第10話 一発屋、少年と「一発」について語り合う(前編)

 それは僕が彼女の家に遊びに行くようになって二ヶ月ほどが過ぎたある夏の日のことだ。


 研究室での作業をするのに疲れたのか、その日の彼女はリビングルームで一息つきながら僕の相手をしていた。


 テーブルの上にはジュースとスナック菓子が広げられている。


 花咲は目にまぶしいキュロットスカートと薄手の半そでシャツという涼し気な格好でソファーに寝そべっていた。


 但し、外は日差しが照り付けてアスファルトも溶けそうな猛暑だというのに白衣を羽織っているのは相変わらずだ。部屋の中は冷房が効いているから気にならないのかもしれないが。


 僕もまたソファーに腰かけてスナックをつまみ上げる。


 その時だ。


「ところで、草壁くん」

「何だよ」

「私は君から叶えてほしい『一発』をまだ聞いていないが、結局どうするんだい?」


 不意の一言だった。


「あ、……えーと」


 実のところ、未だに僕は何も思いついていなかったのだ。


 もう少し時間が欲しい、と先延ばしにするのは簡単だ。しかし僕にはたとえ時間があったところで答えが変わるとも思えなかった。


 では「適当な願いを言ってしまうか」という考えも頭をかすめたが、それも彼女に対して不誠実ではないだろうか。


 何より僕は嘘が得意な方ではない。


 気が付いた時には正直に口にしていた。


「……実のところ、さ。僕には叶えたいと思えるほどの夢がないんだよ。子供のころから人に褒めてもらえるようなことなんて何もなかったんだ。……運動をすればいつだって活躍するのは体格と見た目に恵まれたクラスのスポーツマン。かといって音楽や絵を描く才能があるわけでもない。イジメにあって逃げ回ることも多かった。必死に勉強して人並みの成績を取るのがやっとだった」


 口走ってから後悔した。


 僕は何を言っているんだ?


 親や学校の先生みたいに目上の人間ならいざ知らず、同級生の女の子に「自分は可哀そうな奴アピール」をするなどどうかしている。


 逆の立場で考えてみればわかることだ。


 秀でた才能やルックスに恵まれた人間が自分にだけ「弱み」を見せるのならば、親近感やギャップで好感度が上がることもあるだろう。しかし、僕のような冴えない人間が「だらしなさ」「弱さ」を売りにすれば「そうか、見た目通りにつまらないやつなんだな」と思われるだけではないか。


 そうでなくとも弱気な人間に好感を持つ人間がどこにいるというのだ。


 花咲は僕のことをどう思っただろう。


 情けなくてみっともない奴だと思っただろうか。それとも、弱くて可哀そうな奴だと哀れんでいるだろうか。


 僕は内心怯えながら彼女の反応を窺った。


 しかし予想に反して彼女は静かに僕を見つめ返しつつ、こういうだけだった。


「なるほど。よくわかる」


 そこにあるのは蔑視でもなく同情でもない。共感だった。


「私は、ね。草壁くん。安易に『学生は気楽だよな』とか『学生生活は楽しかったよな』と言ってのける大人が嫌いだ。そいつは記憶力が不足していて辛い部分を都合よく忘れているか、あるいは他者に対する配慮が欠落していて身近にいた苦悩する人間から目を反らしていたかのどちらかだ」


 彼女はソファーから起き上がって僕を見据えると、そう告げた。


「勿論大人にしか解らない苦労というのもあって、社会の荒波に揉まれる経験をしたときに振り返ってみると学校内での悩みなんて大したことなかったと思うのかもしれないがね。だが、それは単に大人になったからそう思えるだけだ。自分が子供の時の弱さを、時間が過ぎたからもう他人事としか思えなくなっているだけなんだ」


 肩をすくめてクールな表情を浮かべる。しかし、それでもその目には優しさといたわりが宿っているのが僕には見て取れた。


「教室という狭い社会の中で、失敗をして恥をかくのがどんなに苦しいか。正しい発言をしても立場が弱ければ踏みにじられる、自分の立場を守るために常に距離感を上下を気にして生きる世界がいかに苛烈だったか。それを知らずに育った人間がいるとしたら、そいつは余程恵まれた環境にいたんだろうな。だが、どこの教室にだっているんだ。『誰にも気づいてもらえなくともこっそり命がけで、大事な何かを守りながらひたむきに毎日を生きている』人間が。……君もそうだったんだろ?」

