第7話 家族
いきなり書状の書き方を訊ねられ、初は面食らった。
「花見の宴への誘いじゃ。書いてみよ」
いまいち状況が飲み込めない初へ、あの湖面のような眼差しが向けられる。
断ったらどうなるか。一瞬想像して、初は頭を振った。
どうにもならないかも知れない。が、断れる雰囲気でもない。少なくとも、顰蹙を買うのは間違いなさそうだ。
初は、大八に鯛を預けると「今日の夕飯にするから、
光定が、可笑しそうに一連のやり取りを見つめる中、初は頭の中で文面を練り上げた。
直定の硯を借りて墨をつけ、書面にさらさらと筆を走らせる。
時候の挨拶から始まり近況の報告、相手の体調を気遣う一言、本題である宴への誘い──
「ほう、庭訓往来ですな。姫様は、もうそこまで習い終えたので?」
横から文面を覗き込んだ商人が、感心したふうな声を上げる。
一通りの内容を書き終えると、安定は初の手から書状を受け取った。
ざっと文面を流し読み、特に感情を見せるでもなく、
「よく学んでおるようだな。字の癖が少々気になるが、これならば誰に出しても恥は掻くまい」
安定は、書状を懐に仕舞った。それで終いだった。
実にあっけない始末に、初は肩透かしを食らったような心持になった。いつもどおりの反応と言えばそれまでだが、どうしても不安を感じてしまう。
(親が子供を怒るのに、こんな調子でいいのか?)
もっとこう引っ叩くなり、怒鳴りつけるなり、いろいろあるだろう。別に暴力を振るわれたいわけではないが、慣れない反応に胸の中がもやもやする。
直定が呆れたように「まったく、父上は甘いのだから」と嘆息していた。
「いやはや、聞きしに勝る神童ぶりですなぁ」
一連のやり取りを見ていた商人が、うんうんとしきりに頷いた。
「初姫様の博識ぶりについては、かねてより聞き及んでおりましたが、まさかこれほどとは。立派な御息女を持たれて、阿波守様もさぞかし鼻が高いことでしょう」
あからさまなゴマ擂りに、初は辟易した。
「別に、これくらい大したことじゃ……」
「なんのなんの、ご謙遜召されるな。その歳で庭訓往来を学び終えるなど、なかなかできることではない」
「そうだぞ、初。儂など、今でも書状を書くのが億劫でな。だれぞ代わりに書いてくれぬかと、常々悩んでおる」
光定が追随すると、商人はしかりしかりと顎先を擦った。
「大身の領主とて、側近くに右筆を仕えさせるのが常なれば。室町殿をお支えする管領殿の中にも、文字の読み書きがおぼつかない御仁もおられるとか。それに比べて、初姫様のなんとご立派なことか!」
商人は、芝居がかった仕草で膝を叩いた。
「若き日の関帝や道真公とて、姫様には及びますまい」
よくもまあ、こんな歯が浮くような台詞をぺらぺらと。
商人にとっては、相手を褒めるのも仕事のうちなのだろうが、見え見え過ぎてどうにも胡散臭かった。
「姫様が男子であれば、いずれ一廉の将となられたでしょうに。いやあ、実に惜しい」
むっとした初は、一言いってやろうと口を開きかけた。
それを制したのは、再び反物の吟味に戻った安定だった。
「
「いやいや、
そのときの情景を思い出したのか、商人の青海は嫌々と首を振った。
光定が、興味深そうに身を乗り出す。
「都の
「それはもう!
青海は、両の手のひらを擦り合わせた。また物の怪が寄ってこないよう、神仏に祈っているのかもしれない。
青海にそこまでさせる都の姫に、初は少しだけ興味を覚えた。
「初、この反物はどう思う?」
安定は、おもむろに吟味していた反物を、初に差し出した。
嫌な予感がした。
初は、おずおずと反物を受け取りながら、いやまさかと自分の考えを打ち消す。さすがに、そんなはずは。
差し出されたのは、きれいな緋色の反物だった。
手触りからして絹だろう。全体に細やかな花の刺繍が施され、ところどころに金糸が用いられている。一目で高価な品とわかる一品だった。
口ごもる初に、気に入らないと見た安定は、別の反物を広げて見せた。
「これなど、どうだ? 明で織られた
「はあ……まあ、たしかに綺麗ですが……」
「姫様ならば、こちらも良いですな」
青海は、薄手の反物を取り上げた。
「天竺より取り寄せた
「ふむ。ならば、それにするか。初、向こうの部屋に行って採寸を」
「儂も、一反もらおうかの。どうせ沙希の奴は、初と同じものを欲しがる」
「あの、父上っ」
これはやっぱり、まさかなのでは?
