第29話 宮女


「尭、先に蒼鳴宮に帰ってください。私は一人で大丈夫ですから」

「あら、宦官殿はもうお帰りですの?」

「申し訳ございません。もうすぐ、客人が訪れる予定なので彼には一足先に帰って貰いたいのです」


 訪れるのは客人とは程遠い明鳳だが、琳の手前もあり、あえて客人と伝えた。周囲の話を聞いている限り、客人が明鳳だと知ると琳は押しかけてくる可能性があった。自身に満ち、行動力に溢れた女性の行動とはいつの時代も一貫したものがある。

 先王の寵愛を得る名目で蒼鳴宮に突撃を食らわせた妃嬪を思い出し、玉鈴は長嘆した。嘘はあまり得意ではないがこの場合は致し方ない。心の中で自分に言い聞かせた。


「お客様、ですか。柳貴妃様もお帰りになるんですか?」


 翠嵐は悲しげに首を傾げた。どうやら玉鈴も居残って欲しいらしい。伺うような眼差しを受けながら玉鈴は否定するために首を左右に振った。


「お邪魔ではなければもう少し残ろうと思っております」

「お邪魔ではありませんわ。柳貴妃様とお話しできる機会など滅多にございませんもの。ごゆっくりとなさってくださいませ」

「琳様もこう言っていますし、もう少しお話ししませんか?」


 ずいっと体を前のめりにして在留を勧める二人に困惑しながら玉鈴は慎重に言葉を選ぶ。


「それではお言葉に甘えて。客人が心配なので尭だけ先に帰らせますね」


 視線を尭に向けると「御意に」と頷き——本人に自覚はないが生来の無表情が災いしたため——威圧感な動作で供手の礼をとった。房室の主人である琳がやや怯えながら退室の許可を出すと、尭は早足に出て行った。


「お二人は久々の面会と伺っております。ごゆっくりとお話しください」


 残された玉鈴はさしてすることもないので二人の様子や房室の雰囲気を観察することにした。

 美人の位を与えられた琳は、玉鈴のように一つ殿舎を与えられているわけではなく、寝室と衣装部屋など数部屋だけ与えられているようだ。通されたのはその一つだが、翠嵐の宮よりも調度品は少ない。あっても花型の香炉や長椅子など必要最低限。淡い色合いを好むためか、とても淡白な印象を見るものに与える、そんな房室だった。

 ふと玉鈴はある場所に視線を集中させた。房室の角に黒い靄が漂っている。泥のように重く、墨汁のように黒いそれは形を変え、生き物のように蠢いていた。

 じっと靄を観察していると「柳貴妃様」と翠嵐に袖を引かれたので急いで意識を二人に戻す。


「どうかなさいましたか?」


 にっこりと口角を持ち上げると翠嵐が揺れる瞳で自分を見上げていた。


「心ここにあらずなご様子だったので心配で……」

「少々、寝不足なだけです。ご心配はいりませんよ」


 寝不足、という単語に琳がぱっと顔を上げた。


「寝不足、とは翠嵐様にかけられた呪詛を解くためでしょうか? そこまで強いものなのですか?」


 心配そうに柳眉が顰められる。


「それもありますが夜の散策がとても好きなんです。昨日も夜遅くまで庭園を歩いていておりまして、それが災いしました」


 玉鈴は女性らしい仕草に見えるように恥ずかしそうに袖で口元を隠した。


 初対面の時、翠嵐には念のために自分が男である事は内緒だとを結んだが念のためである。女性は感が鋭い者がとても多いため、ほんの些細な仕草でさえ玉鈴の性別を疑う可能性があった。

 女性的な言葉遣い、仕草を心がければ玉鈴は「大柄な女人」と見られる。……しかし、偏見を持たない人間からして見れば、それを完璧に行なっても玉鈴を男と認識する者がいた。

 代表を上げれば明鳳である。

 後宮に住むのは妃と宮女。男は皇帝以外に立ち入れるのは陽物を切り落とした宦官だけ、というのが一般的な常識だが偏見を持たない、所謂いわゆる、純真無垢な彼らからして見れば玉鈴がいかに着飾っても男に見えるらしい。


 ——いえ、亜王様のあれは野生の勘と言った方が正しいですね。


 彼の子息と思えない、本能で行動する明鳳を思い出し、玉鈴は呆れたように息を吐き出すと遠い目をした。

 蒼鳴宮に帰るのが恐ろしい。尭は間に合っただろうか。備品は壊されていないのだろうか。野生児じみた明鳳と豹嘉の喧嘩はきっと壮大なものだろう。蒼鳴宮の壁に穴を開けるなどの破壊行為は無いように祈った。

 これからの事を考え表情を暗くさせた玉鈴を見て、翠嵐が心配そうに顔を覗かせた。


「なら今日は早めに切り上げましょう。寝不足なのに無理をするとお身体を壊すかも知れません」

「翠嵐様のいう通りですわ。今日はごゆっくりなさってくださいませ。柳貴妃様が病床にせると亜国が傾く恐れがあります」

「国が傾くなど、そのような事はありませんよ」


 ——知らないうちに話が大きくなったものですね。


 玉鈴は呆れ果てた。龍の半身の噂話などほとんどが嘘から出たまことであるのに、まだ信じている者がいたのか。


「いいえ、断言はできません」

「そうですわ。それに傾かなくても貴女様が臥せられたと知れば、民も動揺することでしょう」


 そこまでやわではない。——と口からでかかった否定の言葉を飲み込む。二人の様子を見れば否定しても信じて貰えないという事は何となく察した。

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