20-婚姻

 男には、二人の従者が付いていた。

「森の精霊よ」

 男が俺に呼びかける。金髪碧眼、いかにも王子といった服装だ。

「そなたの呼び声に応え、ここに馳せ参じた。人の子である王家の娘を、我が妻として貰い受けたい」

 堂々とした声。真摯な眼差し。この男、マーを生涯大切にできるだろうか。

「……人の子よ」

 俺は身を隠したまま応えた。だいぶ芝居がかっていることは承知だが、言わばこれも生きるためだ。乗りきるしかない。

「人に棄てられし我が娘を、今一度人の世に容れると申すか」

 男は大きく息を吸い込み、決然と言った。

「幼子を棄てしは悪魔の業。悪魔は必ず見つけ出し、その身を火にくべることを約束する」

 焼き殺す、とまで言うか。まあいい。恐らくはそれなりに高貴であるマーの出自を確かめる気があるなら、あとは好きにやればいい。


 贈り物の菓子に魅入られたマーに、俺は人間世界の話をした。ただ恐ろしいだけのものではないと。国と人、社会、暮らし。そして、本来ならそこにマー自身がいたであろうことを。

 長い長い俺の話を静かに聞いていたマーは、最後にこっくりと頷いた。

「そっか」

 どこまで理解したかはわからない。俺は、菓子についていた手紙に返事を書くことを提案した。紙はないから貰った手紙の裏に、濃い色の草の実を潰したインクと、小枝を削ったペンを使って、マーは返事を書いた。

「ターのこと、書いてもいいの?」

「いや、俺のことは伏せておいてくれ。そうだな……森の小人か精霊にでも育てられたことにしとけばいい」

 その時は軽い気持ちだった。だが、二人が手紙のやりとりを重ね、男から求婚の申し出があったとき、マーが森の精霊に許可を得ないとわからない、などと書いてしまったから面倒なことになった。男と会うことを拒否してマーだけを森の外に出すことも考えたが、俺自身、そんな手放し方では納得がいかない。どうせ森の精霊だと思われているなら、その名を借りて相手の覚悟を確認してやるか、と考えたのが、この三文芝居というわけだ。


 俺は軽く深呼吸して、隣で隠れているマーの背中を押した。マーは俺を見て、ターありがと、元気でね、と小さく呟いた。不安と恥じらいと喜びが少しずつ混ざった、花嫁の笑顔。

 マーが立ち上がって、一歩進み出る。俺はもう一度声を張った。

「ならば我が娘、その手に委ねよう。ただ二度と、この場所に何人たりとも足を踏み入れるでないぞ」

 ついでに、この一言を言っておきたかった。王子の花嫁の育った場所を見てみよう、と観光名所にでもされたらたまったものではない。

「あいわかった。決してこの地に人が立ち入らぬこと、約束しよう」

 男の言葉に、ふ、と俺は小さく息を吐いた。これ以上の接触は不要だ。

「マー、お前もだぞ。二度と戻って来ちゃダメだ」

 小声で俺が言うと、マーは前を向いたまま、こくりと小さく頷いた。ゆっくりと、男のもとに歩み出す。緊張しているのが手に取るようにわかる。当たり前だ。あいつは、俺が育てたんだから。

 マーは初めてここへ来たときの青い服を腰に巻いて、男の前に立った。男は一礼して、マーの手の甲にキスをする。男が何事か話しかけ、マーはにこりと笑って頷いた。


 婚礼は、成立した。


 二人が消えていった木々の奥をしばらく眺めていた俺は、さて、と立ち上がった。寝床に戻って、目につく全ての燃えるものをためらう前にたき火に投げ込んでいく。

 マーと暮らした痕跡を、一かけらも残すわけにはいかない。人間がいかに信用ならないかはよく知っていたし、王子の約束が彼ひとりの決意だけで守れるものでないことも分かっていた。それでも約束させたのは、ちょっとした時間稼ぎのつもりだ。ここを棄てて数年が経てば、植物たちが完全に痕跡を消してくれるはずだ。


 念入りにたき火を消して、土や石で作った道具は壊して埋める。一つ一つに思い出があった。あんなに小さかったマー。驚くような早さで人は成長し、知識を身につけていくと教えてくれた。感情が、胸から溢れかえりそうになる。ダメだ、思い出すな。俺はどう頑張ったって結局、一人で生き続けるしかないんだ。死別よりよっぽどいいじゃないか。思い出すな。泣き顔も、寝顔も、笑顔も。声も、匂いも、足音も。

 着ている狼の毛皮と、ほとんど使い物にならなくなったナイフだけを持って、俺は、普通の人間の一生よりも長く住んだ、慣れた土地を後にした。

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