第33話 地底からの脱出

 アリーナから出た帰り道。廊下に立ち塞がる影が……。ブラッドだ。


「こっちの仕事は完了した。連中が気付くのは時間の問題だ。急ぐぞ」


 そう言ってレイチェル達を促す。いよいよだ。レイチェルは娘と頷き合う。


「おい、またお前か。仕事? 何の話をしているんだ、レイチェル?」


 ただ一人事態に付いていけていないチャールズが訝しむ様子になる。これ以上は隠しておけない。そしてもう隠す意味も無い。


「チャーリー、私達もう終わりよ。あなたとは別れさせてもらうわ」


「な、何だって!? 何を言ってるんだ、レイチェル! おい! お前が何か言ったのか!?」


 動揺したチャールズがブラッドに詰め寄ろうとするが、それをレイチェルが制した。


「やめて、彼は関係ないわ。……知ってるのよ、チャーリー。賞金目当てに『パトリキの集い』の誘いに乗って、エイプリルの誘拐を手引きしたわね?」


「……ッ!!」

 チャールズが色を失くす。恐らく賞金だけでなく、誘拐の手引き自体でも安くない金を受け取っていたのだろう。


「ま、待ってくれ、レイチェル。これには深い訳が……」


「ええ、さぞ深い借金があったんでしょうね。私の知らない所で。いずれにせよ、故意にエイプリルを危険な目に遭わせた時点で和解の余地は無いわ」


「……!」

 チャールズがワナワナと身体を震わせる。ブラッドが急かしてくる。


「早く行くぞ! 時間的猶予は少ない」


「ええ、そうね! 急ぎましょう、エイプリル」

「う、うん!」


 エイプリルは一早くブラッドの元に駆け寄る。レイチェルも踵を返そうとして所で、


「い、行くだと!? お、お前らまさかここから逃げる気か!? くそ! そうはさせるか! だ、誰か……!」


「……!」


 大声を出そうとするチャールズ。どの道逃げる事に変わりはないが、騒ぎになるタイミングは少しでも遅ければ遅い方がいい。レイチェルは決断した。それはこの数年、曲がりなりにも夫婦として一緒に暮らしてきたチャールズとの完全な訣別であった。


「ふっ!!」


 しなやかな脚が躍動し、ハイキックがチャールズの側頭部に命中した。女とはいえ、鍛えられた格闘家の蹴りをまともに喰らったチャールズは、物も言わずに仰け反って壁に衝突。そのまま床に崩れ落ちた。完全に失神したようだ。


「……さようなら、チャーリー」


 レイチェルは一度だけ悲し気な目をチャールズに向けた後、踵を返した。そして二度と振り返る事無く、エイプリルとブラッドを追って通路を駆け抜けていった。






 ブラッドの先導に従って、物資搬入口があるフロアに向かってひた走るレイチェル。エイプリルも小さな身体で懸命に走って付いてくる。本当は抱きかかえてあげたいのだが、レイチェルはエフードとの戦いで両肩を痛めているし、ブラッドも片腕が使えない状態なので、子供を抱えて走るには不安が残る。


 エイプリルも解っているようで、一切不満を口にする事無く一生懸命走っていた。


 部屋に寄って私物や着替えを回収している時間は無い。どの道大した物も持ってきていないので捨て置くのは問題ない。ただレイチェルは試合直後なので露出度の高い試合用のコスチュームのままであり、自分だけそんな格好なのが少々気恥ずかしかったが背に腹は代えられない。指貫きのグローブも着けたままだ。


「時間は丁度十時を回る。エイプリルが仕入れてくれた情報では、物資搬入用のエレベーターが稼働している時間帯のはずだ。一気に突入するぞ?」


「え、ええ!」


 ここまで来て躊躇っている余裕は無い。チャールズと訣別した時点でもう後戻りは出来ないのだ。そして逃げなければあのルーカノスと戦わされる事になる。選択の余地は無かった。



