第21話 笑う半月


 臥室しんしつへたどり着くと翠嵐は乱雑に髪を飾る花と宝飾、耳飾りを取り外しつくえの上に放り投げた。金属が打つかる音をききながら翠嵐は褥に勢いよく体を預ける。


「お疲れですか」


 とばりの奥から秋雪がお湯を張ったたらいを両手に抱えて、房室に入ってきた。


「今日、とても楽しそうでしたね」


 秋雪は楽しそうに笑いながら臥所ふしどの側に盥を置くと手巾をつけて絞る。


「湯舟に浸かるのは明日にして、今日はこれで簡単にお化粧を落としましょう」

「そうね。ありがとう」

「起き上がることできますか?」


 緩慢な動作で頷くと翠嵐は体を起こした。


「自分でやるわ」

「わかりました」


 翠嵐は秋雪から手巾を受け取るとそれを顔に押し付け、ため息をつく。


「疲れたわ」


 疲れ切った声音だが、どこか嬉しそうな響きを感じ取り秋雪はにこにこ笑った。


「それは良かったです。気分転換は必要ですから」

「そうね。久しぶりに楽しいひと時だったわ」


 翠嵐は手巾から顔を離すと昼間のことを思い出してはにかんだ笑顔を浮かべた。

 秋雪は手巾を受け取るとそれを盥の縁にかけ、続いて寝衣しんいを取り出すと臥所に置いた。小さく会釈すると翠嵐の前に跪いて細腰を締め付ける帯に手をかけた。


「それにしても何故、皆さん柳貴妃様のことを黙っていたのでしょうか?」


 解いた帯を畳みながら秋雪は不思議そうにうんうんと唸った。


「反魂の術のこと?」

「いいえ、男性ということです」


 先代亜王の寵姫が男だと知られれば暇を持て余す後宮の女は好き好んで噂するだろう。けれど翠嵐も秋雪もそのような噂話を聞いたことは一度もない。

 生家が色々悪どいことをしているせいで嫌われている自覚があるがそれでも「柳貴妃は男だ」などという言葉を聞いた記憶はない。

 ならば考えれるのは一つだ。


「……恐ろしいのでしょう。龍の半身として彼が成し遂げた業績はどれも素晴らしいものよ。彼を怒らせて、怒りを買いたくないから黙っていたのでは?」


 上衣うわぎを脱ぐ前に懐から玉鈴から手渡された巾着を取り出し、それを端に置こうとしたところで翠嵐は動きを止めた。


「すごいわね。これ。本当に鳴き声が聴こえないわ」


 渡された際は半信半疑だったがこれを持ってから鳴き声に悩まされることもなくなり、身体が絹のように軽くなった。


「ならば今宵はゆっくりと眠れそうですね」

「そうね」


 夜は特に恐ろしい時間帯だ。まるで自分逹の時間だという風に鳴き声は酷く、重く、響いてくる。

 それがこの巾着を持っているだけで解消された。どんな仕組みだろうか? と関心が深くなるが玉鈴に「絶対に開いては駄目ですよ」と念押しされているので好奇心をお留める。

 巾着を側に置いて翠嵐は上衣に手をかけた。


「ありがとう。今日はいいわ。ゆっくり休んで」

「はい。隣にいますので何かありましたら言って下さいね」


 秋雪は房室を照らす牡丹の形をした燭台に近づくと中で揺らめく炎に息を吹きかけた。

 その横顔にはいつものようにおどおどした様子はない。それどころか嬉しさからか浮ついているようにも見える。


「秋雪」

「はい。どうしました?」

「えっとね」


 翠嵐は困ったように頬を掻いた。無意識に呼んでいたため、会話の先が浮かんでこない。どうしようかと寝衣の襟や袖を指先で弄びながら考える。指先が懐に仕舞っていた巾着の膨らみを撫でた。翠嵐は「あ」と小さく呟いた。


「あのね、明日、柳貴妃様の宮にお伺いしようかと思うの」

「ならば衣装を用意しますね!」

「お願い」


 嬉しそうに秋雪は声を弾ませた。「お休みなさい!」と元気よくいうと軽やかな足どりで帳の向こうへ消えていく。

 秋雪が下がったのを見届けてから翠嵐は再度、褥に身体を横たえた。

 灯りがない房室を照らすのは格子窓から差し込む月光のみ。柔らかな光のつぶてを全身に浴びながら翠嵐は明日が楽しみでくすくすと笑い声を上げた。

 蒼鳴宮に行くのは初めてだ。手土産は何にしようか。彼は何が好きなのだろうか。玉鈴と何を話そうか。そう思うとワクワクが止まらない。

 しかし、楽しい気分は玉鈴と重なるように現れた母の姿によって急激に落ち込んだ。

 代わりに思考を支配するのは昼間の情景だ。

 炎に包まれ現れた母の痛ましいその姿を見たとき、翠嵐は胸の奥を鷲掴みにされた気分になった。美しかった容貌は当時の面影すらない。痛ましい姿は最期に見た母の姿と同じだった。

 翠嵐は実父が嫌いだ。大嫌いと言ってもいい。母を無理矢理、めかけにし自分を産ませたのに最終的には母を傷つけ棄てたあの男を殺したいほど憎かった。

 いや、違う。翠嵐は自重気に両目を伏せた。


 ―― 一番嫌いなのは私よ。


 口や態度に出せない臆病者の自分が一番嫌いだ。母が正妻に棒で叩かれた時でさえ、翠嵐は縮こまって泣いていた。母はどんなに傷ついても翠嵐を守ってくれたのに母の身より自分の身を優先させた。

 悔しさに歯を食いしばる。

 目頭に熱が集まりはじめた時、翠嵐はふと可笑しな考えが頭の隅を過ぎった。


 ――柳貴妃様はどこまで知っているのかしら?


 玉鈴はまるで翠嵐の生い立ちや心情を理解したような言動をする。それは何故だろうか。

 昼間、玉鈴は反魂の術は苦手だと言っていた。死者と語らう力があるならば母から真実を聞いている可能性がある。いや、あの喉の傷では母は話すことすらできないだろう。


 ――でも母様の言葉を理解していたわ。


 読唇術どくしんじゅつというものだろうか。それにしては母の気持ちを細部まで察していたように思う。


 ――もう、いいわ。


 そこまで考えて、翠嵐は考えることを放棄した。考えても無駄だと思ったから。それに。


 ――全て暴露ばれることだから。


 全てがあの幼い亜王に知られれば、いずれ翠嵐自身も処罰を受けるだろう。

 けれど、それでいい。

 翠嵐は疲れから次第に重たくなる瞼を閉ざした。最後に視界に入ったのは笑うように煌々こうこうと輝く半月だった。

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