たまらず、初は声を上げた。怪訝な顔をする安定に、嫌な味のする唾を飲み下しながら、
「もしかして、また着物を作るのですか?」
「ああ、そのために青海を呼んだ」
ちょっと近所で買い物するみたいな口調である。
嫌な予感が当たった初は、げんなりと肩を落とした。
「……父上。着物なら、この間作ったばかりです」
「服は、いくらあっても困らん。お前とて、まだまだ成長するのだ。身体に合わせて新調していかねば、すぐに着るものがなくなってしまうぞ」
「だからって、こんな高価なものを……」
初は、更紗の端を持ち上げた。
天竺といえば、インドのことか。色鮮やかな染料で塗り分けられた布地は、確かに美しい。特に着飾る趣味のない初の目から見ても、出来の良さがよくわかる。つまり、それだけ高価な品ということだ。
こんなもの着て歩いたら、全身に札束をぶら下げいるのと同じだ。絶対落ち着かない。
「父上、やっぱりお断りします」
ここは、びしっと言うべきだろう。
初は居住まいを正すと、安定に向けて訴えた。
「今年だけで、すでに十着。蔵の中には、これまでに仕立てた着物が、それこそ山のようにあります。それを仕立て直せば、服なんていくらでも」
「夏は、汗をかく。いちいち洗って干していたのでは、間に合わぬ」
それに、と安定は少々胡乱な目で初を見据えた。
「お前は、外で汚れてくることが多い。備えは、十分にしておくべきだと思うが?」
ぐっ、と初は言葉に詰まった。事実だけに否定できない。
初が黙り込む間に、安定は次々と高級な織物を手にしていく。
青海が勧めれば、きんきらの派手な反物も、複数の布地を組み合わせた、いかにも奇抜な布地にも見入ってしまう。
このままでは、悪趣味な成金みたいな格好をさせられる。
危機感を覚えた初は、何か手はないかと部屋中に視線を走らせた。
光定は、当てにならない。あれはもう、青海のとりこだ。あんなひよこの絵が描かれた布を買うなんて、正気の沙汰じゃない。
ならばと直定に視線を送れば、こちらはしきりに肩を震わせて、うつむいている。初が、安定を諌めるよう目鼻で合図を送っても、口を押さえて喘ぐばかり。
どうやら、必死で笑いをこらえているらしい。
何がおかしいのかわからないが、今はそんな場合じゃないだろう。
初が、柳眉を逆立てて唸ると、直定はますます笑いを深くしてうつむいた。
(このっ、気付けって!)
「女子が、そんなに苛立つものではありませんよ?」
いきなり初の耳元で、妖艶な声がした。
「皺ができたら、どうするのです。せっかくの美しい顔が台無しですよ?」
冷たい指先が、つぅっと首筋を撫でる。
ぞわっ、と鳥肌が立つのを感じた。思わず声を上げそうになり、初は慌ててその場を飛び退いた。
「そ、それは心臓に悪いから、やめてくださいと何度も!」
「そうだったかしら?」
唇に指を当て、くすくすと秘めやかに笑う美女が、背後に立っていた。
「綺麗な肌だったから、つい」
赤い舌が、ちろりと指先を舐めた。
「やはり、若い娘は違いますね」
まるで魔女か、吸血鬼のような物言いである。
ぬらりとした動きで距離を詰めてくる美女に、初は首筋を押さえながら後退った。
相手は、人外魔境の類だ。近づいたら、何をされるかわからない。具体的には、撫でられたり摩られたり、抱きしめられたりする。気分次第では、匂いも嗅がれた。
「
安定がたしなめると、小夜と呼ばれた美女は、笑みの形に目を細めた。ぞくりとするような笑みだった。
「母が、かわいい娘を構っているのですよ? 何がいけませんか」
大変遺憾な事実に、初は全身をぶるりと震わせた。
毎度思うのだが、本当にあの人から人間が生まれてくるのか? どう見たって、
濡れたような瞳で見つめてくる小夜は、初の反応が面白いのか、袖で口元を隠しながら笑っている。それが獲物を品定めしているように見えて、初はますます警戒心を尖らせた。
「
小夜の陰から飛び出してきた子供が、初を目掛けて走り寄った。
両手が塞がっていた初は、子供の突撃を身体で受け止める。
ちなみに、子供の身長はちょうど初の鳩尾ほど。そこに十五キロ強の物体が、全速力でぶつかればどうなるか。
身体をくの字に折り曲げた初は、必死に口から溢れかけたものを飲み下した。危うく中身が出るところだ。
「と、
