第9話 ユング

「先程ヤング中尉から報告がありました。あと15分ほどで到着します」

 管制塔からの電話を受け、ゼウスは執務室の座席から立ち上がった。糊のきいたカーキグリーンの上着をはおり、頭に帽子を乗せ、部屋を出る間際に自分の机を一瞥した。

 机の後ろの窓から、すっかり茶色く色が変わった草地の滑走路が見えた。空は明るい灰色のべったりとした曇り。ごく普通の英国の天気だった。

 今日も基地の飛行隊はムスタングにガソリンを積めるだけ積んで、爆撃機の護衛に飛び立っていった。ゼウスは、ユングが今日帰ってくるという情報を聞き、出迎えるため出撃を控えることにした。情報は正しく、まず海峡を渡ったと連絡があり、ほどなく基地に降りる時間も分かった。

 飛行隊の犠牲は、前に被った4機の撃墜以外には特になかった。とはいえ、ゼウスは自分の目の前で爆撃機を撃墜されたため、とても被害ゼロという気持ちにはなれなかった。

 操縦者を失った爆撃機が、まだ生きている多くの乗員を乗せたままゆっくりと螺旋を描いて落ちてゆく。戦闘機がそれに対してできることは何もない。爆撃機に対して逆落しになって銃撃するMe109。ぐらりと揺れるB-17。そして、敵を追って雲に潜るも、標的を見つけられなかった無念さ。

 ゼウスはその気持ちを胸に秘めたまま、さらに2回の任務に出撃した。

 確かに、戦闘機の損失はなかった。前回の帰路の任務で、爆撃機に近づこうとしたMe109を飛行隊の各機が迎撃した。戦闘機を前にして冴えない機動を行う敵の8機の編隊を思うがままに攻撃し、ゼウスの部下はそのうち4機を撃墜した。

 この時期のドイツ軍との交戦は、このようなワンサイドゲームが普通のことだった。だから敵の迎撃も積極性に欠けていた。若いパイロットは空中戦の機会がないことに不満を漏らしていたが、ゼウスにしてみれば戦果だけ増え損害がないことはせめてもの慰めだった。ガンカメラのフィルムも戦果を正しく記録していた。

 爆撃機の損害は、出撃のたびに複数生じた。1日の出撃機数は800機を超えることがあるから、10機程度の犠牲は確率としては微々たるものだった。しかし、10機が墜落すれば100人が死ぬ。爆撃機がなんとか基地に帰っても、高射砲弾の破片に当たる者、戦闘機の機関銃に撃たれる者、尿意に耐えかねて飛行服を濡らし凍傷にかかる者。こういった傷ついて帰る者が多くいた。そしてその中の少なくない人数が死んだ。


 エプロンに出ると、到着したばかりの新品のP-51Dが4機ほど整備を受けていた。アルミの地肌がむき出しになったピカピカの胴体に白と黒のペンキで縞模様を描いているところだった。これが終われば機首に赤白のチェックを書き込むことになる。

 作業をしているうちの一人がゼウスに気づき、帽子を持ち上げて挨拶した。

「ご苦労」

 シンナーの臭いを感じながら、ゼウスも軽く敬礼した。あの軍曹が自分の機体に勝手に名前を書き込んだのだ。誰に指図されたのか。あるいは独断か。しかし、ペンキで文字や絵を描く才能には一目置かざるをえない人物だった。機体もすこぶる好調だった。

 やがて滑走路の風下側から1機のP-51が接近してくるのが見えた。

 P-51は滑走路の上空をまっすぐ飛び、飛行場を縦断した。その際、管制塔やエプロンに向け翼を降って挨拶をした。

 機体はP-51Bのようだった。オリーブドラブとニュートラルグレイでつや消しの迷彩塗装がなされ、その胴体と翼にインベイション・ストライプが描かれていた。操縦席はD型より胴体に深く埋め込まれ、小さい風防と枠の多いキャノピーに続いて、背の高い胴体がなだらかにつながっていた。後方視界の悪いファストバックスタイルだった。

 P-51Bは滑走路の先で左に旋回し、滑走路と平行に逆方向に飛ぶ間に高度を落とし、フラップと脚を下ろした。ふたたび滑走路に正対したときには、速度がかなり遅くなり、キャノピーも開けられて、パイロットが何度か機体の左から頭を出して前方を確認した。

 何のトラブルもなくP-51Bは滑走路の草地に車輪を下ろし、順調に滑走して無理せず速度を落とした。滑走路を2/3ほど使ったところで向きを変え、ジグザグに進みながらゼウスが待つエプロンの方に移動してきた。