「……ああ」


 僕は蚊の鳴くような小さな声で頷くことしかできなかった。


 僕の中で彼女の見方が変わっていく。


 彼女はどこか超然としていて、普段の格好こそ奇矯だが容姿にも恵まれ、知性もずば抜けている。だから「周囲を見下している」とは言わないまでも、周囲の人間と距離を置いて自分とは別世界の人種と割り切っているのではないかと思っていた。


 しかし思い返してみると一発屋として鴨井や果部の願いを叶えて、その後責められた時も相手の不備や不知を指摘こそすれ人格的に見下すような発言はしていない。ただ聞かれたことに冷静に答えただけで侮蔑するようなトーンではなかったのだ。


 ぱっと見にはわかりにくいが、彼女は彼女なりに、実は周りに誠実に向き合っている人間だった。


「ああ、あのさ。逆に尋ねたいんだが」

「何だい?」

「花咲は自分の人生を『一発』変えようとは思わないのか」


 そう、僕はずっと疑問だった。


 その気になれば、お金でも好きな異性でもいくらでも手に入るであろう彼女。花咲美空。


 それなのに彼女はどうしてその力を自分のために使おうとしないのか。


 何故普通の高校生活に甘んじているのだろうか。


 住んでいる家こそそれなりの邸宅のようだが、それだけだ。少なくとも高級ブランドの家具やお抱えのシェフや執事に囲まれた豪奢な生活をしているようには見えない。


 だが、僕の質問に彼女は、感情が抜け落ちたような空虚な双眸で見つめ返してこう答えるだけだった。


「変えたいと思えるだけの希望そのものを持てないんだよ」


 それじゃあまるで僕と同じだ。だが、何も持たない僕と何でもできる彼女がどうして同じ結論に達するのか。


 そんな僕の内心の疑問を無視するように彼女は言葉を続ける。


「……聞くが、君は人生で一発当てるというのはどういう事だと思うね」

「そりゃあ人生で成功するってことじゃないか?」


 ここで、彼女は言葉を選ぶように一瞬沈黙してから口を開く。


「例えば、だ。ある野球選手がいたとする。彼はチームの優勝が懸かった重要な一戦で打席に立ち、見事ホームランを放った。結果、数億もの年俸を手にすることになった。……これは一発当てたことになるのか?」

「なるんじゃないか?」

「確かにその部分だけとらえれば、たまたま巡ってきた最高のチャンスをものにして成功をつかんだように見える。しかし、実はその『一発』のホームランの陰には何年にもわたるロードワークと一日数百回のスイング練習。また長い経験からくる選球眼があったのだとする。これでも一発当てた、と言えるかな」


 ぼくは「ううむ」と小さく唸る。


「……一発当てた、とは言えないかもな。それはどちらかといえば長年の努力で積み上げたある種の必然だな」

「その通りだ。勿論才能も有っただろうが、それと同時に努力を地道に続けた結果だった。それを一発当てたとは言わないだろうし、本人も『自分は幸運だ』とは思わないだろうな」


 彼女はここでグラスに入ったジュースを一口飲んでから、改めて僕を見る。


「少年漫画にはよく主人公が邪悪な敵と戦うバトル漫画というジャンルがあるね。そしてそういう漫画で受けるストーリー展開は二つのパターンがあるそうだ。……一つは圧倒的に強い主人公が邪悪な敵を鎧袖一触と言わんばかりに次々倒していく展開。もう一つはその逆に、絶望的な状況に追い込まれた主人公がギリギリまで追い込まれながらも、どうにか逆転する展開」

「ああ、確かにそう言う展開が目に付く」

「これは、人は『圧倒的な勝利』と『ギリギリで得る勝利』に達成感を強く感じる、ということらしい。『普通に努力』して『普通に得られた勝利』にはあまり気持ちよさを感じないんだ」