「はい! 元気にしております!」
にっこりと笑った虎丸が、頭をぐりぐりさせる。再び込み上げてきた初は、やんわりと虎丸の頭を掴んでやめさせた。
「これ、虎丸。初様がお困りでしょう?」
しずしずと着物の裾を引き摺って現れた女性が、か細い声で訴える。
人外美人の小夜と違って、こちらは正統派の美女だ。まだ十代なので、美少女といったほうが良いかもしれない。
全体的に細身で、どこか儚げな雰囲気をまとった女性──
逆流の危機と無言の戦いを繰り広げていた初は、視線で謝ってくる華に、大丈夫と片手を上げた。
「華。起き上がっても、大丈夫なのか?」
慌てて立ち上がった直定が、華に寄り添う。
この二人は夫婦で、虎丸は直定の子供だ。だから正確には、初は虎丸の叔母に当たる。姉と呼ばれているのは、叔母さん呼びはやめろと、初が訴えたからである。
心配げな直定に、華は少し困ったような顔で笑った。
「ええ、今日は体調がよくて。お医者様からも、少し身体を動かすようにと言われておりますし」
「それでも無理はいかん。お前は、身体が弱いのだから」
「これ、直定。あまり過保護にしては、華も気詰まりです。ほどほどになさい」
いつの間にか安定の隣へ移動していた小夜は、青海から反物を受け取っていた。
青い織布を広げ、白く形の整った指先で、うっとりと生地の手触りを確かめる。
「まあ、綺麗だこと」
「お方様に、良くお似合いで」
「母上もですか!?」
初は、悲鳴を上げた。
「止めてください! このあいだ買った反物だって、まだ仕立て終わってないのに!?」
「あら、女子とは思えない物言いだこと」
小夜の流し目に、初は身構えた。
「服は、女子の刀も同然。武具をケチる
「いや、ですが」
「華、あなたも見繕ってもらいなさい。この鶴の柄など、縁起が良いですよ」
小夜の呼びかけで、館中の侍女たちまで部屋に押し寄せてきた。
こうなったら、もう誰にも止められない。そもそも小夜にかなう人間など、安宅家の家中には一人もいない。
生地が足りないと見た青海は、使いの者を店へと走らせた。またどっさりと新たな反物が届けられるのだろう。
「姫様、これはどういう?」
びっくりするほど近くに立っていた菊に、初はのけ反った。
見ると、亀次郎と六郎も一緒だ。
亀次郎は、父の光定から、ひよこ柄の布地を取り上げている。代わりに銀の刺繍が施された反物を渡しているが、あっちのほうが高いのでは?
六郎は、恐々と部屋の中を覗き込んだ。本人は隠れているつもりなのだろうが、障子を盾にしても、あまり意味はない気がする。
「初。そんなところに立っていないで、こっちにいらっしゃい。菊も一緒ですよ」
菊が、目で状況を問いかけてくるが、初にだってわかるわけがない。
もはや部屋の中は、ちょっとした露店状態だ。
観念した菊は、小夜に捕えられて、粛々と着せ替え人形の役に徹していた。簪やら櫛やらで飾り立てられた姿は、なにかのアート作品のようだ。他にも、小夜の好みに適った侍女が、次々と犠牲になっていく。
近いうちに、自分もああなるのか──初は、なるたけ無心になることを心掛けた。
「初姫様には、こちらの品などもいかがでございましょう?」
青海に手渡されたのは、直径二十センチほどの手鏡だった。ガラスではなく、銅の表面に錫を付着させた金属鏡である。
初は、鏡に映った自分の姿を確認した。
まず目に付くのは、黒く澄んだ切れ長の瞳だ。茹でたての卵のように、つるりとした輪郭に、秀でた額。肩に掛かるほどの黒髪は、日の光を受けて、鈍く銀色に輝いている。
年のころは、十歳前後。将来は、確実に美人になるだろう顔だ。昭和の大女優の若い頃の写真に、こんな顔があった気がする。
自分の顔を矯めつ眇めつしていた初は、ためしに頬をつねってみた。すると鏡の中の顔も、同じように頬をつまむ。
「やっぱ夢なのかなぁ、これ?」
だって、どう考えても現実ではあり得ない。
なぜなら自分は、男のはずなのだ。それも、二十歳を過ぎた大学院生。間違っても、姫と呼ばれるような美少女ではない。
いったい、自分の身に何が起こっているのか?
初は、いつまでたっても解消しない疑問に、首を捻るしかなかった。
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