三話 「母親」

 かおるは朝からなにが嬉しいのか、鼻唄まじりでたまにステップを踏むように洗濯をしていた。

 土曜日で学校はお休みなのため、めぐりはつい午前二時近くまで小説を書いていたから寝坊してしまった。


 パチッと目が覚めて枕元の時計を見ると、まもなく八時になろうとしている。

 部屋着兼パジャマ代わりのピンク色のスエット姿で、あわててリビングに続くふすまを開けた。


「あら、起きたの、めぐ。

 おはよう」


「おはよう、おかあさん。

 寝過ごしちゃったみたい」


「遅くまで電灯がついていたから、勉強疲れでしょ。

 いいのよ、まだ寝てて」


 めぐりは目をこすり、カールした長いまつ毛を何度かしばたたかせる。


「ううん、もう大丈夫よ。

 起きなきゃ」


「朝ご飯は用意してあるから、適当に食べてちょうだいね。

 おかあさん、支度ができたらお仕事行くね」


 四階のベランダから顔を出して空を眺める。


「相変わらずの雲だけど、雨は夕方までもちそうよ。

 めぐ、お昼過ぎにはスーパーへきてくれるんでしょ」


「うん。

 おかあさんが手すきの頃を見計らっていきます」


 空の洗濯籠を手に、ベランダからリビングへもどるあいだも、鼻唄が楽しそうだ。


「おかあさん、なにかいいことでもあったの?」


「うふふ、そうよ。

 だって、めぐがお友だち用にお握りを作っていくなんて、初めてじゃない。

 おかあさん、それが嬉しいの」


 薫の笑顔に、めぐりもつられる。


「ありがとう、おかあさん。

 実はね、わたしも嬉しいの。

 だけど三十個も作るのは大変そう」


「大丈夫。

 おかあさんが手伝ってあげるから」


「はい、お願いします」


 昨夜は書き始めた小説がほぼエンディング近くまできていた。

 ここまで、つまづくこともなく一気に書いてきた。

 ノート一ページに八百四十文字。

 表裏で六十ページあるから、総文字数は五万と四百となる。

 四百字詰め原稿用紙だと百二十六枚の計算だ。

 いわゆる中編の部類に入る。


 主人公の女子高生が紆余曲折を経て、ようやく片思いであった同級生男子と結ばれる恋愛物語。

 果たして小説として面白いのかどうか。

 どこにも発表するつもりはないから、とにかく最後まで書き上げることを目標にしてきた。

 ただひとり、めぐりを友だちとして接してくれる瑠奈るなにだけは読んでもらおうかなと考えている。

 そこで気づいた。


 ちょっと待って。

 二井原にいはらさんに、わたしが小説を書くことはお話ししたわ。

 二井原さんは一番目の読者になりたいって言ってくれました。

 確かにそう言ってくれました。

 だからわたしは二井原さんにだけは読んでもらいたいなと、恥ずかしいけどそう思っていたの。

 だけど、だけどこの小説は、勘の良い二井原さんなら気づいてしまいます。

 主人公はわたしで、相手の男子が孝蔵こうぞうくんだって!

