄い毛が生えておりまして、鼠色の着物の前がはだけて肋骨が一本いっぽん数えられようかという、痩せっこけて汚らしい竹の杖をついた、爺様でございます。

 な、なんだ、なんなんだお前ぇは?

 へ、へへっ、……死神だよ。


 わたしたちが四人で集まって、食堂で昼食を食べているときのことだった。黄蝶がふと黒雪を見つめて、

「……昨日のことなんだけど、黒雪は裏庭でなにをしていたの?」

 と訊ねた。

「うち? 裏庭……?」

 黒雪は箸の先を噛みながら、小さな声で訊ね返した。

 そのとき黄蝶が語ったことによれば、昨日の放課後——部活は休みだった——三味線の音が聞こえてきて、不思議に思った黄蝶はその音を頼りに、ひとり出所を辿って行ったのだという。

 部活の出囃子でテープを流す以外には学園内から三味線の音が聞こえてくることなんてまずないし、聞こえてくるのはどうやら生音のように思えた。体育館に続く通路を上履きのまま逸れていき、そのまま旧校舎の裏手まで進む。新校舎に附設されている中庭と違って、旧校舎の裏側なんて陽も射さないしジメジメしているし、誰かがいるなんて想像もつかなかった。すると、そのときだった。

「恋に焦がれて鳴く蝉よりも……」

 背筋が蕩けるような甘い歌声が聞こえてきて、黄蝶は足を止めた。そして恐る恐る校舎の陰から覗き見ると、そこには。

「……鳴かぬ蛍が身を焦がす」

 暗がりのしっとりとしたコンクリートの上で、黒雪の弾く三味線に合わせ、いつか見たあの真っ白い女の子が都々逸を口遊んでいた。見ると枯れ落ちた桜の葉が、二人の周りを静かに舞っているのだった。

 歌い終わって、うっとりと黒雪を見つめながらしなだれかかる彼女の様は、遠目からでも息を飲むほど美しい。

「……あかりさん。こういうのもいいですね」

 彼女の囁きが黄蝶の耳に届く。燈。燈さん……? それが誰だったか一瞬わからなくて、黄蝶は首をかしげる。考え込む。そしてその名が黒雪の本当の名前だと思い至ったときには、すでに二人はどこかに去ってしまったあとだった。

「……あれはなんだったのかな、って。不思議で仕方がなかったの。ていうか、黒雪って三味線弾けたんだね」

「……母さんに習った。でも……先輩に出囃子までやれって言われると面倒やし。黙ってたの。いつもは部屋ん中にほっといてるし」

 まあ、一年生は噺を覚える以外にも、雑用をこなさなければならず、思いの外忙しい。だから黒雪のその気持ちも、わからなくはない。そもそも黒雪だけに出囃子をやらせるわけにもいかないのだから。そう思ってわたしたちは納得して、頷き合うのだった。

「それで? 黒雪はまだ答えてくれていないけど、一緒にいたのはあの白い王子様でしょう?」

「へ? ……白い王子様? ゆいのこと?」

 雲母の問いかけにもう一度首を傾げながら、黒雪がぼんやりと雲母を見つめる。雲母はしまった、という顔をしていて、その横で枢李も苦笑を浮かべている。

「はぁ。言われてみれば確かにあの子は王子様かも知れんねぇ」

 それにしても白い王子様だなんて、上手いことを言うねぇ、と黒雪が笑った。

「で、結局あの子は黒雪のなんなの?」

 黄蝶が再び問うと黒雪はしばし考え込んだあとで、

「なんなんかなぁ。あの子はもう一人のうちじゃないかな……」

 そっと呟くのだった。


 そう死神死神と邪険にするもんじゃあねぇやな。お前ぇに言ったってわからねぇかもしれねぇが、お前と俺とは昔からの古い因縁がある。いい商売を教ぇてやるから、やってみな。……どうだ?

 どうだって、嫌だよ。嫌に決まってんじゃねぇか。どうせあれだろ、俺に下請けかなんかさせようってんだろ。

 なんだ、下請けてえなぁ。

 死神の下請けだろ?

 ばかやろう。そんな商売があるか。いいかい。人間というものはいくら長生きをしたいと願をかけてみても、寿命が尽きればそれで死ぬんだ。死にたい死にたいと思っていても、首をくくりゃあ寿命のある奴は枝が折れる、縄が切れるってもんなんだよ。安心しねぇ。お前ぇはまだまだ長い寿命を持っているんだから。……いい商売というのはあれだよ、医者だよ。お前ぇ、医者になってみねぇか。儲かるぞ。金にはだいぶ困っているんだろ。……医者になれ。

 医者になれって言ったってお前ぇ……。


 現国の授業でのことである。その場面を直接見たのは、黒雪と同じクラスの枢李だった。

 その日は教科書ではなく、先生が配布したプリントを使って授業を行っていたのだが、黒雪が音読を当てられて文章を読まされたときのこと。座って読んでは駄目ですか、と訊ねる黒雪に、先生はせっかくだから立って読んでください、と言った。