 搬入口付近のフロアに差し掛かるが、以前にエイプリルも見た警備員達の姿が無かった。


「皆お前の試合を見に行っているようだな。普段は警備の厚い通信室も、留守番役を押し付けられた男が一人で腐っていただけだったので今の俺でも容易く制圧できた。奴等を惹き付け警備を緩ませたという意味で、お前は立派に自分の役目を果たしてくれた。勿論、エフードとの対戦に勝利した事も含めてな。見事だった」


「ブ、ブラッド……ありがとう!」


 こんな場合ながら込み上げてくる物があり、感動してしまった。自分の役目を果たせた喜び、ブラッドにそれを認めてもらって褒めてもらう喜び、色々な感情が綯い交ぜになる。彼はいつだって彼女の事をしっかりと見ていてくれた。


 ブラッドと一緒ならどんな困難も乗り越えられる。絶対に脱出できる。その思いを強くした。



 搬入フロアの入り口。念の為エイプリルには部屋の外で待ってもらって、レイチェルはブラッドと2人で侵入する。


 中は広々とした空間で、大きなラックが所狭しと並び立ち、段ボールや発泡スチロールの箱や、ボトルなどが入ったケースが詰まっていた。ラックや荷物で意外と視界が制限されている。レイチェル達にはむしろ好都合だ。


 隣の列から作業員と思しき男が姿を覗かせる。鉢合わせだ。


「お……」


 誰何の声を上げようとした時には、ブラッドの右拳がその顔面にめり込んでいた。鼻血を噴いて昏倒する男。声を上げる間もない早業だ。


 この地形を利用すれば安全にエレベーターまで辿り着けるかも知れない。ブラッドに目線で合図されたレイチェルは急いで入り口まで戻って、エイプリルを伴って再びブラッドの元まで駆け寄った。


 今度は三人での無言の隠密行動。上手く棚に身を隠しながら、天井の照明などの位置を目印に、反対側の壁際を目指して進んでいく。幸い他には誰とも行き会う事無くエレベーターの前まで到達できた。


 そこには幅の広い武骨な業務用エレベーターが存在していた。扉ではなくフェンスで仕切られている実用性一点張りの大きなエレベーターだ。


「……!」

 そこには三人の作業員と、警備員と思しき男が一人の合計四人の男がいた。彼等が居なくなるまで待っている時間は無い。ここは強行突破しかなかった。


 ブラッドが身振り手振りで作業員の内の二人を指差し、それからレイチェルの方を指差して頷く。あの二人をレイチェルに任せるという合図だ。ブラッドは残り一人の作業員と警備員の男を受け持ってくれるようだ。


 彼が万全の状態であれば、例え四人いようと一瞬で制圧できたかも知れないが、今の腕を負傷した状態では流石に厳しいようだ。レイチェルは自分の役目を自覚し、気を引き締めた。勿論エイプリルは隠れていてもらう。



 そしてブラッドの合図と共に一気に飛び出す!



「な……!」

 まず警備員が二人の姿に反応した。だが彼が能動的な行動を起こす前に、ブラッドの鋭い蹴りが作業員の一人にクリーンヒットし、一瞬で昏倒させた。


「お前らっ!?」


 警備員が警棒のような物を抜いてブラッドに打ちかかってきた。その間にレイチェルも最初にターゲットにした作業員を打ち倒す事に成功した。だがブラッド程スムーズには行かずに、もう一人の作業員が逃げ出す隙を与えてしまった。


(く……しまった……!)


 ここで逃げられると厄介な事になる。騒ぎが一気に広まるし、エレベーターの電源を止められてしまうかも知れない。レイチェルは必死に追い縋るが、本気で逃げる男の脚には追いつけない。


 焦るレイチェルだが前を走る男が棚の間の通路に飛び込もうとした瞬間、急に足をつんのめらせて転倒したのを見て目を瞠った。よく見るとその足元に、細い棒のような物を突き出したエイプリルの姿が……


(エイプリル……!?)