 担当の兵士の誘導でエプロンの指定された位置に機体を止めると、エンジンを止めてユングが降りてきた。以前と同様の飛行服だった。飛行帽を外して顔を露わにすると、それは紛れもなく、弱冠22歳の中尉の顔だった。

「おかえり。ユング中尉。無事帰ってこれて何よりだ」

 ゼウスは右手を差し出し、ユングと握手を交わして労った。

「ただいまです。英軍からP-51が手配できるからそれで帰れと言われ、パリまで移動して戻ってきました。トミー(英軍兵士の愛称)はすぐ帰れるようなことを言っていましたが、機体の整備が終わってなくて、今日までかかってしまいました」

 ユングが簡単に経緯を説明した。

「ベルギーから直接は帰れなかったのか」

「タイフーンの操縦ができれば、ビールの輸送のついでに飛べたかもしれませんが、あいにくとあの飛行機の操縦は教わっていません。帰りのパイロットを載せる場所もないので、早々に陸軍航空軍に引き渡されました」

「まあタイフーンとムスタングを選べと言われたら妥当な判断だろう」

 ゼウスはユングが無茶をしなかったことに安心した。

「陸軍はエンジントラブルで不時着したムスタングを整備していました。英軍の言うとおり機体があって助かりましたよ。しかも、機体を受け取ったのはル・ブルジェ飛行場でした」

 ユングは少し頬を紅潮させながら飛行場の名を呼んだ。

「リンドバーグが着陸したル・ブルジェ空港ですよ! 地面に埋め込んである着陸場所の記念碑を見てきました。ニューヨークから無着陸で彼が着陸した場所に行けたんです。そこからムスタングを飛ばしてきました!」

 ユングの弾む声に、ゼウスは微笑みつつ何度もうなづいた。それから本題に進んだ。

「それで、君を攻撃したドイツ機のことだが。私の護衛していた爆撃機もおそらく同じ敵に襲われた。敵はMe109が4機の1個小隊だった。確認したいんだが…」

「4機でした」

 ユングはきっぱりと言った。

「4機のMe109が、P-51のふりをして近づいていました。そしてこちらの油断を突いて襲ってきました。一撃で小隊長を撃破し、僕の機体も被弾しました。そして急降下して雲に消えたようです。それ以外の敵は見ていません。無線は混乱していましたが、おそらくP-51を互いに109に誤認したんでしょう」

「やはりそうか」

 ゼウスは腕を組むと、足元の地面に目をやりながら、ユングが被弾した状況に思いを巡らした。


「あの、いいですか?」

 女性の声に驚いて、ゼウスは傍らにいた自分の顎ぐらいの背丈の人物に目をやった。

「はい?」

「パッカード社の技術者のエリザベス・パーカーと言います。パリから飛んできたP-51Bを受け取りに来ました」

「君が?」

 ゼウスは一歩引いて、ユングと並びながら、彼女をしげしげと見渡した。

 5フィート(152cm)いくつかの身長。癖のある赤毛とむき出しの額。後ろ髪は首の後ろで適当に結んでいる。そばかすが浮いた白い顔と緑の瞳。カーキ色のつなぎの上に革のフライトジャケットを着ている。桜色の唇は化粧の気配がなく、そこから白い歯が覗いていた。

「おかしいですか?」

 彼女はそう言って、ジャケットの前を空け、つなぎの下に浮く胸の膨らみを見せた。

「おかしいとかそういうわけではないが…」

「基地司令からは、ゼウス中佐に一言挨拶をしておけと言われました」

「ゼウス…」

「あなたですよね?」

「それは間違いないが。私はハロルド・ジェイコブソン中佐だ。この基地の飛行隊のいる航空群を指揮している」

「太平洋で零戦と戦ったそうですね」

「嘘ではないが、特に戦果など挙げられなかった」

「整備の人を何人か貸してください。エンジンの調子をもう一度確認します。多分今日のうちには運べると思います」

 ゼウスの話を全部聞かないうちに、彼女は要件を伝えると、P-51Dの整備をしている兵士の方に歩いていった。中佐の承認はあるのが前提の行動だった。

「女の技術者エンジニアですか。進んでますね」

 ユングが一言感想をつぶやいた。

「リアルおユングフラウさんだな」

 まだ唖然とした顔のままゼウスは応えた。しかしその目は、フライトジャケットの背中の裾から尻の上に出ている革のホルスターを見逃さなかった。

「とはいえ、前線ではリボルバー装備だよ」

 そう話しつつエリザベスを指差した。

「コルトですかね? S&Wですかね?」

「あとでそれとなく聞いてみよう」

 ゼウスは頭の上の帽子を正しながら応えた。

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