「主人公が努力して強くなる漫画もあるけれど、修行する場面に重きを置いて描写する漫画はほとんどないだろうな」


 主人公が地道な修行をする展開に入ると途端につまらなくなってアンケートの順位が落ちるので、ほとんど飛ばし気味に描写されるという話を聞いたことがある。


「宝くじなんかでも同じことがいえるんだ。例えば一枚三百円のくじを百万人に売って、一人だけに三億円があたるとしよう」


 それだと三億円の売り上げを一人の当選者に渡すことになるので運営する側の儲けはなくなってしまうが、分かりやすくするための例え話としての設定ということだろう。


「つまり、当選確率は百万分の一。〇・〇〇〇一パーセントだ。はっきり言って交通事故に巻き込まれる確率の方が高いくらいだ」

「うん」

「だが逆に当選確率を上げたとする。つまり百分の一、一パーセントまでに、だ。くじを買った百万人のうち一万人が当選する計算だ。ただし、その代わり『三億円』の売り上げを『一万人』に分けるわけだから、もらえる当選額は三万円だ。この場合宝くじを買おうとする人間は増えると思うか?」

「百分の一の確率で三万円、か。そりゃ、当たったら嬉しいだろうけど。三億円と比べたら微々たる金額だな。宝くじを買うような一攫千金を狙う人間からすれば、魅力は下がるかな」

「その通りだ。どちらももらえる金額の期待値は同じはずなのに、な」


 彼女はわずかに残ったジュースを飲み干して、グラスをテーブルに置いた。


「つまり、私が思うに人間の達成感とか幸福というのは『微分』なんだ」


 微分。


 つまり、グラフなどのある一点における接線の傾きであり、極限の変化率だ。


「明日食べるものにも困る人間にはファーストフードだって幸福をもたらすし、財産がゼロの人間が一万円を手に入れたら、天上の悦びだろう。しかし毎日食事に困らない人間がハンバーガーセットを食べても別に感動はしないだろうし、既に数千万円持っている人間が一万円を手に入れてもそんなに大げさには喜ばないと思うんだ」


 僕は中身が半分残ったグラスをテーブルに置いて彼女の言葉に同意する。


「つまり、あれだな。生まれつき資産や才能に恵まれて苦労していない人間はそれが当たり前で自分が恵まれていることが実感できないから達成感や幸福感を味わえない。一発当てようなんて思えない。だから花咲も叶えたいと思う夢や希望を持てない、というわけか」


 物事の全体を見渡そうとしたら、「頂点」から見下ろすか「底辺」から見上げるしかない。


 つまり「才能にも容姿にも恵まれ金にも困らない彼女」と「特に何の才能もなく平凡な僕」は、正反対だからこそ見えているものは同じだった。だから人生で一発当てたいかと訊かれて「何もない」という同じ結論に達するのは必然だったのかもしれない。


 だが、僕の言葉を彼女はやんわりと否定した。


「近いけれども少し違うな。私は金は必ずしも幸せを運んでくれるわけじゃないと実感してしまったんだ。才能があってもそれが人を幸せにはしない例を身近に見てしまったんだ。金や才能が必ずしも人生を変えてくれるわけじゃないという実例をね」

「どういうことだ?」

「私の父は脳神経関係の研究所に所属していて製薬関係の開発もしていた。研究者としてはかなり優秀で、いくつもの成果を出していた。だから私の家はまあ裕福な方だったと思う」

「……そうなんだろうな」


 僕は室内の調度品を見やりながら呟いた。


「だが母はそんな父と財産目当てで結婚した。研究に没頭する父にはあまり魅力を感じていなかったらしい。最後には若い男と浮気をして財産をもって逃げて行った」

「じゃあ、お父さんか過労で亡くなったっていうのは」

「本当は過労というより、心労が祟っていたのに更に仕事に没頭したからだと思う。遠回しな自殺に近かったんだな。今思えば」


 彼女の目はどこか遠くを見つめていた。


「前に話した通り、幸い父の研究で残った製薬関係のパテントをいくつかの大企業に貸与しているから私自身も金には困っていないがね」

「それじゃあ、恋愛とかはどうなんだ。その、ほら。好みの異性と結ばれるのだって人生の重要事と考えることもあるだろうし、一発当てることになるんじゃないか?」


 だが、僕の質問に彼女は無理に笑うようなぎこちない顔で答える。


「残念ながら今のところ、私は恋愛というものに幸せを見出すことができない」



 その言葉に僕は愕然としながら心のどこかで安堵していた。


 安堵? なぜ僕は花咲が好きな相手がいないことにほっとしている?


「母に対して誠実な愛情を向け、人生を捧げ、まじめに仕事に打ち込んだ父は『ああなった』。……他人の心だなんて、ちょっとしたことで変わってしまうようなものに自分の幸せを委ねることが怖いんだ」


 彼女は無感情に首を振って見せた。

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