 こっちを見ながら急かす娘の姿に驚きつつも、娘が作ってくれたチャンスを逃す訳には行かないレイチェルは、素早く転倒した男に後ろから覆い被さって、裸締めで締め落とした。


(ママ、やったね……!)

(エ、エイプリル……ありがとう。あなたのお陰よ)


 小声で喜んで抱き着いてくるエイプリル。どうやらクワベナ達との一件で、こういう非常時での度胸のような物が少し付いたらしい。


(だ、大丈夫かしら? 変にやんちゃになったりしないわよね……?)


 母親としてそんな事が心配になるレイチェルであった。と、その時大きな殴打音が響き、警備員が血反吐を吐きながら崩れ落ちる所だった。ブラッドが無事に警備員を制圧できたようだ。



「ブラッド……!」


 レイチェル達が駆けよると、彼は少し脂汗のような物を掻いて息を荒くしていた。左腕が折れている状態で警備員相手に立ち回ったのだ。傷が開いて痛みがぶり返したようだ。


「お、おじさん……大丈夫?」


 エイプリルの不安に震える声は、そのままレイチェルの心の声でもあった。だがブラッドは気丈にかぶりを振った。


「……問題ない。そっちも終わったようだな。よくやった。では早く脱出するぞ」


「え、ええ……」


 時間が無いのは事実だ。既に通信室の異変や、廊下に伸びているチャールズが発見されている頃かも知れない。一刻の猶予も無かった。


 ブラッドがエレベーターのボタンを操作する。すると武骨なフェンスが開いたので、全員で乗り込む。中にも緑色に発光している大きなボタンがあったのでそれを押すと、フェンスが閉まって、やがてエレベーターがゆっくりと上昇し始めた!


 地上に向かって上がっていく感触にレイチェルは打ち震えた。


(やっと……やっとこの地獄の地下から抜け出せるのね……!)


 心理的にはまるで何十年も刑務所に閉じ込められていたかのようだった。やっと……『外』に出られるのだ。エイプリルなどは涙ぐんでいた。彼女にとってもここは地獄であった。娘の気持ちを慮ったレイチェルは、しっかりと娘を抱きしめた。エイプリルもまた母親をギュッと抱き返した。ブラッドはその光景を見て目を細めた。



 実際の時間は二、三十秒くらいだろうか。遂にエレベーターが止まった。『地上』に着いたのだ。フェンスがゆっくりと開いていく。




「ああ……外よ! 外だわっ!」


 感極まった母娘はフェンスが開くのももどかしく、エレベーターの外に飛び出した。時間差があったので、ここに物資を搬入してきた者達は既にいないようだ。


 そこは開けたヘリポートのような場所であった。ここから直接物資を搬入していたらしい。頭上を木々が覆っておらず、午前も十時を回った日中の日差しが容赦なく降り注いだ。だが地獄の穴から抜け出してきたレイチェルにとっては恵みの陽光に他ならず、両手を広げて全身で日光を浴びる。


 まるで地下の淀んだ空気に穢された身体が浄化されていくかのようだった。こんなに日光が気持ちいいと感じたのは生まれて初めてではないだろうか。


 力一杯深呼吸する。空気がおいしい。そよ風が心地良い。今レイチェルは、生の喜びを存分に味わっていた。勿論エイプリルも同様である。このまま娘と抱き合ってクルクルとメリーゴーランドでも踊りたい気分だったが、


「ここは見晴らしが良すぎる。国家警察が踏み込んでくるまでの間、身を隠せる場所を探すぞ」


「……!」


 ブラッドの声に、現実に引き戻された。そうだ。まだ『パトリキの集い』の魔の手から完全に逃れた訳ではないのだ。レイチェルは慌てて気を引き締めた。


「そ、そうね。早く行きましょうか」


 状況も忘れて浮ついていた気恥ずかしさから、取り繕うように歩き出すレイチェル。エイプリルが慌ててその後を追う。ブラッドはそんな彼女の姿を見ながら苦笑しているようだった。

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