 黒雪は渋々立ち上がったのだが、音読中ひどくつっかえて——それも時々段を読み飛ばして——しまう姿を見て、枢李は内心不思議に思った。

 弱視でも、いつもの黒雪なら国語の教科書くらいはすらすらと読んでみせるのに。それどころか情感たっぷりに読み聞かせて魅せるのに。

 なんとか読み終えて着席したその後ろ姿を、枢李はじっと見つめていた。なんだかその背中がひどく恥ずかしげに見えたのだ。

 授業のあとで、さっきはちょっと調子悪かったね、と枢李が声をかけると、

「初めての文章だとどうしても。座ってルーペが使えたら、まだマシやったんだけど。それに……縦書きの文章は苦手なんよ。うち、どうしても目が横に震えてしまうから」

 現国の教科書だったら……今やってる単元のとこくらいは全部暗記してるんけどねぇ。

 そう言って切なそうに笑って、このことはあんまりよそで言わんでね、と目を細めてみせた黒雪の顔が頭を離れなくて、枢李はこのときの黒雪の様子を黄蝶と雲母には言わなかった。


 いいか。長患いをしている病人の部屋に入れば、足元か枕元かどっちかに死神が必ず一人ついている。足元にいるあいだはこれを剥がせば病気が治る。しかし枕元に座っているようなら、……こいつはもう駄目だ。決して手をつけちゃなんねぇ。それがそいつの寿命なんだから。……よおく覚えておきなよ。いいかい、死神を病人から剥がす呪文があるんだよ。

 へぇ……で、なんです。その呪文てえのは。

 あじゃらかもくれん、ゆりのはな、てけれっつのぱぁ……で、ぽんぽんと二っつ手を叩くんだ。これを唱えられたら死神は帰ぇらなきゃなんねぇんだよ。

 はぁー、なるほどね。ええと、なんでしたっけ。あじゃらかもくれん、ゆりのはな、てけれっつのぱぁ、ぽんぽん、でしたっけ。……あれ? 死神さん? おいなんだ、どっか行っちゃったよ。あ、そうか。呪文を唱えたんで帰ぇっちまったのか。こりゃいいことを教わった。……よし、ひとつやってみようじゃねぇか。


 女三人寄れば姦しい、などとはよく言ったもので、わたしたち四人が集まると、大概はくだらない、どうでもいいような会話に終始する。そして最後には決まって色恋沙汰の話になる。ただ、そうは言っても黄蝶と枢李は仲の良いルームメイトで端からは擬似的な恋人みたいに見えるし、雲母には幼馴染の腐れ縁的なボーイフレンドがいるので、話は自然と謎めいた黒雪と白い王子様との関係性について……に帰結することと相成るのである。

 けれども黒雪のガードが固く、いつも微笑んで肯定も否定も避けるので、しまいには黄蝶、雲母、枢李の妄想合戦の様相を呈してくるのだった。

「黒雪たちふたりの出会いって、どんな感じがいいかしら」

 そう夢見るように呟くのは、枢李だった。すでにその思考は妄想の域に達しているようだ。

「黒雪の高座を見て、あの子が一目惚れしてしまった……というのはどうかしら。もしそうなら来年度の新入部員獲得にも繋がるし、落研メンバーとしても誉れだわ」

「却下。それならわたしに惚れないわけがない」

 そう堂々と言い放つ黄蝶に、雲母が薄笑いを、枢李が渋い表情を浮かべてみせた。

「なら、黄蝶はどう考えるの?」

「うーん。こんなのはどうかな。……あの子が木の上から降りられなくなった子猫を見つけて、けれど自分が登って助けてあげることもできなくて、そんなときに颯爽と黒雪が現れるの。それで、どうしたんだい、僕の子猫ちゃん、とか言って……」

「……あなた馬鹿なんじゃないの」

「なっ?」

 黄蝶と雲母がギャーギャー言い合っているのを尻目に、枢李が本当のところはどうなの、と黒雪に訊ねる。

「ん? ほんとはねぇ……」

 珍しくこの話題に対して口を開いた黒雪に、黄蝶と雲母も前のめりになって耳を傾ける。

「ネットの動画でたまたま見つけたの。あの子が自分でアップした、声だけの、歌を唄っている動画を。そのときは綺麗な声の子やなって思っただけだった。でも、……偶然学園でゆいの声を聞いて、あの動画の子だって確信して、うちから近づいた。ゆいは学校では猫を被っているけれど、ほんまは活発で、歌も踊りも上手で、……なんやレコード会社の人に認められてCDまで出したって言うてたわ」

 ぽかんとした表情で黒雪の話を聞いていたわたしたちは、口々にそれはない、と言い合った。

「途中までは面白かったけど、最後が今ひとつかなー」

「黒雪は創作落語には向かないねぇ」

「んー。ほんとのことなんだけどなぁ」

 まだ言ってるよ、とわたしたちは苦笑し合う。

「まあ、なんにせよ、おふたりさんは仲がよろしいみたいで。なんというか裏庭で見たあの情景もしっとりしてて趣があったし。ふたりとも信頼しあってる、っていうか」

 黄蝶がそう言うと、本当にそう思う、と黒雪は訊ね返した。けれどそのとき、黒雪の目が笑っていないことに気づいて、わたしたちは思わず息を飲んだ。


「信頼し合っている、仲がいいって……ふふっ、本気でそう思てん?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る