第8話

レースが近くなって来たみたい。

少しずつだけど、練習で走る速さが速くなって来た気がする。

試験の前みたいな感じ。

思いっきり走れたらそれでいいんだけど、それはまだかなぁ。

だって、背中の人がダメだって毎回言うんだもん……。


練習もご飯も終わって、桶も片付けられてから。

「そろそろレース近いのかなぁ。なんだかご飯がおいしいからそう思うんだー」

お向かいで栗毛の仔がそんなことを言う。

もちろん、視線はわたしの部屋の前にある草玉に向けたまま。

「そうねぇ。練習終わった後のご飯はおいしいよねぇ」

そう言いながら、わたしは窓の向こうに目を向ける。

お向かいを見たら、たぶん次に言うことはいつもの一言。

だから、わざと見ないことにする。

「向こう向いててもいいから、その牧草少しちょうだいよー」

……顔見せなくても言うんだね。


次の日。

練習が終わったかなって思ったら、背中の人がもう一回行くよってコースに連れ出してくれた。

「ラッキー!もう一回走れるの?」

聞いてみたけどもちろん答えはない。

だいたい、人間にわたしたちの言葉は伝わらない。

聞くだけ無駄だったんだけど、つい聞いちゃった。

答えがない代わりに、走らせてくれる。

最初はゆっくりだけど、だんだんペースが上がってくる。

そして、背中の人は「好きに走っていいよ」って合図をくれた。

テンションが上がる。


背中の人はなんにも言って来ない。

だから思いっきり走った。

しばらく走ったら「もういいよ」って止められたけど、目一杯走れたから満足。

とっても楽しい気分で部屋に戻った。


部屋に戻ってグレイシーさんに話をすると、「じゃあ新馬戦が近いんだな、がんばれよ」と言ってくれた。

奥の方からも「いよいよだねぇ。頑張って来なくちゃだねえ」って声がする。

頑張る、かぁ……。

走るのはもちろん頑張るんだけどさ、レースってそれだけじゃないっぽい。

グレイシーさんたちの話を聞いてるとそう思う。

きちんと背中の人の言うことも聞かなくちゃいけないんだよね。

でも、ついムキになっちゃうんだよなぁ……。


「そんな気にせんでもいいっしょ。騎手の人がうまいことやってくれるってばさ」

奥から声がする。

「そんな気楽でいいのかなあ」

「いいっしょ。勝てば馬のおかげ、負けたら人間のせいってみんな言ってるべさ」

そんなもんなのかなぁ。

そう思ってたらふっと気がついた。

わたし、奥の声の主をまだ見てない。

「ねえねえ、あなたは誰なの?」

思い切って声をかけてみた。

いつも賑やかに話をしてるけど、顔を見たことがない。

どんな馬なのかな。

もしかしたら馬じゃないのかもしれないけど。


「あれ?わからなかったかぁ。仕方ないねぇ」

そう言いながら、声が少しずつ近づいてくる。

奥の暗がりから、だんだんと声の主が見えてきて……ええっ!?


そこにいたのは、白黒模様の猫だった。

「あたしらはずっとここの厩舎に住み着いてて、あんたたち馬のことも人間のことも見て来てるからね。だからいろいろ知ってるのさ」

猫はそう言うと、眩しそうに目を細める。

わたしはただただびっくりしてるだけ。

「……ねえ、あんた知ってた?」

つい、向かいの栗毛の仔に聞いてしまう。

「気にしたことなかったなー。ボクはご飯のことしか考えてないからねー」

……だろうと思った。

「あたしらここの先生に飼われてるんじゃないけどさ。それでも同じとこにいるから気にしてるんだわ。頑張っておいでよ」

猫はそれだけ言うと、奥に戻ってった。

奥から「ご飯だよー」って先生の声がする。

そうか、猫も先生がご飯食べさせてるんだね。

でも、ここの先生に飼われてるんじゃないって……?

なんだか、わからないことがあるみたい。

気にしちゃいけないのかな。


「いよいよ明日だ。頑張ろうな」

わたしの脚をさすりながら、厩務員さんが小さい声で言った。

いつもみたいに脚元にしゃがみこんで、わたしの脚になにかないか確認してくれる。

そっか。明日がレースなんだ。

そう思ったら、少しドキドキした。

うまく走れるかな。

この間の試験のときみたいに走れるかな。

少し不安だなって自分でもわかるくらい。

でも、ここまで来たらやるしかないじゃん。

わたしが一番速いってとこ、きっちり見せて来なくちゃね。


夜になって、そろそろご飯が来る頃。

厩務員さんたちがあちこちの部屋にご飯を配ってる。

でも、わたしとお向かいにはご飯が来ない。

「明日走るからだねぇ。仕方ないけどお腹空いたぁ」

栗毛の仔はそう言ってため息をつく。

気がつけば、わたしの部屋の前にある草玉もない。

厩務員さんが持ってっちゃったんだと思った。

「レースの前の晩は飯抜きが俺たちの決まりごとなんだ。耐えるしかないよ」

グレイシーさんが教えてくれる。

そうしてるうちに厩務員さんがやってきた。

ご飯はもらえなかったけど、お水を汲んできたみたい。

お腹の足しになるかもしれないから、たくさん飲んだ。

「車で出かけるんだから、早めに寝るんだぞ」

グレイシーさんがまた教えてくれる。

はいと返事はしたけど、なんだか眠れそうにない。

お向かいじゃないけど、なんだかお腹が空いちゃって仕方ない。

早く朝にならないかなぁ……。

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