 弓道部所属で、教室の席が隣り同士ってところを書いてしまったもの。


「じゃあね、めぐ。

 おかあさん先に行ってるから。

 ああ、楽しみだわ」


 薫が仕事へ出かける後ろ姿を見送りながら、めぐりの心はここにあらず、であった。

 スクランブルエッグにベーコン、レタスとプチトマトのサラダがテーブルに上に用意されており、あとはトースターでパンを焼き、ミルクを用意するだけ。


 めぐりは「どうしよう、どうしよう」とつぶやきながら、機械的に朝ご飯の準備をしている。

 パンが焼き上がった香ばしい匂いに反応した胃が、キュッと鳴った。

 お皿にパンを乗せ、薫手作りのブルーベリージャムを塗る。


「いただきます」


 一口パンをかじった。

 酸味が抑えられた優しい甘みが口に広がる。

 めぐりの顔が天井を向いた。


 二井原さんはどんなことでも話し合える友だちでいたいって言ってくれました。

 真面目くらいしか取り得のないわたしを心から気にかけてくれる、唯一の大切なお友だち。

 それに読書しか趣味のなかったわたしに、小説を書いてみたらと提案してくれました。

 もちろん孝蔵くんのことは黙っていたけど、いつかわたしの小さな恋のお話ができたらいいなとは思っていたわ。

 二井原さんは、けっしてわたしのことは笑わないって思うのです。

 不釣り合いな恋だってわかっているけど、二井原さんなら真剣に聴いてくれると思います。

 だったらこの物語を読んでほしい。

 二井原さんは絶対にお世辞なんて言わないはず。

 面白くなければ、つまらないお話だって直球を投げてくれる。

 孝蔵くんのことが大好きだってことを、口で言うのはとても恥ずかしいから、小説を読んで気づいてくれるほうが。


「うん、わたしは決めた」


 めぐりは猛然と朝食を胃に収めていく。

 書き上げる。

 今日中に完成させる。


 二井原さんに初めて書く小説の第一号読者となってもらうため、それとわたしが孝蔵くんを大好きだってことを、こっそりと伝えるために。


 ~~♡♡~~


 しゅうは午前中の水泳部陸上トレーニングを他の部員と一緒にこなし、お昼休憩の時間に盟友を陣中見舞しようと弓道場へ向かった。

 手には食堂の自販機で買った百パーセント果汁のペットボトルを二本持って。

 道場へ向かうアスファルトの道で足を止めた。

 道着やトレーニングウエア姿でゴムきゅう巻藁まきわらで練習している弓道部員の背後に、スラリとした夏用の白いセーラー服姿の女子がいたからだ。


「あの後ろ姿は。

 志条坂しじょうざかくん?」


 教室の後ろの席に座る周は、真ん中の席でいつも凛とした姿勢で授業を受けている恋歌れんかの後ろ姿を知っている。

 天然ウエーブの、ブラウンのミディアムヘアはそんなにいない。


 手には大きめのポーチに銀色のボトルを持ち、誰かを待っている様子だ。

 声を掛けようとして、周はためらった。


 もしかして、もしかするのではないか。

 異性同性問わず好かれる明朗快活な上に、誰もが振り返るほどの美形。

 しかもトップクラスの頭脳さえ持っている。

 神がすべて惜しみなく、この世に生み出した稀有な存在。

 文武両道を絵に描いたような孝蔵には、これほど似合う相手はいない。


 周はそう思っている。

 いや、思っていた。

 チクリ、と感じたことのない小さな痛みに周は驚いた。


 なんだ、この不快感は?


 体力知力にくわえ、見栄えにも自信がある。

 しかも小中高と、感覚が麻痺するほど異性から好かれてきている。

 ただ特定の女子とお付き合いはしたことがない。

 うぬぼれではなく、自分自身にそぐう相手がいなかったから。


 孝蔵からはナンパなヤツと思われているかもしれないが、実はとても誠実な気質の周であった。

 中途半端な気持ちで付き合って、相手を傷つけたくない。

 相思相愛。

 いまでは死語字典に載っている言葉かもしれないが、周はパン屋を営む両親から度々聴かされている言葉だ。


 両親は高校の同級生であった。

 同じクラスで互いにかれあい、そして生涯の伴侶として選び選ばれたらしい。

 磁器婚式結婚二十周年のときには店を休んで、ふたりだけで一泊二日の記念旅行に出かけたくらい、仲の良い夫婦である。

 姉と目を合わせて苦笑することも、しばしばある。

 そんな両親を周はとても尊敬し、自分もそうありたいと考えていた。

 だから正式に特定の女子とカップルになったことはなかったのだ。

 

 志条坂恋歌。

 まさかこのぼくが、好きになってしまったのか?


 周はくるりときびすを返すと、弓道場を背にグランドへ歩き出した。

                                  つづく

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